澱の福音

いぬがみとうま🐾

澱の福音

  第一章 ヴェレゾン(色付き/境界の喪失)


 クロマトグラムの波形が、沈黙する雪原のように平滑になることを私は望んでいた。

 モニターに映し出されたピークは、酢酸エチルの突出を示している。閾値を超えた揮発酸。それは一般に「不快臭」と定義され、かつての人類が「悲嘆」と呼んだ情動の分子構造と驚くほどに相似形を成す。

 私はマイクロピペットを操作し、逆浸透膜を通過した純水を、その赤黒い検体へ滴下する。脱アルコール処理と揮発酸の除去。我々の都市において、ワインとは農産物ではない。それは工業的に純化された、忘却のための溶媒であるべきだった。


 ラボの空気は、過剰な換気によって常に無臭の真空に近い。

 ここで処理される液体はすべて、過去という汚染物質を含んでいる。土壌(テロワール)が記憶してしまった、不都合な歴史の残滓。戦争の硝煙はミネラルとして、飢餓の記憶は窒素不足として、ブドウの根は盲目的に吸い上げる。それらは発酵という名の熱狂を経て、ボトルの中に澱として沈殿する。

 私の仕事は「醸造矯正官(エノロジスト)」。

 その澱を濾過し、鋭利すぎる酸を削ぎ落とし、誰の心も掻き乱さない「正しい平衡」へと液体を導くことだ。


「ロット番号409、除酸終了。pHは3.5にて安定」

 音声入力がテキストとして保存される。

 目の前のビーカーで揺れている液体は、もはやピノ・ノワールではない。それは品種という個性を剥奪され、アッサンブラージュ(ブレンド)されることを待つ、無名の構成要素だ。

 私はその上澄みを微量、舌に乗せる。

 味蕾が信号を脳へ送る。第一アロマに、かすかな青臭さ。メトキシピラジン。未熟な果実のシグナル。だが、それは許容範囲内だ。ここには苦痛がない。かつてワインが持っていたとされる、あの暴力的なまでの「物語性」――ある年は雹が降り、ある年は熱波が肌を焼いたという、天候への隷属の記録――は、完全に漂白されている。


 都市の市民は、この透明なバランスを愛している。

 彼らはグラスを傾け、合成コルクの無機質な感触を楽しみながら、決して酔うことなく、ただ心地よい微睡みだけを摂取する。そこには、他者という異物が混入する余地はない。

 ヴェレゾン。

 ブドウの果皮が色づき、硬い緑色の粒が柔らかく膨張する生理現象を指す古語だ。酸が糖へと変わり、果実が自らの境界をあやふやにしていく時期。

 しかし、このラボにはヴェレゾンは訪れない。私たちは境界を維持し続ける。私とあなたの間に。昨日と今日の間に。安全な飲料と、危険な記憶の間に。

 遠心分離機が低周波の唸りを上げている。私は白衣の裾を直し、次の検体へと手を伸ばす。カベルネ・ソーヴィニヨン由来の検体には、硫化水素の還元臭が含まれている。腐った卵の臭い。あるいは、地下室で長く隠蔽されていた鬱屈の臭い。

 私は硫酸銅の溶液を準備する。

 化学反応式は嘘をつかない。銅イオンは硫黄と結合し、不溶性の沈殿物となって底に落ちる。悲しみは質量を持つ固形物となり、フィルターに引っかかって捨てられる。

 世界はこうして、数式通りに清浄に保たれる。

 私たちが「美味しさ」と呼ぶものは、今や官能の喜びではなく、分子的な整合性がもたらす安堵感の別名に過ぎないのだから。


  第二章 ジュ・マスト(果汁/混沌の抽出)


 そのボトルが搬入された瞬間、ラボの空調システムが微細な異音を立てたように感じた。気圧の変動か、あるいは私の鼓膜が拒絶反応を起こしたのか。

 押収品保管庫から回されてきたそれは、遮光性の黒い袋に包まれていた。

 都市の地下、廃棄された旧排水区画で発見された非認可の栽培区域(イリーガル・ヴィンヤード)。そこで極秘に醸造されていたとされる液体。

 袋を開ける。

 現れたのは、埃とカビにまみれたガラスの塊だった。エチケットには、ただ一行の数字だけが印字されている。

 『Undefined』

 存在しない年号。リニアな時間軸から逸脱した、時間のエアポケット。


 私は手袋を二重にはめ、コルクスクリューをねじ込む。

 乾いた悲鳴のような音を立ててコルクが抜かれた。その瞬間、強烈な揮発成分が立ち上る。

 それは「香り」などという生易しいものではなかった。

 湿った土、錆びた鉄、腐葉土、動物の体毛、そして血。

 ブショネ(コルク汚染)の特徴であるトリクロロアニソール(TCA)の黴臭さが、圧倒的な密度で鼻腔を侵犯する。しかし、それは単なる劣化ではなかった。その腐敗臭の奥底に、何か有機的な熱源が潜んでいる。

 私は震える手で検体をシリンジに吸い上げ、質量分析計のポートに注入する。


 モニター上のスペクトルが乱舞した。

 数値が、物理法則を嘲笑うかのように明滅する。

 Brix(糖度)0.00%。

 完全発酵を示唆する数値だ。糖分は一粒残らず食い尽くされている。ならば、生成されたアルコール度数は?

 エラー表示。

 再計測。

 lim

 x→ ∞

 測定不能。あるいは、無限大。

 あり得ない。酵母が糖を分解して生成できるアルコールには生理的な限界がある。15%、高くても20%程度で酵母自身が当たり前に死滅するからだ。しかしこの液体の中で、発酵というプロセスは止まっていない。糖が無いにも関わらず、何らかの未知のエネルギーを代謝し、増殖を続けている。熱力学第二法則への反逆。エントロピーは増大せず、むしろ秩序だった何かが構築されようとしている。


 私は液体の一滴をスライドガラスに垂らし、光学顕微鏡のステージにセットした。

 倍率を上げる。

 赤紫色の視界の中で、微粒子がブラウン運動をしている。酒石酸の結晶、酵母の死骸、そして――。

 息を呑んだ。

 そこに「それ」はいた。

 フィロキセラ。

 十九世紀、全欧州のブドウ畑を壊滅させかけた微小な害虫、ブドウネアブラムシ。この完全衛生都市においては、教科書の中だけの存在とされていた絶滅種。

 だが、レンズの下で蠢くそれは、私の知る生物学的なフィロキセラとは異なっていた。

 その輪郭は、有機的な曲線ではなく、鋭角的な幾何学模様で構成されていた。六角形の頭部、螺旋状の口吻。それらが集まり、離れ、まるで何かの文字(コード)を記述しているように見える。

 それらは、ブドウの根を食い荒らす害虫ではない。

 世界の「根(ルート)」に寄生し、そこから吸い上げた情報を書き換えるための、生きたプログラム。

 フィロキセラたちは、ガラスの中で明滅しながら、ある特定のパターンを繰り返していた。それは警告信号のようでもあり、誘惑的な舞踏のようでもあった。

 彼らが食んでいるのは植物の維管束ではない。

 彼らは、都市が地中深くに埋設し、コンクリートで蓋をして隠蔽した「時間」そのものを吸い上げ、それを果汁(マスト)の中へと吐き出しているのだ。

 このワインは、液体ではない。

 これは、ハッキングされた歴史のデータベースだ。


 顕微鏡から目を離しても、網膜には六角形の残像が焼き付いて離れなかった。

 私の背後で、質量分析計が警告音を発し続けている。分析不能の未知の化合物が、システムの論理回路を侵食し始めていた。

 私は恐怖した。

 しかし同時に、私の口腔内には、唾液という名の欲望が溢れ出していた。

 この汚染された、論理の破綻した、猛烈に臭い液体を、この身に取り込みたいという、原始的な渇望。

 それは、安定した「正しさ」の中に安住してきた私が、初めて抱いた「問い」だった。


  第三章 マロラクティック(乳酸発酵/酸の変質)


 その一滴は、重力に逆らうようにピペットの先端に留まっていた。暗赤色の、凝縮された時間の種子。

 私は震える指でそれを自身の舌へと落とす。

 都市法典第三条、未検査有機物の体内摂取の禁止。衛生管理規約違反。自己汚染罪。脳内で警報が鳴り響くが、それは遠い岸辺の潮騒のように無意味だった。

 液体が舌の粘膜に触れる。

 瞬間、鋭利な痛みが走る。

 リンゴ酸。二つのカルボキシル基を持つ、未熟で、刺々しい現実の酸味。それは青い果実が捕食者を拒絶するために纏う武装であり、あるいは寒冷な気候が大地に刻み込んだ拒絶の印である。

 私の口腔内で、両端からの唾液とワインが混じり合い、温度が上昇する。

 ここで起きるべきは単なる嚥下ではない。変成だ。

 

 目を閉じる。暗闇の中で、極小のバクテリアたちが目覚める幻聴がする。オエノコッカス・オエニ。乳酸菌。彼らが、あの鋭角的なリンゴ酸の分子構造に食らいつく。

 炭酸ガスが弾ける微細な振動。

 硬質な現実が、柔らかく、まろやかな物語へと書き換えられていく。

 酸味の角が取れる。棘が溶け、バターやクリームを思わせるジアセチルの香りが鼻腔へ抜ける。これがマロラクティック発酵。

 ワイン科学において、それは「酸の減退」と記述される現象だが、今、私の身体で起きているのは「歴史の受肉」だった。


 視界が明滅し、ラボの白い壁が溶解する。

 代わりに現れたのは、泥だ。

 見渡す限りの、粘着質で、黒く、臭気を放つ泥濘。

 私は自分が、ラボの床ではなく、どこか別の時代の地層に立っていることを知覚する。足首まで泥に埋まっている。いいや、違う。私の足は根となり、地中深くへと潜行している。

 根毛が触れるもの。

 それは無機質なミネラルではない。カルシウム? マグネシウム? 否。

 それは骨だ。

 大腿骨のカルシウム、眼球だったものが溶けた硝子体のリン、血液に含まれていた鉄分。

 私の根は、誰かの肋骨を抱きしめ、そこから養分を吸い上げている。


 風景が早回しで展開する。

 かつてここには都市などなかった。あったのは、果てしない殺戮の野だ。

 兵士たちが倒れ、農民が飢え、疫病が肉を腐らせた。死体は埋められることもなく積み重なり、腐敗液となって土壌に浸透した。

 我々の都市が誇る「肥沃な大地」とは、堆肥化された先人たちの成れの果てだ。

 ブドウの樹々は、その死の養分を貪欲に吸い上げた。

 根が吸い上げたのは「窒素」ではない。「無念」だ。

 果実が蓄えたのは「糖」ではない。「遺言」だ。

 私が今、口に含んでいるこの液体は、数千、数万の死者たちが最期に吐き出した息の凝縮体に他ならない。


「……汚染」

 私は譫言のように呟く。

 だが、その概念は反転していた。

 都市の白い外壁、完全な空調、無菌の飲料水。それらは「清潔」なのではない。それらは、この地下に眠るおぞましい死の堆積を覆い隠すための、巨大な「隠蔽工作」だったのだ。

 我々が「清澄」と呼んで排除してきた澱。それこそが、この土地の真実(テロワール)だった。

 逆に、私が守ろうとしてきた「衛生的な正しさ」こそが、生命の連続性を断ち切る猛毒のホルマリンだったとしたら?

 

 口の中に広がる味わいは、もはや酸味でも甘味でもない。

 圧倒的な「複雑さ」。

 喜びと悲しみが、愛と憎悪が、高分子ポリマーのように重合し、分かち難く結びついている。

 清らかなだけの人生など存在しないように、清らかなだけのワインなど存在し得ない。

 ブレタノマイセスの放つ獣臭は、生きようとする意志の悪臭だ。

 酸化のニュアンスは、大気と交わろうとする開放の味だ。

 私は膝をつく。

 涙が流れた。だが、それは悲しみからではない。

 私がこれまで「欠陥」として除去し続けてきたすべての要素が、実は世界を構成する不可欠な臓器であったことを知った、畏怖からの落涙だった。

 マロラクティック発酵が完了する。

 鋭利な事実は、私の血肉となり、豊満な物語となって全身を巡り始めた。

 私はもはや、以前の私ではない。

 私は汚染された。

 いや、私はようやく、発酵を始めたのだ。


  第四章 スーティラージュ(澱引き/分離する自己)


 鏡の中の男は、人間という種の定義から逸脱しつつあるように見えた。

 皮膚の下層、真皮のあたりに、紫色のあざのような色素沈着が広がっている。

 アントシアニン。

 ブドウの果皮に含まれる色素配糖体。本来、植物の細胞内でのみ合成されるはずの物質が、私の表皮細胞を染め上げている。

 それは打撲痕のようにも、あるいは高貴な僧侶の衣のようにも見えた。

 私は自身の指先を見つめる。爪の間から、微かに酒石酸の結晶が析出している。

 体温は三十九度を超えているだろう。だが、それは発熱ではない。メイラード反応にも似た、緩やかな熱変性が体内で進行している。


「スーティラージュ(澱引き)が必要だ」

 乾いた唇から漏れた声は、擦れたフレンチオーク樽のような響きを持っていた。

 澱引きとは、発酵を終えたワインを別の容器に移し替え、底に沈んだ酵母の死骸や固形物から液体を分離する作業を指す。

 清澄な魂と、重苦しい肉体との分離。

 かつての私は「矯正官」だった。逸脱した数値を平均値へと押し戻す、秩序の番人だった。

 だが今の私は、その職務自体を「澱」として認識している。

 私の精神の上澄みは、すでに別の容器へと移されることを渇望している。


 深夜、都市の回廊を歩く。

 監視カメラのレンズが私を捉えるが、警報は鳴らない。私のIDカードは最高レベルの権限を持っている。システムはまだ、私を「管理者」だと誤認している。私がすでに、システムを腐敗させる酵素そのものに変質しているとも知らずに。

 目指す場所は、中央貯水プラント。

 この都市の心臓部であり、すべての市民に「無菌の水」を供給する巨大な動脈の起点。


 通路の壁面が脈打っているように見える。

 視界の端で、幻覚の蔦がコンクリートを突き破り、鋼鉄の配管に巻き付いていく。

 私の歩行はふらついているが、目的意識は結晶のように硬質で透明だ。

 懐には、あの黒い袋に入ったボトルがある。

 中身は残り半分。

 だが、この半分で十分だ。

 これは「種(スターター)」なのだから。

 たった数ミリリットルの培養液が、数トンのタンク全体を発酵状態へ導くように、このボトルの中にある濃縮された「記憶のウイルス」は、都市の全水量を汚染するのに十分な力価(ポテンシャル)を持っている。


 プラントの最深部、メイン・リザーバーの上部に立つ。

 眼下には、青白く照らされた膨大な水が、鏡のように静止している。

 H2O。不純物を含まない、論理的に正しい物質。

 そこには味も、匂いも、記憶もない。

 市民たちはこれを飲み、渇きを癒やすと信じている。だが、記憶を持たない水を飲むことは、自らの内側を空白で満たすことに等しい。彼らは生きているのではなく、ただ保存されているだけだ。


 私はボトルの口を傾ける。

 躊躇いはなかった。これはテロリズムではない。これは「アッサンブラージュ」だ。

 あるいは、巨大な規模で行われる「ドサージュ(門出のリキュール添加)」だ。

 黒い液体が、重力に従って落下していく。

 水面に波紋が広がる。

 最初は小さな染みに過ぎない。拡散係数に従い、ゆっくりと広がっていく。

 だが、水中の溶存酸素と触れ合った瞬間、化学反応が爆発的に加速するだろう。

 フィロキセラ・コードを持ったナノマシン的な微生物たちが、水分子の結合角を書き換え、情報を複製し始める。


「酸化還元電位の逆転」

 私は手すりを握りしめ、眼下の変容を見守る。

 還元的な環境に閉じ込められていた都市が、今、強制的に酸化(熟成)へと開かれる。

 明日の朝、蛇口を捻った市民たちは、コップ一杯の水の中に、祖父たちの叫びを聞くだろう。

 シャワーを浴びる彼らの皮膚には、忘れ去られた土地の記憶が刺青のように浮かび上がるだろう。

 彼らは混乱する。嘔吐するかもしれない。

 社会的な「欠陥臭」が街に充満する。

 秩序は崩壊し、論理は泥の中に沈む。

 だが、そのカオスの中でこそ、初めて彼らは「自分たちが何を飲まされてきたか」を知る。


 私の視界が、急速に色を失っていく。あるいは、色が濃くなりすぎて黒に近づいているのか。

 アントシアニンの重合が進み、タンニンが私の神経回路を凝固させていく。

 意識が沈殿する。

 澱引きの時間だ。

 私という個体は、ここで澱となって容器の底に残る。

 しかし、私が解き放った「意味」は、上澄みとなって都市全体へ流れていく。

 それは甘美な救済ではない。

 渋く、苦く、臭くて酸っぱい、現実への回帰だ。


 足元のグレーチングに、紫色の汗が滴り落ちた。

 私は笑った。その顔はきっと、熟れすぎて破裂した果実のように醜く、そして美しいはずだ。


  第五章 アッサンブラージュ(調合/不可逆な式)


 夜明けと共に、都市の導水管(ヴァスキュラー・システム)が脈動を開始した。

 何百万という蛇口が一斉に開かれる。朝のコーヒーのために、洗顔のために、あるいは乾いた観葉植物のために。無色透明であるはずの液体が、カップへ、シンクへ、人々の口腔へと注がれる。

 最初の異変は、物理的な色調の変化ではなく、認識の位相ズレとして観測された。

 高層アパートのダイニングで、ガラスのコップを煽った男が動きを止める。彼は水の分子構造の中に、あり得ないはずのテクスチャを感じ取る。

 舌にまとわりつく収斂性(アストリンジェンシー)。

 それは本来、赤ワインに含まれるタンニンが唾液タンパク質と結合し、凝固する際に生じる摩擦抵抗だ。しかし、彼が飲んだのは純水のはずだった。

 男は咳き込む。鼻腔の奥(レトロ・ネーザル)で、香りが爆発する。

 濡れた犬の毛皮。なめし革。枯れた薔薇。森の下草。そして、押し潰された大量のベリー類の死骸。

 男の網膜に、幻視がオーバーレイする。

 窓の外に広がる無機質なスカイラインが揺らぎ、コンクリートの壁面から、太古の蔦が血管のように噴き出す。アスファルトが割れ、黒々とした腐植土が隆起する。

 男は絶叫しようとしたが、喉から漏れたのは言葉ではなく、どこか遠い時代に死んだ誰かの、名前のない祈りだった。


 アッサンブラージュは完了した。

 私がプラントの底で解き放った「汚染」は、都市という巨大なタンクの中で、完璧な均一性をもって拡散していた。

 パニックは、波紋のように広がっていく。

 地下鉄の乗客たちが一斉に嘔吐する。彼らが吐き出したのは胃液ではない。彼らの祖父母が、そのまた祖父母が飲み込み、消化しきれずに遺伝子の螺旋の中に隠匿していた「屈辱」の記憶だ。

 衛生局のサーバーがダウンする。

 モニター上の数値は、あらゆる正規分布を逸脱していた。pH計は酸性とアルカリ性の間を狂ったように往復し、汚濁負荷量は計測限界を突破する。

 だが、これは毒ではない。

 ただの「情報過多」だ。

 希釈され、濾過され、滅菌されていた世界に、本来の濃度が戻ってきたに過ぎない。

 人々は、自分たちが立っている地面が、強固な盤石などではなく、死者たちの骨粉と排泄物が幾層にも積み重なったミルフィーユであることを知覚させられている。

 彼らは酔っているのではない。

 歴史という名の、アルコール度数無限大の猛毒に、シラフに戻されているのだ。


 私の意識は、もはや肉体の輪郭を保っていない。

 貯水槽の底、暗く冷たい深淵で、私はゆっくりと沈降していく。

 澱。

 発酵を終えた酵母の死骸。酒石の結晶。色素の塊。

 それらは不要物として捨てられる運命にあるが、澱の上での熟成(シュール・リー)においては、液体に旨味と厚みを与える重要な供犠となる。

 私の四肢はほどけ、タンパク質の鎖が切れ、アミノ酸へと分解されていく。

 自己溶解。

 細胞壁が破れ、私の中にあった知識、エゴ、後悔、そして愛のようなものが、周囲の液体へと溶け出していく感覚。

 痛覚はすでにない。あるのは、圧倒的な安らぎと、重力への完全な服従だけだ。

 私はもう、ワインを矯正する者ではない。

 私は、ワインそのものになる。

 いや、もっと根源的な、この土地の記憶装置(テロワール)の一部へと還っていく。

 遠くでサイレンの音が聞こえる。だがその音波もまた、液体の中では歪み、クジラの歌声のように低くて高くて、優しく響く。

 誰かが私を飲んでくれるだろうか。

 私の成分を含んだ水を飲み、その苦味に顔をしかめ、それでも喉の渇きを癒やすために飲み下す。その瞬間、私はその誰かの血肉となり、細胞の一部として再構成される。

 個の消失。

 これこそが、私が求めていた究極のアッサンブラージュだったのかもしれない。


 

 ――数時間後か、数百年後か。時間の概念はすでに酸化され、琥珀色に変色している。

 静寂が戻った都市の一角で、あるいは廃墟となったその場所で、誰かがグラスを傾けている気配がする。

 その人物は、グラスのリム(縁)を透かして光を見つめ、静かにスワリングする。

 立ち上る香気。

 そこには、かつての衛生的な都市が誇った「無臭の潔癖さ」は微塵もない。

 あるのは、混沌と、複雑さと、どうしようもない生活の臭いだ。


「……オフ・フレーバー(異臭)だ」

 誰かが呟く。その声には、非難と、奇妙な愛着が入り混じっている。

「カビた地下室。湿った段ボール。トリクロロアニソール(TCA)。典型的なブショネだね」

「ああ。ひどい欠陥だ」

 別の声が答える。

「でも、妙に長い余韻がある」

「そうだな。この腐敗臭の奥に、かつて人間と呼ばれた種族の愚かな熱量を感じる」

「飲むか?」

「飲もう。これしか残っていないのだから」


 グラスが触れ合う音がする。

 それは、世界という巨大なヴィンテージが、不可逆的な変化を受け入れた合図のようでもあった。

 正しさなど、どこにもない。

 ただ、時にブレーキをかけながら熟成していく現象があるだけだ。

 そして、あなたが今読んでいるこの文字列もまた、長い時間をかけて瓶の底に沈殿した、黒く重い澱の一つに過ぎない。


(了)

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