バケモノ試し
七嶋璃
バケモノ試し
深夜の都会の橋の上、車通りは多いが人通りは少ない。
水面までは三階建てのビルくらいの高さがありそうだ。三階建てのビルから飛び降りても死ねるかどうかわからないが、ここから飛び降りたらきっと溺れて死んでしまうだろう。
小さい頃、祖父の家の近くの川で、大きな岩の上から飛び込んだことを思い出す。飛び込んだというよりも、地元の子に突き落とされたと言ったほうが正しい気もするが。
その時よりずっと高いけれど、高いビルの屋上や電車に飛び込むよりも、こっちのほうが頑張ればなんとかできそうだ。
冷たくて寒くて、意識が遠くなって意外と楽に逝けるかもしれない、そう思いながら水面を見下ろす。冷たい風が吹きつけてきて、あかりは目をつぶった。再び目を開けたときには、男の顔が大写しになっていた。
「わあ」目の前にあるありえないものに、思わず欄干から飛び退る。パランスを崩しそうになったあかりを男が支える。
「大丈夫ですか」
知らない男に触れられているというのに、聞き心地のいい声に思わず耳を奪われる。
顔を上げたあかりと男の目が合う。男の顔は月明かりの逆光ではっきりとした表情は見えなかった。
「もったいない」
耳元でのつぶやきにあかりは耳を疑った。
もったいない?なにが? あかりは男に体を支えられていることに、改めて気付き慌てて離れた。
街路灯から離れた場所なので、すぐ近くにいるのに男は薄暗がりに沈んでる。車が通りすぎるたび、ヘッドライトで姿が際立つ。
男は、短く切りそろえられた絹糸のような黒髪に、細い切れ長の目、仕立ての良さそうなシャツとスラックスが細身の体を包んでいる。真冬だというのに寒そうな様子はない。
「その体、要らないのなら僕に貸してくださいよ」
やばい人と関わり合いになってしまった。あかりは自分を抱きしめるようにして後じさる。
「ひょっとしていらやしいことをされると思ってる?違う、違う」
意外に軽い調子で言いながら、男があかりのとの距離を詰める。それに応じてあかりも後に下がる。
「貴女の体を使うのは、お迎えが近いおばあさん」
何を言っているのだろう、意味がわからない。
あかりはとりあえず逃げようと、踵を返し走り出す体制を整えた。ぐっと足に力を入れた瞬間、男がさっきより大きな声で続けた。
何を言っているのだろう、意味がわからない。
あかりはとりあえず逃げようと、踵を返し走り出す体制を整えた。ぐっと足に力を入れた瞬間、男がさっきより大きな声で続けた。
「いいんですか、このままで。あの男は貴女のことなんか、すぐに忘れてしまいますよ。痛い目に遭わせてやりたくないですか」
あかりの足が止まる。あかりの事情を知っているような口ぶりは気味が悪いが、男の提案はあかりにとって非常に魅力的なものだった。
「もちろんただでではないです。先程も言いましたが、体を一晩お借りしたい」
「体を借りるってどういうことですか」乗ってしまったと後悔したが、言葉が口から滑り出ていた。
「貴女には一晩、幽霊になっていただきます。そして空いた体をおばあさんが使うと」
「幽霊って」現実味のない話にあかりが眉根を寄せる。
「見せたほうが早いか」
男はそう言うと、橋の欄干にもたれるように座り込んだ。男はひとつ大きく息を吐いた。
ごつん、と鈍い音がして傾いだ男の頭が歩道にぶつかる。
横倒しになった男に駆け寄ろうとして、あかりは男の体の上に靄のようなものが浮かんでいるのに気付いた。
はじめは白っぽいだけの靄だったのだが、段々形がはっきりしはじめた。明らかに歩道に倒れている男の顔かたちをしている。
あかりは驚きのあまり、動けなかった。声も出せず、ただ目を見開いて頼りなげに浮かぶ男を見つめているだけだった。
半透明の男は満足したように笑うと、寝転がっている体に吸い込まれていった。間もなく男が起き上がる。
「信じてもらえました」
あかりはただうなずいた。目の前で起こったことはとても信じられることではないが、見てしまった以上は信じるしかない。
「とりあえず、詳しいことは僕の事務所で。コーヒーぐらいは出しますよ」
あかりはまだ声が出ず、再びうなずいた。橋の上は冷たい風が吹きつけてくる。暖かいところに移動できるのはありがたい。
男に促され、後をついて歩く。体が動いたことで人心地ついたあかりは男にたずねた。
「あの………………寒くないんですか?」
「寒いですよ」
あ、寒いんだ。男の返答にあかりはなんだかほっとした。
◆
男が立ち止まったのは、橋を通る大きな道路から一本奥に入った路地に建つ古めかしい雑居ビルだった。
あかりが、今まで見たこともない小さなエレベーターに乗って4階で降りる。
表札も何もない厚い金属の扉を開け、内装も古くはあるが、きれいに整頓され適度に温められた部屋に通される。
「所長、遅いですよ」ふっくら、たれ目の女の子が、甘い声で言う。
その後ろには、細身で、バーガンディのアイラインが引かれたきりりと上がった目つきの女の子が、もうひとり。
ぱっと見、年頃も同じくらい、身長も同じくらいに見えたが、たれ目の子がかなりの厚底の靴を履いているので、実際は身長差があるのだろう。
「コーヒー?紅茶?」
「あ、紅茶で」
つり目の子にぶっきらぼうに聞かれて、あかりは慌てて答える。
黒い革のソファーとローテーブルという昭和のドラマに出てくるような応接セットがあり、勧められるままにあかりはソファに腰を掛けた。
過剰に柔らかく沈み込みそうになる体を支えながら、出された紅茶に口をつける。
冷えた体に熱い紅茶が染み渡る。一息ついているあかりの向かいに男が座る。
「どうです。さっきの話、興味ありますか?」
「興味って、あたしが幽霊になってその間、私の体をほかの人が使う、ってことですか」
「そうです。理解が早くて助かります」
「それって、大丈夫なんですか。戻れなくなったりとか」
「今までに戻れなくなった人はいないですね。貴女の体に入るのは高齢のおばあさんで、体力も落ちてますが、魂の力自体も大分落ちているので、若い体にいつまでも入ってはいられないんですよ。それに僕なら、ある程度弱っている魂なら簡単に祓うことができます。これは実演するわけにいかないから信じてもらうしかないんだけど・・・・・・まあ、貴女がその体を捨てる気がないとわかったのはよかったですよ」
「私なんかが幽霊になって意味あります?」さっき見た体外離脱が頭から離れないあかりは、既に信じる気になっていたが、幽霊になって何をすればいいのか。
「大ありですよ。現状、あの男に一杯食わせる方法を思いつきますか?」
あかりは首を横に振った。力もないし、どうにかできそうなお金もない。自分でもよくわかっているが、あかりは非力だ。
「立場の弱い人間が、圧倒的強者に復讐する方法はひとつだけ」男は細く長い人差し指を立てた。「化けて出る」
ふっと部屋の明りが揺らめいた気がした。LEDの照明なのでそんなはずはないのに。息を詰めるあかりに男は続ける。
「お菊さん然り、お岩さん然り、化けて出るっていうのは立場の弱い人間の一発逆転なのですよ」
「立場の弱い人間が、圧倒的強者に復讐する方法はひとつだけ」 男は細く長い人差し指を立てた。「化けて出る」
「……私が幽霊になったところで怖いですか?」 理屈はわからなくもないが、あの人が私の幽霊を怖がるだろうか。
「怖いですよ。お相手は紛うことなきクズでしょうが、全く良心の呵責を感じていないことはないでしょうからね。多少なりとも後ろめたいことがあれば恐ろしいですよ」
「でも化けて出るってどうすれば・・・・・・」
「無理に怖がらせよう、脅かそうとしなくても、大丈夫ですよ。『いる』だけで怖いですから。いるはずのないものが、いるのは恐ろしいですからね」男は少し身を乗り出すようにして続ける。
「そんなに深く考えずに、貴女が思った通りに行動してもらえれば十分です。ただあの男の前に現れるだけでいい。一般的に幽霊ができると思われていることはできますよ。壁はもちろん抜けられます。物や人に触ることは出来ませんが、触られた人は何か気配を感じたり寒気がしたりするようですね。この辺は個人差ですが何も感じないという人は稀ですね。もし不安でしたら、彼女たちのどちらかをサポートで付けることもできます」
男がわきに控えていたふたりを呼ぶ。
「乙音と」 つり目の子を示し、「多喜」 たれ目の子を指し示した。「困ったときはきっと力になってくれるはずです」
「よろしくです」 多喜がふにゃんと頭を下げる。
乙音は何も言わず、ただ静かに頭を下げた。
「え、っと、よろしくお願いします」 あかりも腰を中途半端に浮かせて頭を下げる。
「貴女の体を借りる人の話もしておきましょうか」 あかりが腰を下ろすと、男が仕切り直した。
「貴女の体を借りるのは田中清江さんという、80代後半の女性。入院中で意識はあるけど、今はほとんど動けない。まあ、優しい可愛らしい女性ですよ」
自分が幽霊になることもピンとこないが、自分の体を他人が使うというのほうが想像がつかない。
「自分の体に他人の魂が入るのがどうしても嫌な方もいらっしゃるので、この時点で駄目なら断っていただいてもいいんですが、いかがですか」
「よくわからなくて。私なんかでいいんですか」
あかりは根元が浮いてきているジェルネイルを見つめる。カールは保っているが水分が抜けてパサついた毛先、落ちかけているメイク、頑張ったところで中の下、こんな私でいいんだろうか。せっかく若い体を使えるのならば、もっとかわいらしい子がいいのではないだろうか。
「いやいやいや、若いってだけで十分価値がありますよ。どんなにお金があっても、若さは取り戻せませんからね。これはもちろん、貴女の良さが若さだけだってことではないですよ。とくにかくお互いにとって利点しかない」
「利点しかない、ですか」
「概ね、ね。もちろん不安な点も沢山あると思いますので、こういうことはして欲しくないという制約を設けることをお勧めします。例えばワンナイトはなし、とか」
「ワンナイト・・・・・・あの、それってあの、男性と一晩だけの関係を持つってことですよね」
自分の体を使うのは高齢女性だから、なんとなく極端なことはしないだろうと思っていたが、若返るのだから当然そういうこともあるのだろう。今まで漠然としていたものが急に具体性を帯びてくる。
「そうですね。男性、とは限らないんですが性的な関係については細かく設定していただいたほうがいいかもしれませんね。それ以外ですと、貴女の体を傷つけることや犯罪行為はもちろん禁止です。不慮の事故や危険に巻き込まれないように、お目付け役は必ず付いています。まあ彼女たちなんですが、ああ見えて頼りになりますよ」
「そう、ですか」
「一度に話してしまいましたが、ぜひ前向きに検討してみてください。もちろん、無理にとは言いません。決心がついたら連絡をください。疑問があるときもいつでもどうぞ」
最後に男に名刺を渡されて、あかりは部屋を出た。
名刺は、名刺でよく使われている厚みのある紙に、普通の明朝体で「魂魄研究所所長」と印刷されていた。住所と電話番号は印刷されていたが、名前はなかった。
◆
あかりは丸二日考えて、所長と呼ばれている男の申し出を受けることにした。
これも考えた末、禁止事項はなしにした。あかりではないあかりが、誰かと関係を持ってもそれはそれでいい気がしたし、せっかく若返るのだから制約がないほうがいいのではないかと思えた。
決行当日、あかりは老人介護施設に呼び出された。
見晴らしのいい高台に建つ瀟洒な建物。あかりの感想は、高価<たか>そうだった。
通用口から中に入る。車いすも入れる大きなエレベーターで上階へ上がり、昼間だったらきっと日当たりがいいであろう角部屋に入る。施設に入れてくれた職員を除けば、清江の個室に行くまで誰にも会わなかった。
室内は思ったよりも広く、ぽつんと置かれたベッドには高齢の女性が横たわっている。
「清江さん、ご無沙汰しております」所長が言うと、清江があかりには聞き取れない声でなにかつぶやいた。
乙音がベッドの脇で操作すると、ゆっくりとベッドの上半身が持ち上がり始めた。ゆっくりと動いていたベッドは、緩やかな角度をつけた状態で止まった。
「近くで顔を見せてあげて」多喜に言われるがまま、あかりはベッドの上で身を屈めて清江に近づいた。
清江はにっこりと微笑んで、あかりの方へ手を伸ばす。水分の抜けた小さな手があかりの頬に触れる。少し驚いたが、不思議とあかりは嫌な気持ちにはならなかった。
「綺麗なお嬢さんね。今日はありがとう」 聞き取れるか聞き取れないかくらいの微かな声で清江が言う。
あかりはどう答えてよいかわからず、ただうなずいた。
「では、こちらに」 所長に促されて、あかりは清江のベッドの足元に腰かけた。
「決心はよろしいですか」
改めて聞かれたが、ここまでお膳立てされて今更断れないだろう。
「はい」清江に見られていることを意識しながら、あかりは答えた。
「大丈夫。あたしが付いてるから」 多喜は相変わらずふにゃりと笑っている。
あかりは付いてきてもらうのに、多喜を選んだ。乙音は清江に付き添うことになっている。
「ジェルネイルはとっちゃうと思う。あとメイクと服も多分変える。でも貴女の体を傷つけるようなことはないから」 乙音が言う。
「さあ、どうぞ」茶色の、いかにも薬品が入っていそうな小瓶を手渡される。「飲んでください」
あかりはコルクの栓を取り、一気に呷った。ぐるりと世界が反転した。
◆
ライブが終わり、軽く飲んで終電ぎりぎりで帰ってきた。浴びるほど飲んだり、タクシーに乗る金はない。
人気がないのは自分が一番わかっている。最近、太客を一人失った。
私鉄の各駅停車しか止まらない駅から歩いて12分。古いが一応マンションだ。
最近、エレベーターの照明が薄暗い。エレベーター内の照明もいまだに蛍光灯だ。チカチカ明滅したり、ジーっという妙な音がしたり気味が悪い。
ちょうどエントランスに止まっているエレベーターに乗り込むと、3のボタンを押した。
かちりと押した感覚はあったがボタンは光らず、エレベーターも動き出さなかった。
「んだよ」
何度も連打するが、3のボタンに光はともらずエレベーターも動く気配はない。すぐ直るわけでもないし、だるいが階段を上ろう。故障の連絡を入れる方が面倒だ。
エレベーターを降りようと一歩踏み出すと、ふっと背中に気配を感じた。
振り向いた奏人は電気が消える一瞬、エレベーターの奥の壁の鏡に、よく知った女の姿を認めた気がした。
あとは、ただの闇。
◆
あかりが目を覚ました時には、清恵の個室のエクストラベッドの上だった。隣のベッドには清江がぐっすりと眠っている。
「お疲れさまでした」所長に声を掛けられる。「これで終了です」
乙音と多喜が、あかりを両脇から支えてゆっくりと起き上がらせる。
体に違和感はなく、たくさん眠った時のように頭がすっきりしていた。
「色々変えさせてもらったから。必要だったら元に戻すけど」 乙音が言いながら、手鏡を差し出す。
鏡に映ったあかりは、流行りのものではないがあかりの顔立ちを活かしたメイクが施されていた。取れかかっていたジェルネイルはオフされ、上品なラメの入った桜色のネイルに変わっている。服装もシンプルだが、品のいいワンピースを身に着けていた。
「このままで大丈夫です」
「これ、着てた服。着替える?」 多喜が紙袋を差し出す。
「このまま帰ります」 あかりはしばらく考えて、首を横に振った。
「駅まで送る? タクシー呼ぶ?」
「いえ、ひとりで大丈夫です」
あかりは多喜の申し出を断り、三人に見送られて清江の個室を出た。真新しいパウダーピンクのコートを羽織り、来た時と同じように、通用口から外に出る。
真冬の早朝にしては驚くほど温かく、柔らかい光が降り注いでいる。通用口から正面に回り込んだ。
あかりがエントランスに現れると、車寄せの植栽のブロックから若い男が立ち上がった。
清掃員や施設の職員というわけでもなさそうで、早朝の老人介護施設には似つかわしくない人物だ。
「ごめん。後を付けてきたんだ。ここで働いてるの? それともおじいちゃんかおばあちゃんがここいいるの?」
知らないのに知っている人。
若い男が自分のスマートフォンをあかりに差し出した。
「連絡先、教えてよ」
あかりも革のミニバッグから、自分のスマホを取り出した。
バケモノ試し 七嶋璃 @nanashima_akira
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