雪山にて

望月ひなた @SAL所属

雪山にて


 肺を刺す冷気が、気道を凍て付かせる。

 無駄だと分かっていながら、気を紛らわせるように、マフラーをきつく締める。


 吐き出した白い息はたちまち消え去り、鋭い寒さと、寂しさだけが残った。

 空は曇りがかっていて、とても綺麗とは呼べなかった。


 私は、父を探していた。

 一面の白に沈む、この山で。




 父は、私の故郷である麓の村で、弓の名手だった。


 狐や狸、鹿、鴨。

 時には熊も仕留めた。

 父の狩った命は、村人の腹を満たし、村を潤した。


 そんな父は、皆から尊敬されていた。

 私も父のようになりたいと、憧れていた。

 だから私は、早くから弓を取り、父と一緒に山に入った。


 地形の見方、天気の読み方、動物の習性、植物の見分け方。

 狩人に必要な事は、全て父から教わった。


 頭が呆けて徘徊するようになっていた祖母が、行方不明になった時も。

 母さんが他所に男を作って出て行った時も。

 父は黙々と、仕事をしていた。


 そうして数年が経った冬。

 冬眠し損ねた熊が、村人を襲った。

 飢えた熊は民家に侵入し、家の者を手当たり次第襲った。


 村は騒然となり、すぐに父と私、他にも数十人で、熊を仕留めるべく山に入った。


 だが、想定外の事態が起きた。

 私たち親子は、他の者達とはぐれ、遭難してしまった。


 運良く見つけた洞穴の中で、父と寒さを凌いだ。

 最初は、持っていた装備や食糧でどうにかなった。

 だがそれらはすぐに底をついた。


 飢えと寒さが、私たちを襲った

 体の震えが止まり、頭の中がぼんやりと霞んできた。

 寒さも感じなくなっていた。

 朦朧とする意識の中で、父が立ち上がるのを見た気がする。


 だが思い出せるのは、そこまでだ。


 気づいたら、私は村の、自分の家にいた。

 ベッドに寝かされ、介抱されていた。

 体はあちこち傷だらけで、腹についた熊の爪痕が、深かった。

 助け出された時は、呼吸も心臓も、ほとんど止まっていたそうだ。


 そして、父はいなかった。

 もしかしたら、あの熊に連れ去られたのかもしれないと、皆は震えが上がった。


 だが、熊はそれ以降現れなくなった。

 父が尊い犠牲を捧げてくれたからだと、誰もが父に感謝し、祈った。


 体が回復してから、私は山に入った。

 父を探すためだ。

 他の村人達は、あの熊を恐れて、誰もついてきてくれなかった。


 何度も何度も、私は山へ入った。

 父が死ぬはずない。

 きっとどこかで生き延びている。


 だって、父の視線を、息遣いを、気配を、そこかしこで感じるのだから。


 父さん、と呼びかけてみる。

 期待を込めて。今日こそは、と祈って。


 返事は唐突に来た。

 私の頭の中に。


〈お前は我に、あの男を捧げると約束した。よもや忘れたか?〉


 それは、父の声ではなかった。

 男とも女とも、子供とも老人ともつかない、不思議な声だった。

 人間のものとは思えない声だった。



〈捧げよ〉



 その声を合図にするように、ぶおーという息遣いが不気味に響いた。


 村を襲った熊だ。

 体中に矢が何本も刺さり、凍った血が毛皮に筋を作っていた。


 私は、既に準備しておいた矢を2本、弓につがえて同時に放った。


 冷たい空気を割いて、矢は真っ直ぐに飛んだ。

 一本は鼻に、一本は目に命中した。


 私を追ってきた熊は倒れ、雪原に沈んだ。

 準備していたのは、毒矢だ。

 本来狩りには使わないが、人を襲った熊は確実に仕留めなければならない。


〈よくやった…!技術の継承は完璧だったな〉


 先程から聞こえるこの声は何だろう。

 初めて聞く声ではない気がした。以前どこかで…。


〈そうか…人の心は弱い。恐怖がお前の記憶に蓋をしておるのだな〉


 声は心から愉しそうだった。

 背中がざわざわする。

 それは子供の頃、体の大きい蟻を一匹だけ、体の小さい蟻の巣に落としたのを、じっと眺めていた時の感覚に似ていた。


 熊の倒れていた場所には、男が倒れていた。

 鼻と目に二本の矢を受けて、死んでいた。


 紛れもなく、父だった。


 あぁ、と声が漏れる

 全部思い出した。


 あの時。

 洞穴で、寒さに凍えて死を待っていた時。

 父は立ち上がり、熊になって私を食おうとした。

 腹の傷はその時についた。


 朦朧とした頭でも、驚きと恐怖は感じた。

 その時に、あの声が響いた。


〈その男を捧げよ〉

〈そいつの血を分けた、お前がやるのだ〉

〈さすれば、命は助けてやろう〉



〈さぁ、どうする?〉



 私は頭の中で、その言葉を思い浮かべた。

 そして、まだ熊になりきっていなかった父の肩に、ナイフを刺した。


 父は逃げた。

 弓を構えた私から。

 なぜそんな事ができたのか、自分でも分からない。


〈新たな信徒よ。我に忠義を尽くせ。定期的に供物を捧げるのだ。お前の父親も、そうやって我に仕えた〉


 そうか。

 呆けた祖母も、不貞をした母も。

 父が捧げたのか。



〈見返りとして、これからはお前と対峙したあらゆる動物が、お前を恐れるようになる。狩ることも容易かろう〉


〈お前は若い。だ〉

〈年老いて干からびた父親と違って、男を惹きつける事ができるであろうなぁ〉


〈さぁ、どうする?〉


 私は、鈍色の空を仰いだ。

 不安な色をしている、世界の終わりのような。


 私は忘れていた。

 だが、心は忘れていなかった。


 記憶に蓋をされていても、あの日の選択は正しかったのか。そのことだけを今日まで考え続けていたのだ。


 だが、今分かった。

 あの選択は正しかった。


 父から子である私へ、知識と技術は継承された。

 そして、この力で、私は父と同じになれる。

 いや、それ以上になれる。


 体の奥から込み上げる興奮に、私は走り出した。

 斜面を駆け上がり、思い切り叫ぶ。


 わー!と叫んだ声は、ぶぉぉぉぉ!という咆哮に変わる。


 手の甲が、黒い剛毛で覆われている。

 指先には固く鋭い爪が生え、手は巨大な肉球になっていた。



 寒さも、もう感じない。



 山頂から見るその景色は、私の知らない景色だった。

 だがきっと、父も見ていた景色だ。

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