となりのトドロ

河内 謙吾

となりのトドロ ― 火の声を聴く鍛冶師 ―


 祖父の工房は、雨の音で満たされていた。

 山裾の細い道を曲がるたび、草の匂いに鉄の匂いが混じる。軒の下に吊された古い風鈴が、濡れた風に揺れて小さく鳴った。扉を引くと、薄闇の奥でひとつだけ灯りが息をしている。炉だ。灰に埋もれた心臓のように、微かに赤い。


「ただいま」


 返事はなかった。代わりに、金床を拭う布の音がした。祖父は無言で手を止めず、私を見もしない。ツナギの背中は濡れて色が濃い。肩の線が、思った以上に細くなっていた。


「もう、終いだで」


 ようやく出た声は、灰の底から拾い上げたように低い。

 私は笑ってみせた。「終いなんて言わないでよ。僕が来たんだ。教えて」


 祖父は布を畳み、私の横をすり抜けて外へ出た。雨は少し弱まっている。雨樋を指差して、一言だけ。


「樋、詰まっとる」


 ほつれた麻紐のように、その言葉が私の胸に絡みつく。私は無言で脚立に上がり、樋の落ち葉を掻き出した。雨水が勢いを取り戻し、地面の砕石に細い河を彫る。


 その夜、祖父は何も語らなかった。父はいつも通り、終電で帰り、いつも通りため息をつき、いつも通り少し強めに缶ビールを空けた。サラリーマンの父は、鍛冶の家に生まれながら鍛冶の語彙を持たない。食卓で祖父と目を合わせないのも、いつも通りだった。




 翌朝、工房の戸を開けると、炉の前に祖父がいた。

 ツナギ姿の背中が、火の方にわずかに傾いでいる。私が挨拶をすると、祖父は顎だけで炉を示した。


「ふいご」


 私はふいごの柄を握り、初めての呼吸を工房へ送る。ぎい、ぎい、と乾いた音が、煤の柱から垂れる。炉の奥の炭が赤く育っていく。祖父は火箸で炭を寄せ、玉鋼の塊をそっと置いた。青黒い塊が、炎に舐められて色を変え始める。


 私は訊きたいことだらけだった。これ、なんでこうやるの。どのくらい熱すればいいの。どのタイミングで叩くの。祖父は何も答えない。金槌を手に取ると、柄の位置を少し直し、ただ一言。


「見て、盗め」


 私は唇を結んだ。炉から上がる熱気が頬を押し上げる。祖父は赤めた鋼を金床に乗せ、最初の一撃を置いた。乾いた音。二度目、三度目と、音が変わる。赤からオレンジ、オレンジから黄へ。鋼が呼吸をはじめ、火花が散るたび、工房の壁が一瞬明るくなる。私はふいごを引きながら、その音の違いを耳で追った。


 叩いては折り、折っては叩く。折り返し鍛錬。祖父の腕の筋に、細い縄のような影が何本も立つ。汗が袖を重くし、ツナギの布地が肌に張りつく。祖父はゆっくり呼吸しながら、打撃の間を少しずつ詰める。金槌が鋼を割り、鋼が金槌を受け入れる音。私の知らないテンポだった。


 火から外すと、鋼はすぐに色を失っていく。祖父は躊躇なく炉へ戻し、私はふいごに力を込める。ぎい、ぎい、ぎい。

 そのときだ。祖父の袖口が、わずかに、別の布に見えた。縦縞の木綿。私は瞬きをする。ツナギの灰色の下に、藍の着物が透けて見える。金槌を振り上げるたびに、その影は濃くなる。火花が跳ねるたび、闇に浮かぶのは、祖父の背中ではない。江戸の刀匠の背中だ。

 カン。カン。カン。

 遠い時間の音が、この工房の中で鳴っている。


「……おじいちゃん?」


 祖父は振り向かなかった。ただ、叩く手をひと呼吸だけ止めた。


「火は、昔から同じや」


 その一言が、焼けた釘のように胸の中に刺さった。




 昼、祖父は作業を止め、桶を指さした。

 底に黒い泥が溜まっている。水と砥石の粉と鉄粉が混じり合った、重い泥。


「触るな。トドロや」


「トドロ?」


「砥泥(とどろ)。刃が生まれる途中のもんや。捨てるもんでも、ただの汚れでもない」


 祖父は柄杓で少しすくい、光にかざした。黒いのに、光る。粒子のどれもが、細かく震えているように見えた。


「よう見とけ。おまえの隣に、いつもおる」


 隣に──。

 私はうなずき、泥の表面に映る自分の目を見た。ぼやけている。だが、確かに何かがこちらを見返している。




 父は夜遅く帰ってきて、工房の灯りを見ると眉をひそめた。


「まだやっとるのか」


「僕がやってる」


「……何のために? 刀なんて、もう飾りやぞ。稼ぎにならん。会社の総務だって空きがある。おまえには安定した暮らしをしてほしいんや」


 祖父はちゃぶ台の端で湯飲みを手に、黙っていた。私も黙っていた。父はしばらく沈黙し、吐き出すように言った。


「親父が何も教えんかったのは、そういうことや。切るもんが要らん時代に、刃を打って、どうする」


 祖父の湯飲みが、わずかに卓に触れて音を立てた。


「切るためだけの刃やと思っとるんか」


 父は答えず、冷蔵庫を開け、缶ビールを取り出した。それ以上、誰も何も言わなかった。




 日々は、火の色で刻まれた。

 選別した玉鋼は炭素の色で違って見えると祖父は言った。硬いものは刃金に、柔らかいものは心鉄に。私はわざと逆に置いてみた。祖父は何も言わない。火に入れて、金槌が一度、音を外した。祖父は炉から目を離さず、私にふいごの手を止めるよう顎で示した。


「音、違うやろ」


 私は謝った。祖父は謝る私に興味はない。音にしか興味がない。

 造り込みに入ると、祖父の注意は刃先ではなく、芯の通りに向けられた。硬い鋼と柔らかい鋼を重ねるとき、祖父は指先で「重なりの気配」を確かめる。溶接の線に、目に見えない波が走るのだと、祖父は言った。それが真っ直ぐでないと、刃は長く生きられない。


 私は理由を訊かなかった。訊いても、祖父の言葉は、きっと私を通り抜けてしまうと思ったからだ。代わりに、音と火の色と、祖父の肩の角度を盗んだ。

 火造りの日、祖父は反りをつけるための打ち込みを、ほんの僅かに外した。外したというより、外しに行った。鋼は人間がまっすぐにしようとしても、火と冷えの中で勝手に曲がる。ならば、先回りして外す。祖父はそういう人間だった。私はその「外し」を真似した。すると、祖父の顎がまた僅かに動いた。合格の合図だ。


 


 土置きの日が来た。

 焼刃土の配合は秘密だと祖父は言うが、手元は隠さない。砥粉、粘土、炭の粉、水。湿り気を含ませ、練る。祖父は刃先へ薄く、峰へ厚く、土を置いていく。刃文の線は乱れではなく、呼吸だ。私は息を止め、祖父の指先のリズムを目で吸い込んだ。


「この土、何のため?」


 久しぶりに口を開いた私に、祖父は少しだけ笑った。


「火を分けるためや」


 火を、分ける。

 私は土の濡れた光を見た。炉の赤が乗ると、水のようにも油のようにも見える。


 焼入れは、夜にやる。工房の外の音が少ない時間。祖父は刃を持ち上げ、炎に入れた。温度を測る計器はない。祖父は刃の影を見る。

 私はふいごを引く。火は呼吸を上げ、刃は色を深める。祖父の目はその色を透かし、なぜか遠くの雨の音まで聴いているように見えた。


「来い」


 祖父の声で、私は水槽の側に立つ。水は冷たい。祖父は刃を引き抜き、滑らせるように水へ。

 ジュウ、と音がして、白い泡が立った。刃先が固まり、峰がまだ柔らかい。土が仕事をする。工房の暗がりに、一瞬、白い影が走った。江戸の刀匠の袖だ。私はまた息を呑んだ。


 刃を上げる。水が滴る。祖父の肩が、ひとつ落ちる。少しだけ安堵の形。

 焼き戻しで、祖父は急がない。炭火を遠くに置き、じんわりと刃を温める。刃の奥に、熱がほどけていく。祖父は刃と会話しているようだった。私はその会話の言葉を知らなかったが、意味は分かった。刃は、まだ生まれたばかりだ。


 


 祖父は倒れた。

 朝、工房の戸を開けたとき、ツナギの背中が床に寄りかかっていた。私は叫び、救急車を呼んだ。父は会社から飛んで戻り、冷たい手で祖父の手を包んだ。祖父は目を開け、私を見た。何か言おうとして、唇がわずかに動いた。


「樋、詰まっとる」


 私は泣き笑いをした。祖父はそのまま眠りに落ちた。病院の白い天井は、工房の煤よりも重たかった。

 医者は言った。命に別状はないけれど、しばらくは無理をできない。父は頷いた。私は頷かなかった。工房の炉は、冷えていく。


 その夜、工房へ戻ると、雨は上がっていた。湿り気は残っている。私は灯りをつけ、炉の灰を掻き、炭を積んだ。ふいごの柄を握る。祖父の背中を思い出す。ぎい、ぎい。火が、ゆっくり起き上がる。


 私は祖父の真似をした。玉鋼の目を読むふりをして、選別した。叩いた。折った。叩いた。音はすぐに乱れた。金槌の芯が外れる。金床が怒っている。私は息が上がり、額の汗が目に入る。


 桶に肘が当たり、トドロが床にこぼれた。黒い泥が、薄く広がる。私は膝をつき、手のひらで泥に触れた。冷たい。けれど、どこか温かい。

 そのとき、工房の空気が、わずかに動いた気がした。誰もいないのに、誰かが隣に座ったような、重さ。

 私は顔を上げ、炉を見た。火が、こちらを見る。火は、こちらを見る。

 ──火は、昔から同じや。

 祖父の声が、灰の底から立ち上がる。私は目を閉じ、ふいごを引いた。ぎい、ぎい、ぎい。呼吸が整う。音が戻る。金槌の芯が、やっと芯に当たる。私は少し泣き、少し笑った。




 祖父が退院した日、工房の戸口に三人で立った。

 父はため息をつきながら、戸を開けた。祖父は杖を突き、炉を見た。炉は灰を厚く被っている。祖父は短く笑った。


「樋、詰まっとる」


 私は走って外へ出た。樋は詰まっていなかった。空は晴れ、山の影が工房の床まで伸びていた。

 祖父は炉の前まで歩き、小さな声で言った。


「やるか」


 私はうなずいた。父は何も言わなかった。

 炉に火が入る。火は、小さな音で喜ぶ。祖父は椅子に座り、私の手の位置を、顎で示した。私は玉鋼を火へ入れ、ふいごの柄を引く。ぎい、ぎい。


 叩くのは、私だ。祖父の金槌が、私の手の中に重なる。私は耳を開く。音が、一本の線になって刃の中へ入っていく。火花が踊るたび、ツナギの袖の下に、藍の着物が見える。私は見た。見えた。

 刃は生まれようとしている。私の力でではない。火と鉄と、祖父と、江戸から続く誰かの力で。


 焼入れの水は、祖父の合図で私が持った。刃が水に入る瞬間、工房の壁が白く光る。空気がひゅ、と細く鳴く。私は息を吐き、刃を上げた。

 焼き戻しの火を、私は遠くに置いた。祖父が頷く。炭火が、刃に言葉を戻していく。私はそれを聞く。言葉は分からない。だが、意味は分かる。刃はここにいたいと言っている。


 


 研ぎは、別の職人の手に渡した。工房の隅で、私は桶のトドロを見た。黒い泥の表面に、窓の空が歪んで映っている。

 祖父は銘切りの準備をした。茎に、刻む。刃が私の前に置かれる。私は躊躇する。祖父は、黙っている。

 私は刻む。母方の家の字と、祖父の名と、今日の日付。最後に、ほんの小さな点をひとつ。祖父が、音もなくうなずいた。


「なんの点?」


 父が珍しく訊いた。私は笑った。


「隣の、印」


 祖父は笑い、父は苦笑した。

 完成した刀身は、光を受けて刃文を浮かべた。波が、呼吸している。飾りだと言われれば、飾りだ。美しいと言われれば、美しい。

 だが、私には分かっている。これは、人を斬るための刃ではない。

 火の声を記録した、一本の記憶だ。




 祭の日、里の人が工房をのぞきに来た。古い友人らしい老人が祖父に声をかける。


「もうやらんのかと思っとったわ」


 祖父は首を横に振った。


「もう、わしはやらん。ここは終いだ」


 私は驚いて祖父を見た。祖父は少し笑い、私を顎で示した。


「ここは、終いにして、同じ場所を始める」


 老人は目を丸くし、私の顔を見た。父は腕を組んで、それでも口元は少し緩んでいた。

 祖父は工房の隅を指さした。そこには、私が板材で組み上げた新しい作業台がある。電動工具の小さな音が、祭囃子に負けず鳴っている。伝統を壊すためではない。繋ぐために、変える。祖父はそれを知っている。


「教えてくれる?」


 私は冗談半分に言った。祖父は首を横に振った。


「見て、盗め」


 私は笑った。




 秋の雨がまた来た。樋は詰まっていない。

 工房の中、炉は静かに息をしている。私はふいごを引く。ぎい、ぎい。音が、私の中の何かを整える。

 桶のトドロに灯りが映る。黒い泥は、今日も少し光っている。私は柄杓ですくい、光にかざした。粒子がふるえている。

 隣には、祖父がいる。江戸の刀匠もいる。父も、いる。

 刃は飾り棚に収まり、人の目にさらされる。それでいい。飾りは虚飾じゃない。

 飾るとは、忘れないということだ。


 ふいごの柄を引く。火が返事をする。

 私は火の声を聴く。火は昔から同じだ。けれど、私に返ってくる声は、昨日とは少し違う。

 少しだけ若い。少しだけ、未来の色をしている。




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となりのトドロ 河内 謙吾 @kengo8664

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