幻想
花路すずめ
水
息が苦しくなり、目を覚ます。気管へと大量の水が流れてくるのに驚いて、まだ少しだけ肺に残っていた空気を吐き出す。
口から出た泡は水面からの光にさらされてキラキラと乱反射する。澄んだ水にはよく映え、あたかも幻想を見ているかのように感じる。
綺麗だな、と思ったのもつかの間激しい頭痛に襲われる。たぶん酸素が足りてないからだろう。
必死にもがいて浮き上がろうと試みる。しかし身体はどんどんと薄暗い底へと引きずりこまれてしまう。
ふと、足元に違和感があることに気づく。妙に右足だけが重いのだ。まるでオモリを足にくくりつけているかのように。
この重さをどうにかしたくて右足に視線を向ける。すると、周りの水とは違い濁った色をした水が目に入った。赤色に濃い黒を混ぜたような色をした水は、青白い水の世界には溶け込めておらず違和感を拭えない。
さらに伸ばした手で右足を触ってみる。ざらざらとした質感を感じる。これは…布、だろうか。
なぜ自分がここにいて、足に布が括り付けられているのかを思い出そうと、ズキズキと痛む頭で思考を巡らせる。
過去に自分が体験したはずの記憶を必死に辿る。
やがて1人の女が脳裏に浮かんだ。
それはとても——とても美しい女だった。
その美しさは村で一番どころか、自分がこれまで出会ったどの女にも勝る。白い肌、艶のある黒髪、細く切長の目。キュッと結ばれた唇に紅をさしただけで誰もが見惚れた。
…。全てが繋がり記憶が蘇る。自分は、彼女のことを愛していたのだ。
自分は彼女と幼い頃から一緒に過ごしていた。やはり女は幼い頃から桁外れに美しかった。
女が道を歩くだけで皆振り返って、彼女に見惚れる。ただでさえ美しい少女であった彼女は、成長するにつれて艶かしさを纏う女へと変化した。
女となった彼女の容貌には、さらに磨きがかかり、惚れない男はいないと言われるほどに成長を遂げた。
多くの男を惚れさせた、魔性の美貌。
だからこそ、男達はこぞって求婚し、ついには豪商の息子へと嫁ぐことが決まっていた。
しかし、だ。自分と女は密かに恋仲であった。なぜ彼女が冴えない自分を相手に選んだのかわからない。きっと小さい頃から過ごしてきたこと以上に大きな理由はないのだろうと思う。
ただ自分の前で笑う彼女はいつもより少し幼く見えた。その幼い姿を自分だけが知っていると言うことへのわずかな優越感。確かに彼女と過ごす日々を幸せだと感じていた。
このまま過去の幸福だけに浸り続けていたい。しかし、無情にも足にくくりつけられたそれが現実を突きつけてくる。
足の重さは罪の重さ。これが自分のしでかしてしまったこと。
女の記憶が蘇るたび、胸の鼓動が少し早くなる。
頭を打ちつけてそのまま思い出さなければ良かったのに、とつい考えてしまう。
愛しているなら、諦めれば良かった。自分がいなければ彼女は幸せを掴むことができた。その事実をわかってはいた。
でも彼女に好意を向けられたことはとても嬉しかった。
だからこそ離れられなかった。結局彼女の優しさに甘えることしかできなかった。
後悔しても遅いことはわかっている。しかし、自分の浅はかさへの怒りは止まらなかった。
自分がいなくなればいいとわかっているのに、必死に息を吸おうともがいた。自分の中途半端さが情けない。憎い。足で女と繋がっていなければ、今頃水面へと浮かび上がり女との約束すら果たしていなかっただろう。
後悔、怒り、憎しみ。胸の奥の強い感情が混ざり合い、さらに強い感情が生み出されていく。これを数回繰り返すうちに、段々と意識がこの世から離れ出していることに気がついた。
ふと母親、父親、兄妹、中の良かった友人たちの顔が浮かんだ。皆、こっちを向き笑顔だ。水面からはかなり離れ、光は遠のいているはずなのに、眩しく感じて少しクラクラする。自分はもうあの横に駆け寄ることはないし、その権利すら存在しない。
後ろからの視線を感じ振り向くと、あの女がこちらへと手招きをしているのが見えた。女の立つ場所は家族や友人のいる場所とは違いどこまでも暗い世界だ。周りの暗さも相まって、女の肌の白さはより一層際立ち、紅の色の美しさをより引き立てる。女はいつものように美しかった。その美しさはきっとこの世でなくても変わらないのだろう。
自分は少し考えた後、女に向かってわずかにはにかんで見せた。そして世界に別れを告げるためにゆっくりと目をとじる。
おそらく、自分は罪と共に暗い世界へ女と向かうことになるのだろう。たぶん、それはそれで自分にとっては幸せなのではないか、とも思ってしまう。最後まで自分勝手な思考には思わず笑うしかない。
光は少しもの惜しげに小さくなり、やがて、消えた。
幻想 花路すずめ @Suzume-hanamiti07
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