桜色の記憶と紺色の絆~何度でも、君を好きになる~
神無月 風
桜色の記憶と紺色の絆~何度でも、君を好きになる~
高校二年生の教室。出席番号の関係で、テスト期間は必ず僕の隣の席になる女子は、口数が少なくて、いつも物静かなクラスメート。休み時間にみんなが会話している間も一人で読書している。
一年生の時からそうだったと聞いた。誰ともつるまない。部活も帰宅部だって。
ずっと……僕は話しかけたいと思っていたけれど、彼女の背は確かに全てを拒絶していた。
ハロウィンのバカ騒ぎも終わった十一月のある日、学校帰りに彼女を見かけた。
「上映会やってます」
街中でチラシを配っている。僕も受け取ったけれど、何年か前に流行った記憶喪失のラブストーリー映画だった。彼女は受け取ったけれど、配布している人たちから自分が見えなくなると、チラシをくしゃくしゃっとまるめて、道に捨てた。
僕は慌てて拾って、「捨てるのは自由だけど、道に捨てるのは良くないよ」と思わず声をかけていた。
「佐々木くん」
振り返った彼女が瞳を丸くして、僕の名前を覚えてくれていたんだと分かった。
「丹下さん」
初めて名前を呼べたと少し嬉しかった。丹下さんはしょんぼりと謝った。
「ごめんなさい。ここの近くにはゴミ箱がないし、家に持ち帰りたくなかったの」
「じゃあ、僕が家に持ち帰って捨てるから大丈夫」
小さくだけど、初めて彼女が微笑んでくれた。
「ありがとう」
「じゃあね」
僕がそう言うと、再び、彼女は瞳を丸くした。
「理由とか聞かないんだ?」
「丹下さんが言いたくないなら無理には聞かない」
ふわっとした笑顔が返って来た。
「佐々木くんっていつもそうだよね。他のクラスメートと違う。私に対して興味本位で近づいて来るわけでもなく、露骨に無視もしない。佐々木くんの隣だと居心地が良いんだ。……良かったら、ちょっと話さない?」
僕はうなずき、僕たちはすぐ近くのカフェチェーン店のテーブル席に向かいあわせで座り、話すことになった。
丹下さんはお父さんが、入院中のビタミンB1欠乏によるウェルニッケ脳症での記憶障害で、ずっと前から、入院以降の新しい記憶が紡げないこと、お母さんとは既に結婚していたから、お母さんのことは分かる。でも、病院との裁判後に生まれた自分を、お父さんは娘だと認識はしてくれるけれど、会話の内容までは覚えてくれない、ある意味、記憶喪失なことを話した。
「……だから、私、ロマンチックな記憶喪失ものが嫌いなの」
うつむいて少し震える肩が、寂しいって、なにより雄弁に伝えていた。
その後、僕たちはお付き合いを始めた。僕、佐々木航(ささき わたる)と彼女、丹下花純(たんげ かすみ)さんは恋人同士になり、お互いを「航」「花純」と呼び合う仲になった。
二人で過ごす初めてのクリスマス。僕は花純の家に招かれた。
僕は緊張しながら、美味しいと評判の、僕の家の近所の洋菓子店のカヌレを持って訪ねた。嬉しそうな花純と優しそうなご両親が出迎えてくれた。
「初めまして。佐々木航です」
頭を下げる僕に「花純にこんな素敵な恋人ができるなんて……」と花純のお母さんは涙ぐみ、お父さんは「花純ももう恋人ができる年齢なんだなあ」と照れくさそうに笑った。
シャンメリーの蓋が開けられて、具だくさんのクラムチャウダーとマッシュポテトとブロッコリーのサラダ、大きなローストチキンなどのご馳走を出された。立派なブッシュドノエルまで出て、カヌレが気に入ってもらえるかが気になったけれど、ブッシュドノエルの後に、温かい紅茶が淹れられて、カヌレをみんなで食べた。
「なんて美味しいカヌレなの!?」
「美味しいな!」
花純のお母さんとお父さんが歓声を上げてくれた。僕は「この店のカヌレは良質のはちみつを使っているので、美味しいんです。僕の家族もとても気に入っています」と説明した。花純も「本当に美味しい。ありがとう、航」と幸せそうな笑顔を向けてくれた。
気を遣って、花純のご両親が席を外してくれて、僕は花純にクリスマスプレゼントを渡すことができた。
僕は思いきって指輪を買っていた。僕たちの通う高校はアルバイトが禁止だから、高校生のお小遣いでも買える値段の指輪しか買えなかったけれど。
四月一日生まれの花純の誕生石――ピンク色のモルガナイトの小さな石を、桜の花びら一枚の形にカットして、極細のピンクゴールドの地金で支えたデザイン。
「可愛い! 私、桜の花が大好きなの! 大事にするね!」
花純はとても喜んで、早速、指につけてくれた。それも左手の薬指に。それだけで僕は胸がいっぱいだった。
一方の花純は、僕に宇宙を思わせる濃紺色の手編みのマフラーをプレゼントしてくれた。中央に大きくてまっすぐな縄編みが一本、編みこんである。
「航の安全を祈って、縄編みを入れたの」
花純がまっすぐな瞳で言ってくれたから、僕も笑顔で「……花純との絆みたいで嬉しい。頑張って編んでくれて、本当にありがとう」と答えられた。
お正月も花純の家へ僕は招かれた。
僕は花純が編んでくれたマフラーを巻いて、またカヌレを持ってお邪魔した。
「このカヌレ、すっかり気に入ってしまったわ。売っているお店を教えてくれる?」
笑顔で花純のお母さんが言った後で、花純のお父さんが「本当に美味しいな。花純ももう恋人ができる年齢なんだなあ」と照れくさそうに笑った。お父さんは口には出さないけれど、僕のこともカヌレのことも忘れているんだと僕にも分かった。
花純とお母さんが、つらそうな、僕に申し訳なさそうな、なんとも言えない表情になった。僕は立ち上がり、「花純さんとお付き合いさせていただいています。佐々木航です。よろしくお願いします」と、花純のお父さんにていねいに深く頭を下げた。
凍りついていたその場の空気が一気に和らいだ。
「花純をよろしく頼むよ、航くん」
花純のお父さんは優しく笑った。
それからも、月に一度、僕は花純の家に招かれた。僕が「たまには僕の家へ来てもいいんだよ? 僕の両親も花純に会いたがってるし」と言うたびに、花準は真剣な表情で首を横に振って、「航が嫌でなければ、私の家に来て欲しいの」と言った。花純は自分のお父さんに、少しでも僕を印象づけたいんだと気づいた。
バレンタインデーもホワイトデーも花純の家に行って、僕はカヌレを持って行ったけれど、花純のお父さんは僕と会い、カヌレを食べるたびに、「本当に美味しいな。花純ももう恋人ができる年齢なんだなあ」と照れくさそうに笑い、僕は「花純さんとお付き合いさせていただいています。佐々木航です。よろしくお願いします」と深く頭を下げた。
四月一日、花純の誕生日。僕は花純と買い物デートの後、花純の家へ行く約束だった。
でも、花純は待ち合わせの場所へ来なかった。メールにも既読がつかない。電話をしても出てくれない。心配している僕の携帯に花純のお母さんから電話がかかって来た。嫌な予感を覚えながら電話を受けた。電話の向こうで花純のお母さんは泣いていた。
『航くん。……花純が交通事故に遭ったの』
駆けつけた病院の個室で、計器をあちこちにつけ、病衣姿でベッドから半身を起こした花純は僕を見て、「どなたですか?」と訊いた。
気丈に花純のお母さんが教えてくれた。
「花純は頭を打って記憶喪失になったの。高校入学以前のことしか覚えていないんですって。……そして、新しい記憶も残らないらしいの」
「お医者さんがそう言ったんですか!?」
「脳に損傷はないから、精神的な影響で、一時的なものだろうとお医者様は言ったわ」
お父さんとそっくりな症状になってしまった花純に、お母さんは今にも倒れてしまいそうだった。僕は強く言うしかなかった。
「お医者さんの言葉を信じましょう」
できる限り、毎日、僕は花純のお見舞いに行った。
僕と顔を合わせると、いつも花純は礼儀正しく「初めまして」と挨拶した。知らない人を見る瞳だった。救いだったのは、その瞳に嫌悪や拒絶が浮かばないことだった。
僕は毎回、「僕は君の恋人なんだ」と自己紹介することになった。花純はいつも、それを聞くと驚いた顔をした後、幸せそうな笑顔で「覚えていないけれど、あなたのことは、なんだかひどく懐かしい気がするんです」と答えた。
ある日、僕は花純が僕がクリスマスプレゼントに贈った指輪をつけていることに気づいた。
「看護師さんがつけても良いって言ってくれたんです。可愛くて気に入ってるんです。私の好きな桜の花びらを、私の誕生石のモルガナイトっていう宝石でデザインしています。モルガナイトの石言葉は愛情とか優しさとか素敵な意味があるんです」と花純はにっこりと僕に告げた。
僕は『僕が君に贈ったんだよ』と言うべきだと思った。だけど、なぜか言えなかった。お見舞いに行くたびに、花純が左手の薬指に光っている指輪を大事そうに扱うのが無性に悲しかった。
何度通っても、花純は僕に「初めまして」と告げ、僕が恋人だと名乗ると、「覚えていないけれど、あなたのことは、なんだかひどく懐かしい気がするんです」と笑顔で答えるようになった。
僕は次第に花純に「初めまして」と言われるたびに、胸がすごく痛くなって、その場で泣き出してしまいそうなのを、こらえるようになった。
一ヶ月後、花純は記憶が戻るまで定期的に通院することを条件に退院した。花純のお父さんは花純が事故に遭ったことが分かっていない様子だった。
……僕は花純に「初めまして」と言われるのがもう怖くて、花純の家に行けなかった。三年生になった僕たちが、また同じクラスになったことも花純に話せなかった。高校生になってからの記憶が戻らず、新しい記憶も持てない花純は休学した。
僕が花純に会いに行けないまま、夏が過ぎ、秋が過ぎ、冬が来た。花純の編んでくれたマフラーを僕は大事に身につけた。温かい縄編みだけが僕と花純をつないでくれているような気がした。
とても寒いある日、僕は母に頼まれて、カヌレを近所の洋菓子店へ買いに行った。
「航くん。航くんじゃないか」
声をかけられた時、僕はギョッとしてしまった。花純のお父さんだった。花純のお父さんは照れくさそうに笑った。
「この店のカヌレが美味しいらしくてね。妻に頼まれて、買いに来たんだ。君は花純の恋人の航くんだろう?」
「……僕のこと、覚えてるんですか?」
恐る恐る僕が尋ねると、「ああ。覚えているよ。花純が特別に幸せそうな笑顔になるのは、君と一緒にいる時だけだからね」と花純のお父さんは優しく笑った。
次の瞬間、僕は「今すぐ、お家へうかがってもいいですか!?」と尋ねていた。
「もちろん。花純も喜ぶよ」
花純のお父さんの返事を聞くなり、僕は店の外へ駆け出していた。
僕が鳴らしたチャイムで玄関を開けた花純は「どなたですか?」と僕に訊いた。
僕は一息で答えた。
「花純、僕は君の恋人だ。何度でも、君のことを好きになる。もう離れない。毎日でも、この家に君をお見舞いに来る。だから、花純、何度でもいい。君も僕を好きになって欲しい」
航の言葉を聞いた瞬間、切なくてまっすぐな彼の瞳に、なにかが私の頭を走り抜けた。この人だ! ずっと逢いたかった人だ! 私の心がそう叫んでいた。なくしたはずの記憶が一気に私のなかへ流れこんだ。
私は「……航? 航なの?」と小さな声で尋ねていた。
「そうだよ、航だよ」
必死にうなずく僕に、花純はポロポロと涙をこぼした。
「航だ。……どうして私、忘れていたんだろう? この指輪も航がくれたのに」
そっと左手の薬指の指輪に触れる花純を、僕は抱きしめた。初雪が降り始め、花純は笑顔で背伸びして、……それが僕たちのファーストキスになった。
桜色の記憶と紺色の絆~何度でも、君を好きになる~ 神無月 風 @misawo
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