令和2年度入学生

伊吹 藍(いぶき あおい)

令和2年度入学生

 令和2年度、2020年の春、私は大学生になった。

 必死こいて勉強をし、第一志望の大学に現役合格することができたが、私が望んでいた「大学生」としての生活は“あるもの”に奪われた。

 2020年で察しがつく方もいらっしゃると思うが、“あるもの”とは新型コロナウイルスである。

 新型コロナウイルスの影響で、まず入学式が無くなった。2021年には入学式を執り行ったらしいから、「入学式が無かった年」というのは私たちの世代だけだろう。次に「キャンパスライフ」そのものが無くなった。当時、大学構内に立ち入ることすら禁じられていたうえ、授業が6月の中旬までなかった。6月に始まった授業もZOOMを使った想定していなかった授業。パソコンの画面をボーっと眺めて課題をネットで送信するだけの言わば作業だった。いわゆるキャンパスライフが無いことの弊害としてもう一つ挙げられるのが、「人間関係の構築」ができないことである。ZOOMで繋がってはいるけれど、映っているのはその人の名前だけで、どんな顔で、どんな声で、どんな性格かまではわからなかった。また、サークルの活動も制限されていたため、私は結局入りたかったサークルには入ることができなかった。

 ……しかし、悪いことばかりでもなかった。

 前述したように6月まで授業が無かったため、4~5月の間、好きなことを好きなようにできた。もっとも、飲食店などは軒並み閉店していて、現在のように食べ歩きをしながら観光地を巡るみたいな体験こそできなかったけれど、私はこの期間中に初めて行った浅草寺が今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。

 現在だったら考えられないが、風神雷神門の門前には誰もおらず、仲見世通りには手を繋いだ老夫婦のみがいるだけだった。

 浅草寺には多少の人がいたが、老人か私と同世代と思わしき人ばかり。おそらくだが私と同世代と思わしき人たちは、私と同じく大学の授業がなくなって、手持ち無沙汰になった人だと思われる。あの頃の浅草にまた行きたい……。


 ――6月、7月の授業を終えて、夏休みも終えた9月下旬、私は「書道」の授業を選択していた関係で週に一度だけ、大学へ行く機会を得た。毎週火曜日、忘れもしない。

 書道を担当していた教授が、それはまぁ癖のある方で、まず早口でなにを言っているのか分からない。それから、墨は固形の物でないとダメとか、筆は5000円以上のモノしか受け付けないとか、ルールと言っていいのかわからないけれど、そういうのにものすごく厳しいというか、正直面倒くさい方だった。

 今思い返せば笑い話だけれど、週に一度だけの所沢から渋谷への登校や書道の授業のストレス、毎週出される山積みの課題が重なり、この頃から私の体調は徐々に悪くなっていく。当時、コロナウイルスに感染していないにもかかわらず、味覚が無くなった。

 しかし、なんだかんだで後期の授業を終えて、成績も200人強いた同級生の中で26番目の成績を叩き出すことができた。あの時は嬉しかった。

 そんな喜びも束の間、春休みが終わり、私は二回生になった。

 二回生になってからは演習の授業に加え、当時教員を目指していたため必要な単位を取るために、大学への登校が週に一度から、火曜日と土曜日の週二日になった。

 この頃は大学内の規制も比較的ゆるくなってきて、学生の姿がチラホラ散見されたり、食堂や購買部が開いたりした。

 余談だが、私の通っていた大学はうどんが非常に美味(味覚が無くても美味しいとわかるくらい)でたまらなかった。

 ――これでやっと、思い描いていたようなキャンパスライフをおくれると思っていた矢先の出来事だった。体に異変が起きはじめたのだ。

 先に書いたが、既に「味覚を失う」という異変は起きていた。しかし、さらに常に感じる強い動機や手の震えが私を襲った。挙句の果てに、膨大な課題や登校・授業の疲労からか強いめまいを感じて、山手線だったか副都心線だったか記憶が定かではないが、渋谷駅のホームから転落したこともあった。幸い近くにいた人と駅員さんに助けられたが、あの時電車が来ていたら……と考えると恐ろしい。

 そして決定的なモノが私を襲った。それは帯状疱疹である。

 主に右半身に赤黒いボツボツのようなものが出てきはじめ、服がこすれたりするとビリビリとした強い痛みが私を襲った。この帯状疱疹の写真が残っているが、今見てもヒヤリとする。よく耐えていたなぁと感心するほどだ。

 当時、帯状疱疹なんて知らなかった私は「いつか治るだろう」と考えていたが、一向に治る気配がない。皮膚科へ行くと「危なかったね。あと一歩で後遺症が残るところだったよ」と言われ、加えて「大学は休んだほうがいいよ」と言われた。そこで「あぁ、俺無理をしていたんだな」と思った。五月の十二日の事である。

 その時、私はあまり覚えていないのだが、母曰く、皮膚科から帰ってきた私が大学で使っている教科書をすべて燃やそうとしたという。それだけ精神的に疲弊していたということだろう。

 教科書放火未遂事件があったため、母が心配をして精神科へ連れていかれた。5月14日の事だ。

 診断結果は「適応障害」だった。

 適応障害……無論大学は休まなければならない。結果、2021年度前期の単位をすべて落とすという偉業を成し遂げた。

 夏休みの最中、9月の4日、私は後期の授業を休学するために休学届を事務に提出しに行った。小雨が降る中、誰もいないキャンパス内で傘を忘れて濡れている自撮りが残っている。

 休学中の記憶はあまりないけれど、とにかく脱力感というか虚無感に支配されていたのは覚えている。

 また、この時期、母が突然占い師になると言いはじめて「何を言っているんだ」と思ったのは覚えている。

 その後、母はもちろん占い師になることはなく、私も2022年の3月末に大学を退学した。この時は、この先どうなるのかと不安な想像ばかりしていた。というのも、母も職場でパワハラを受け失業したばかりだったのだ。――結果から言ってしまえば、私と母は心療内科に通いながら、生活保護を受け取る形で生活することになった。現在も変わらずだ。

 「どこで間違えたんだろう」と今でも思うことが多々あるが、今こうして呼吸をして、五体満足でパソコンをカタカタとタイピングできる事が、いかに幸せなのかを噛みしめながら、これからもたくさんの物を書きたいと思う。大学をやめた事を後悔と呼ばないために。

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