第8話 繋がっていく未来
村の空き家での暮らしは、森での野宿とは比べものにならないほど、安らぎに満ちたものだった。
屋根と壁に守られ、夜には火の明かりが部屋を照らす。そんな当たり前が、これほど心を和らげてくれるとは、思ってもみなかった。
俺と勇者は、そんな静かな場所で、薪を割り、食事を分け合い、たまに言葉を交わしながら、少しずつ――二人だけの穏やかな日々を築いていった。
彼は勇者として魔獣の脅威から人々を守り、俺はそのすぐ隣で、彼の戦いを支えながら、村の営みに身を寄せた。
不思議なことに、勇者の力は、俺が隣にいる時に限って、凄まじい強さを発揮した。あの日、震える彼の手を握り、言葉をかけたあの瞬間。眠っていた何かが、確かに目を覚ましたのだ。今では、それが当たり前のように思えるほど、俺たちの距離は自然に縮まっていた。
勇者――白戸は、俺の心の機微を敏感に感じ取っていた。時折、何かを確かめるような眼差しを向けてきて、そっと触れる指先に、胸の奥がざわつくような感覚が走る。不意に交わる肌の温度や、長く続くまなざし。その奥に滲む想いに、言葉を超えたものを感じてしまう。
そして、夜。家の中が静まり返った頃、彼は俺が眠ったと思っているのだろう、微かな寝息に紛れて独り言のように呟く。
「アリアス……君は、俺の光だ……」
その声に、俺は目を閉じたまま、そっと息を殺す。返事も、触れることもしない。ただ、聞き流すだけだ。それでも、彼の真っ直ぐな想いが、胸の奥をじんわりと温めていく。
あの笑顔を初めて見たときのことを思い出す。あれだけ傷ついていたはずの彼が、眩しいほどの笑顔を浮かべていた。あの笑顔だけは、絶対に守りたい――そう、心の底で強く思った。けれど、その気持ちの正体を言葉にしようとすると、どうしても胸がつかえてしまう。
「友情」と言うには、何かが決定的に違う気がする。でも、それ以上に確かなものだということだけは、はっきりしていた。
ただひとつ確かに言えるのは、彼の隣にいることが、何より自然で、心地よくて――かけがえのないものだということ。
俺にとっても、白戸は「光」だった。
俺たちの間にあるものは、単なる友愛なんかじゃなくて、でも確かに育まれてきた、かすかに触れ合う距離感だった。深く、繊細で、どこか切なさを孕んだ均衡。それが壊れてしまうのが怖くて、俺はただ黙って、その温度を受け取っていた。
ある日の午後。畑で芋を掘っていたときのことだ。隣に、泥のついた頬で微笑む白戸がやってきた。
「アリアス。この芋、どれくらい掘ればいいんだ?」
振り返ると、かつての怯えた顔ではなく、無邪気でどこか誇らしげな笑みがそこにあった。その顔を見た瞬間、胸の奥に温かい何かが込み上げてきた。
「あんたが食う分だけ掘ればいい。どうせ、またすぐ腹を鳴らすんだろ」
軽口混じりにそう返すと、白戸は照れたように笑った。
「アリアスと一緒に食べる飯は、なんでも美味いからな」
その言葉に、不意を突かれて鍬を持つ手が止まった。彼はそれに気づかぬまま、黙々と土を掘り返している。俺はただ、早まる鼓動に胸を押さえながら、じっとその背中を見つめていた。
あの日の魔物討伐をきっかけに、村人たちの俺たちを見る目も、少しずつ変わってきている。かつての冷たい視線は和らぎ、顔を背ける者は減り、時には挨拶を交わす者さえ現れるようになった。
ある日、村の長老が俺たちの家を訪ねてきた。かつて白戸を冷たく見ていた一人だ。
「勇者殿、アリアス。この村が平穏を取り戻せたのは、君たちのおかげだ。……本当に、ありがとう。止める立場にいながら、何もできなかったことを、心から詫びる」
そう言って深く頭を下げる長老の声には、以前のような硬さはもうなかった。わずかに残る警戒心の奥に、確かな敬意と、静かなぬくもりがにじんでいた。
そして――リリア。
かつて白戸を目の敵にしていた彼女も、いまでは率先して理解を示してくれる一人になっていた。
ある晩の食事時、ふらりと立ち寄った彼女は、白戸が淹れた少し渋いお茶をすすりながら、ふっと表情を和らげて言った。
「私ね、アリアスが幸せなら……それでいいって、やっと思えるようになったの」
その笑顔に、俺はふと胸が緩むのを感じた。彼女は続けて、白戸に向き直る。
「白戸さん。今まであなたを憎んで、ごめんなさい。勇者召喚のことばかりに囚われて、あなた自身を見ようともしなかった。……でも、あなたは私たちを守ってくれた。ありがとう。……あなたって、優しい人なのね」
白戸の瞳がわずかに見開かれ、やがて表情が、静かに緩んでいくのが見えた。彼の人柄が、ちゃんと伝わったのだ。
傍でそれを見ていた俺の胸も、静かに満たされていくのを感じた。
◇◇◇
季節の匂いが変わり始めたある日、白戸が口を開いた。
「アリアス。この村は、もう大丈夫だと思う。でも、まだどこかで……魔獣に苦しんでる人たちがいる。俺のこの力は、きっとその人たちも救うためのものだ。だからさ。……一緒に来てくれないか?」
その声に込められた想いを、俺はまっすぐに受け止めた。彼の瞳はまるで焚き火の芯のように、静かに、けれど確かに燃えていた。
「……愚問だな。そばにいるって、俺が言ったんだろ」
そう答えた俺を見て、白戸はふっと笑った。どこか照れたように、けれど心の底から、嬉しそうに笑う。その顔はまるで、長く凍てついた冬を越え、初めて春の日差しに触れた時のような、穏やかな温もりに満ちていた。
翌朝、まだ柔らかい朝靄の残るなかで、俺たちは村人たちの見送りを受け、次の村へと歩き出した。荷物は軽く、足取りは思いのほかしっかりしていた。
旅のあいだ、俺たちは自分たちの判断で、各地に現れる魔獣を退治していった。誰に頼まれたわけでもない。ただ、この世界を少しでも安全にしたかった。そして――勇者である彼のためにも。
名もなき旅の痕跡は、いつしか風に乗って、人々の耳へと届きはじめた。その静かな広がりは、王の無関心をより際立たせていく。そして、白戸という”勇者”の名が、次第に尊敬とともに語られるようになる。
訪れる町では笑顔が増え、子どもたちはまるでヒーローを見るように駆け寄ってきた。かつて向けられた冷たい視線は、少しずつ、柔らかなものに変わっていく。
ある夕暮れ、丘の上で野営の支度をしていた。空は淡い茜から群青へと、じんわり色を溶かしながら移ろっていく。風が草原を撫で、遠く谷の向こうに灯る村の明かりが、星よりも早く瞬いていた。
火を起こし終えた白戸が、黙ったまま俺の隣に腰を下ろす。そして、何の前触れもなく肩にもたれてきた。安心しきったような仕草で。まるで、眠る前に温もりを求める子どものように。
その重みに、思わず呼吸がひとつ深くなる。肩越しに伝わるぬくもりが、言葉よりも穏やかに、胸の内を満たしていった。
「アリアスが隣にいてくれるから、俺はもう……何も怖くない」
囁くような声が、胸の奥の深い場所にすっと染み込んでいく。
白戸は、この世界に来てからずっと孤独だった。理解されず、拒まれ、ただ戦うことを強いられてきた。そんな彼が、いま俺の隣で安らぎを覚えてくれている――それがどれほどの意味を持つか、俺は誰よりもよく知っていた。
そっと、彼の髪に指を伸ばす。少し汗を含んだ、柔らかな感触が指先に残った。
「白戸。……あんたは、それでいいのか? 本当に、後悔はないのか?」
問いかける声は、自分でも驚くほどに静かで、優しさを含んでいた。
白戸はゆっくりと顔を上げる。燃えさしのような夕陽が、その瞳に宿っていた。まっすぐで、迷いのない、強い光だった。
「後悔なんて、あるわけない」
短く、はっきりと。言葉には、芯の強さが宿っていた。
「アリアス。君が俺の隣にいてくれれば、どんな時も幸せだと感じられる。もう、君と離れたくない。……ずっと、一緒にいてくれ」
その言葉に、胸の奥にふわりと灯るものがあった。やわらかく、ぬくもりを伴った感情。旅の中で育まれた絆が、ひとつの輪郭を持ち始めていた。
それは、これまでの友愛や信頼とは少し違う。もっと深くて、確かで。名を与えるなら――たぶん、それは「恋」だった。
俺はそっと、彼の手に触れた。すぐに、白戸もその手を包み返してくる。
指先から伝わる体温が、言葉よりも雄弁に心を語っていた。ずっと、そばにいたい。離れたくない――ただ、それだけの、まっすぐな気持ちが。
「……ずっと、あんたの隣にいるよ」
顔が自然と熱を帯びるのを感じながら、俺はそう返した。飾る言葉なんて必要ない。ただ、隣にある温もりに、そっと頬を寄せるだけだった。
夜が、丘を静かに包み込んでいく。焚き火はぱちぱちと火花を散らしながら揺れ、空にはひとつ、またひとつ、星が瞬き始めていた。
やがて、森の方角から低く響く魔獣の咆哮が、風に乗って届いた。けれど、その音にも、もう俺たちは怯えなかった。
旅は、まだ終わっていない。
いや、きっと――これからが、本当の始まりだ。
勇者と二人で、この世界を、少しずつ変えていく。
誰も悲しまない、幸せな未来へ。
【完結済】勇者召喚の魔法使いに選ばれた俺は、勇者が嫌い。 キノア9g @kinoa9g
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