第7話  恋心の自覚と、微かな光を掴んで(勇者視点)



 あの後、頭の中に響き続けたのは、無機質な声で読み上げられる無数のスキルの名だった。無能だと蔑まれてきた能力が、一夜にして形を変えたのだ。けれど数が多すぎて、何がどう変わったのか、正直ほとんど把握できていない。ただひとつ確かだったのは、それがアリアスの力に触れたことで生まれた変化だということだった。


 森を抜けた瞬間、全身の力がふっと抜けるのを感じた。アリアスの腕に支えられながら、ようやく張り詰めていた心が、少しずつ、音もなくほどけていくのがわかった。


 村に戻った今でも、彼が隣にいるだけで、胸を締めつけていた孤独の靄が少しずつ薄らいでいくのを感じる。焚火の明かりが揺れる中、その横顔を視界にとらえるだけで、息をするのが少し楽になるようだった。


 アリアスの視線はいつも静かで、冷静だった。けれどその奥には、どこか柔らかく、迷いのない信頼の光が宿っていた。そのまなざしを向けられるたび、胸の奥に、小さな炎のような温もりがぽっと灯る。言葉では言い表せない感情だった。これまで誰にも感じたことのない、名前のない、静かに広がる熱だった。


 あのとき。手を握られ、「信じる」と真っ直ぐに言われた瞬間。心のどこかで、何かが弾けた気がした。真っ暗だった場所に、ふと光が灯るような感覚だった。絶望の底に沈みかけていた俺を、疑いもせず支えてくれた、その手の力強さも、目の奥に宿っていた真剣さも——ありきたりな感謝や友情なんかじゃ足りない。もっと深く、もっと根源的で、抗いようのない何かだった。


 ふとした瞬間、アリアスの横顔に目が吸い寄せられる。そんな時は決まって、胸の鼓動がわずかに速くなる。指先が偶然触れただけで、びりっとした電流のようなものが走った。


 ふと、胸の奥が震えた気がした。


 次の瞬間、頭の中に——あの無機質な声が再び響く。


『スキル《恋する者》を獲得しました』


 ——ああ、これが恋なんだ。ようやく、はっきりと自覚した。


 まさかこの世界で。必死に生きるだけで精一杯だった俺に、こんな感情が芽生えるとは思っていなかった。けれど確かに今、それは俺の中で根を張っている。そして気がつけば、願いへと変わっていた。アリアスの隣で、もっと強く在りたい。この世界で、彼と肩を並べて生きていきたい——そう思うようになっていた。


 王族からの支援は打ち切られていた。住む場所も、金も、未来の道筋さえ何もない。けれど、不思議と希望は消えなかった。それは、アリアスが傍にいてくれるからだった。


「とりあえず、住む場所の問題だな。俺も金があるわけじゃねぇし……ひとまず、一緒に森に住むか?」


「い、一緒に森に!? ちょっと待ってくれ、それは……アリアスにそんな生活させられない」


「気にすんなって。本当は俺の家に呼びたいけど、あそこは俺も居候みたいなもんだし。村人たちの手前、ちょっと無理なんだ」


 すまなそうに目を伏せるアリアスを見て、胸が痛んだ。俺が勇者だから。彼に余計な苦労をかけてしまっている。それが、どうしようもなく辛い。


「そう思ってくれただけで、十分嬉しい。……ごめんな」


「なんで謝るんだよ。勇者なのはあんたのせいじゃねぇだろ。……とにかく気にすんな。俺、野宿慣れてるし。テント張るの得意だから。俺が……あんたの居場所、作るから」


 その一言が、胸の奥にじんと染み入った。居場所なんてどこにもないと信じ込んでいたこの村に、確かに俺のための場所があるような気がした。彼がいるなら、どこだって——そう思えた。


 そして俺たちは、村の近くの静かな森で、簡素な野宿生活を始めた。


 アリアスは手際よく、小さなテントと最低限の生活道具を組み立てていく。作業の一つ一つが迷いなく、静かに整っていくさまに見惚れてしまうほどだった。俺も手伝おうとしたが、火起こしは煙ばかり立てて火が点かず、テントもどこから手をつければいいのかわからない。ただ、立ち尽くすばかりだった。


 結局、アリアスがほとんどを担ってくれた。火の番を任された俺は、薪をくべても火は弱く、煙ばかりを吐き出す。枝を折る手つきもぎこちなく、その音が場違いに響いた。


 アリアスは一度だけ、呆れたように眉をひそめた。


 けれどその視線の奥には、どこか苦笑にも似た柔らかい光が宿っていた気がした。


 

 数日が過ぎるうち、俺は彼の役に立ちたくて仕方がなくなっていた。少しでも笑ってほしくて、気に入られたくて。俺は、思いつく限りのことを試してみた。けれどそのすべてが、空回りだった。


 ある夕暮れ、アリアスの顔に少しだけ疲れの色が浮かんでいた。その時ふと、彼が薬草について語っていたことを思い出した。


「アリアス! これ、たぶん効くやつ!」


 意気込んで差し出した草の束。けれどアリアスはそれを見て、眉間に小さく皺を寄せた。


「……白戸。これ、ただの雑草だし、毒草まで混ざってる。採るなって言ったろ」


 その静かな叱責に、俺の肩は思わず落ちた。頑張ったつもりだった。気持ちはあった。けれど、それが伝わらない。届かない。その無力感が、胸にじわりと広がっていった。


 別の日、彼が夕食の準備をしているところを見て、今度こそはと、思い切って声をかけた。


「アリアス、今日の夕飯、俺が作るよ!」


 その言葉に、彼の手が止まった。わずかに眉が動き、ゆっくりとこちらを向いた。


「……無理しなくていい。俺がやるから」


「いや、俺も……アリアスの好きなもの、作ってみたくて」


 勢い任せにレシピをめくり、見よう見まねで調理に取りかかった。けれど、野菜は切るたびにぐにゃりと崩れ、火加減も掴めず鍋を焦がす。最終的に出来上がったものは、見るからに不穏な何かだった。


「……食えるのか、これ」


 呟いたアリアスの声に、思わず顔から火が出るほど恥ずかしくなった。手に持っていた皿を、そっと下ろすしかなかった。


 二人きりの時間。俺はどうしても、彼の顔色をうかがってしまう。嫌われていないか。うっとうしがられていないか。そんなことばかり気にしてしまう自分が、時々、情けなくなる。


「アリアス……俺、少しはこの世界に馴染めてると思うか?」


 アリアスは、ほんのわずか目を見開いたあと、ふっと笑った。


「ああ。……でも、どうしてそんなことを聞く?」


「……アリアスに、これ以上カッコ悪いところ、見せたくなくて」


 その言葉に、アリアスは少しだけ肩の力を抜いて、かすかな笑みを浮かべた。呆れたようでいて、どこかあたたかな表情だった。


 俺の想いは、きっとまだ空回りしている。でも、それでもいい。アリアスの頬が少しでも緩むなら。心の奥に小さな灯がともる。——この想いは、きっと届いている。少しずつでも、確かに。


 俺の不器用な歩み寄りに、アリアスはいつも眉をひそめていた。どこか呆れたように、ため息混じりの視線を向ける。そのくせ彼は、俺を突き放すことは一度もなかった。ただ困ったように眉根を寄せながら、それでも、いつもそばにいてくれた。


 そんな彼の在り方が、やがて村人たちの視線にも映るようになっていった。冷ややかだった目が、次第に……ほんの少しずつ、柔らかくなっていく。


 ある午後、森の入口近くで、子どもたちが枝を振り回して遊ぶ姿を見かけた。風が揺らす葉音と、笑い声が交じり合っている。ふと立ち止まり、俺は掌を開く。指先に、淡い光を灯した。それは勇者として目覚めた力の、ごくわずかな名残。ふわりと揺れる光は、夕暮れの木漏れ日にすっと馴染んでいった。


「わーっ!」


「ねえ、もっと見せて!」


 目を輝かせた子どもたちが駆け寄ってきた。無邪気な歓声に囲まれて、俺もつられて笑っていた。こんな風に笑ったのは、いつ以来だっただろうか。


 そのとき、木陰から視線を感じた。振り向くと、アリアスが腕を組んでこちらを見ていた。呆れたような目つき——でも、その口元はわずかにほころび、瞳にはやわらかな光が浮かんでいた。


 視線を逸らすように顔をそむけた拍子に、近くの村人と目が合った。気まずさに身をすくめかけた俺をよそに、その人はふっと笑みを漏らしていた。別の村人も、以前は険しかった表情を、どこかためらいがちに緩めていた。もう、それは拒絶でも敵意でもなかった。


 特にリリアという少女は、アリアスが困惑しながらも俺に向き合い続ける姿を見て、少しずつ俺自身を見直しているようだった。勇者という役目を外した、「俺」という存在を、初めて真正面から見てくれている気がした。


「あの勇者、かなり抜けてるわね」


「アリアスも……大変そうだ」


 そんな声が、風に乗って耳元をかすめた。遠ざけられていた距離感が、ゆるやかに、しかし確かにほぐれていく。かつての憎しみが、淡く色褪せはじめていた。


 野宿を続けて数日。俺とアリアスの姿は、村人たちの話題にも上がっていたらしい。魔物を退けたことへの感謝と、日々の中で滲む俺の不器用さ、そして彼の静かな支え。それが少しずつ、村という小さな社会の扉をこじ開けていった。


 ある夕暮れ、空の色が茜に染まりはじめた頃。村の代表者たちが、俺たちの元を訪ねてきた。リリアもその中にいた。


「勇者殿、アリアス……この度は、すまなかった。魔物の討伐、本当に感謝している。もしよければ、村の空き家を使ってくれ。食料も、少しなら……分けられる」


 緊張を帯びた声だったが、その中には確かな誠意と、ためらいながらも差し出された信頼があった。「できれば今後も魔獣の討伐を……」と条件つきだったが、それでもかつての冷たい拒絶とは、比べものにならない温度だった。


 俺はその変化に戸惑いながらも、胸の奥がじんわりと温まっていくのを感じていた。アリアスは隣で、静かに頷いていた。


 

 その夜、俺たちは村の外れにある空き家に移った。質素な木の机と椅子。壁の隙間からは風が忍び込み、床板も軋む。けれど屋根があり、囲んだ火が灯る。それだけで、どこか満たされていた。


 食卓の上には、湯気を立てる皿。素朴なスープの香りが、部屋の隅にまでふわりと漂っていた。明かりの揺らぎが、アリアスの横顔を静かに照らしている。


 彼は黙ったまま、食器を洗っていた。水で汚れを落としたあと、布でひとつひとつ丁寧に拭っていった。俺はその背中を、ただ見つめていた。


「……アリアス」


 名前を呼ぶまでに、少し時間がかかった。けれど今なら、言える気がした。


「なんだ」


 背中越しの返事。手を止めることなく、静かに皿を拭き続けている。


「君がいてくれたから、生き延びられた。君がいたから、俺は……勇者になれた。本当に、ありがとう」


 想いが込み上げて、言葉の端がわずかに震えた。

 

 孤独の夜も。絶望に沈んだ朝も。——すべての時間の中に、アリアスがいた。そのことに、今さらながら胸がいっぱいになる。


 アリアスは、手を止めた。ゆっくりと振り返り、俺を見つめる。その瞳は、いつも通り冷静で、揺るぎない。でも、その奥に、静かにきらめく光が確かにあった。


「……白戸。礼なんか、いらない」


 低く、穏やかな声だった。けれどその一言には、強い意志が込められていた。


「あんたはもう、一人じゃない。俺も、仲間になった。だから——もう二度と、あんな風には思うな」


 そう言って、彼は隣に腰を下ろし、そっと俺の肩に手を置いた。その手のひらは、驚くほど温かくて、触れられた瞬間、胸の奥でなにかがほどけていくのを感じた。


「ああ……」


 俺は、小さく頷くことしかできなかった。でも、その一言に、すべての想いを込めた。


 アリアスの言葉と、そのぬくもりが、俺の空白を静かに満たしていく。俺はもう、自分自身の力を疑うことはないだろう。手に入れたこの力で、彼を——そして、彼が生きるこの世界を守りたい。それは誰かに押しつけられた使命じゃない。俺自身が、心から抱いた願いだった。


 かけがえのない光をくれた彼と、これからもずっと共に歩むために。


 もう俺の瞳に、過去の影は映っていない。

 

 そこにあるのは——確かに、未来へと差し込む、まばゆい光だった。

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