貧乏男爵令嬢だったはずが、嫁入り先の吸血鬼大公閣下に執着されています。《血の君は、琥珀の蜜に酔う。》
らぴな
第1夜 魔王様は貧血気味?
「わあ……!これ、ほんとに食べていいの……?」
目の前に広がる光景に、リリィベルは震える息を吐いた。
視界を埋め尽くすのは、艶やかに輝くローストビーフの山、山、山。
その隣には、宝石のように煌めくフルーツの盛り合わせや、濃厚な香りを漂わせるクリーム煮込みが並んでいる。
煌びやかなシャンデリアも、着飾った貴族たちのダンスも、今のリリィベルの目には入らない。
「夢みたい。うちの食卓なんて、昨日も一昨日も、カチカチの黒パンと具なしスープだけだったのに……!」
リリィベル・フェインは、貧乏男爵家の次女である。
今日の夜会は、借金まみれの家を救うための婚活の場として、なけなしの旅費をはたいて家族総出で乗り込んできた。
姉や両親は今頃、血眼になって有力な貴族へ挨拶回りをしているはずだ。
けれど、色気より食い気のリリィベルにとって、ここはただの『食べ放題の天国』だった。
「ん~っ!美味しい~!」
人目を気にせず、ローストビーフを頬張る。
口の中でとろける脂の甘さに、リリィベルは頬を押さえて身悶えした。
幸せすぎて、ここがお城のパーティー会場だということすら忘れそうだ。
――その時だった。
「……おい。そこで餌を食っている雑草」
背後からかけられた、嘲笑うような冷たい声。
リリィベルが驚いて振り返ると、そこには金髪碧眼の、いかにも高貴そうな青年が立っていた。
整った顔立ちだが、その瞳にはリリィベルを見下す意地の悪い光が宿っている。
この国の次期皇帝、ヘリオス皇太子だ。
「えっ、あ、私……?」
「お前以外に誰がいる。花を飾ることもせず、芋掘り農民のように食ってばかり……」
ヘリオスは手にしたワイングラスを回しながら、露骨に顔をしかめた。
周囲の令嬢たちが、クスクスと意地悪な笑い声を上げる。
(ううっ、やっぱり食べるのに夢中になりすぎて、マナーが悪かった……?)
リリィベルは慌てて口元のソースを拭った。
謝って、早くこの場を離れよう。そう思って頭を下げかけた、その瞬間。
「――待て」
ヘリオスが、逃がさないとばかりにリリィベルの細い腕を掴んだ。
その指が食い込み、痛みで顔をしかめる。
「僕の相手をしろ。田舎娘には一生の誉れだろう?」
その笑顔は、ねっとりとしていて不快だった。
まるで、面白そうな玩具を見つけた子供のような残酷さ。
「い、嫌です!離して……!」
「黙れ、雑種」
ヘリオスがさらに強く腕を引き寄せた、その時だ。
――ゴオオッ……
突如、大広間の空気が一変した。
窓の外から、季節外れの凍てつく暴風が吹き込み、巨大なカーテンが乱暴に踊る。
煌びやかだったシャンデリアの光が一瞬にして明滅し、会場は墓地のような静寂と闇に包まれた。
「ひっ……!?」
ヘリオスが怯えて手を離す。
会場にいたすべての貴族が、本能的な恐怖に震え上がり、入り口を凝視した。
この冷気の出どころを、彼らは知っているからだ。
重厚な扉が、まるで無形の巨大な手に押し開けられたかのように、轟音を立てて開く。
そこに立っていたのは、北の極寒の地を支配する冷酷無比な『魔王』。
エンディミオン・クロード・フォン・ヴァルハイト大公、その人だった。
光を寄せ付けない漆黒の髪、肌は雪のように青白く、まるで生きる彫刻のよう。
その瞳は、深淵の闇の色であり、その場にいるすべての者を、価値のない石ころのように見下ろしている。
黒いローブの襟から覗く首筋は、病的なほどに滑らかで美しく、その造形は人間を超越していた。
しかし、その全身から発せられる威圧感は、本能の奥底に訴えかける、理性の及ばない、生命としての圧倒的な畏怖だった。
「邪魔だ」
エンディミオン大公の声は、氷を叩き割るように冷たく、低く、大広間の隅々まで響き渡った。
彼が一歩踏み出すたびに、床が凍りつくような幻覚を覚える。
誰もが息を止め、彼の視線が誰に向けられるのかを恐れて震えていた。
皇太子のヘリオスですら、腰を抜かさんばかりに青ざめている。
――けれど。
その場に一人だけ、まったく違うことを考えている少女がいた。
(あれ……?)
リリィベルである。
彼女は、恐怖よりも先に、純粋な違和感に首を傾げていた。
(みんな、どうしてそんなに震えているのかしら……?)
リリィベルは不思議そうに首を傾げた。
たしかに、お部屋が急に寒くなったけれど――それよりも。
(あの人、顔色が真っ白じゃない……?)
リリィベルは、おずおずと前に進み出た。
周囲が「やめろ!」「殺されるぞ!」と目で訴えるのも気づかない。
彼女は、魔王の目の前まで歩み寄ると、心配そうにその顔を覗き込んだ。
「あの……」
「…………」
大公の足が止まる。
感情のない、氷のような瞳がリリィベルを見下ろした。
普通なら、その視線だけで気絶してしまいそうな威圧感だ。
けれど、リリィベルはこてんと首を傾げ、思ったことをそのまま口にした。
「お顔色がとっても悪いですけど……もしかして、貧血ですか?」
しん、と会場の時が止まった。
誰もが耳を疑った。
魔王に向かって「貧血ですか」などと、命知らずにも程がある。
大公の目が、わずかに見開かれた。
今まで誰からも向けられたことのない、純粋な心配の眼差し。
彼はしばらく呆然としていたが――やがて、その薄い唇が微かに吊り上がり、乾いた笑いが漏れる。
それは、氷が砕ける音のように冷たく、微かに愉悦を含んでいた。
リリィベルには、その笑いがどこか楽しそうに見えた。
一方で、周囲の貴族たちは違う。
絶対的な冷徹さで知られる大公の予測不能な反応に、さらなる混乱と恐怖を覚えていた。
「……面白い」
低く、甘い声が鼓膜を震わせる。
大公は、リリィベルに向かって優雅に身を屈め、彼女の小さな白い手の甲を、冷たい指先でそっと包み込んだ。
そして、その手の甲に、誰も予想しなかった魅惑的な口づけを残す。
その口づけは、ただの挨拶ではなく、獲物につけた印のようだった。
「貴様、名は?」
「あ、えと……リリィベル、です」
突然の口づけに目を丸くし、リリィベルは裏返った声で答えた。
大公は、ゆっくりとたたずまいを直すと、リリィベルの頭上に影を落とし、その耳元へ秘密を打ち明けるように、甘く、低い声で囁く。
「また会おう。――俺の
大公は、呆然とする皇太子や貴族たちを一瞥もせず、漆黒のマントを翻して闇の中へと消えていった。
残されたリリィベルは、キョトンと自分の手を見つめる。
「……ねくたる?」
それが、貧乏男爵令嬢リリィベルと、吸血鬼大公との、運命の、そして勘違いだらけの出会いだった。
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貧乏男爵令嬢だったはずが、嫁入り先の吸血鬼大公閣下に執着されています。《血の君は、琥珀の蜜に酔う。》 らぴな @lapina21
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