金曜日の処刑室 〜小さな死(La petite mort)を求めて〜

火之元 ノヒト

金曜日の処刑室 〜小さな死(La petite mort)を求めて〜

 一週間分の疲労が、ヘドロのように身体にへばりついていた。

 金曜日の午後11時半。雑居ビルの5階にある会員制クラブ『ヴォイス・ガーデン』。その重厚な防音扉を閉め、ロックをかけると、ようやく世界から音が消えた。


 2畳ほどの狭い個室。あるのは黒い革張りのリクライニングチェアと、サイドテーブル、そして業務用の高級ヘッドホンだけだ。

 僕はネクタイを緩め、逃げ込むようにチェアに深く沈み込む。

 ヘッドホンを耳に当てる。遮音性が高く、自分の鼓動の音がドク、ドク、と耳元で鳴った。


 この一週間、職場で浴びせられた「お疲れ様」「よく頑張ったね」「すごいじゃないか」という言葉たち。それらはすべて、「これからもこのペースで走れ」「もっと成果を出せ」という命令に変換され、真綿のように僕の首を絞めていた。


 もう、頑張りたくない。肯定なんていらない。

 いっそ、誰かにトドメを刺してほしい。


 プツッ、とノイズが走り、回線が繋がった。

 鈴を転がしたような、あざといほどに可愛らしい声が鼓膜を震わせる。


「あ、佐藤さん? こんばんはー! 今週もお仕事お疲れ様ですっ」


 ハルヒちゃんだ。顔は知らない。ただ、この声だけが僕の命綱だった。

 営業用の、糖度の高いアニメ声。普段なら癒やされるはずのその声が、今の僕には吐き気がするほど眩しい。


「……あ、どうも」


「あれぇ? 元気ないですねぇ。よしよし、佐藤さんはエライですよー、誰よりも頑張ってて――」


「……やめてくれ」


 僕はマイクに向かって、掠れた声で遮った。


「そういうの、いいから。……疲れてるんだ」


「…………」


 沈黙。

 空気が凍りつく音が聞こえた気がした。

 一拍置いて、ヘッドホンの向こうから聞こえてきたのは──先ほどとは別人のような──温度を失った低い声だった。


「……あ、そ」


 ぞくり、と背筋が震えた。これだ。

 この拒絶だけが、僕を許してくれる。


「せっかく労ってやったのに。……で、また来たの? ゴミ」


 僕は震える手でベルトに手をかけながら、「はい」と短く答える。


「あのさあ、佐藤さん。あんた鏡見たことある? 酷い顔。死相が出てるっていうか、生気が腐ってるっていうか……。ほんと、見てるだけでこっちの気分が萎えるんだよね」


 彼女の罵倒は、淡々としていて、慈悲がない。

 怒鳴られるわけではない。ただ事実を突きつけられるように、静かに心を削り取っていく。


「今週もミスしたんでしょ? どうせ誰かに怒られて、言い返す根性もないから、ここに来たんでしょ?」


「……っ、う……」


「……図星? はは、声震えてる。キモ」


 不思議だった。「ダメなやつ」と断定されるたびに、張り詰めていた緊張の糸が一本ずつ切れていく。

 期待されていない。価値がない。だから、もう頑張らなくていい。

 その安堵感が、涙となって溢れ出した。

 鼻をすする音が、高性能マイクを通じて彼女に届く。


「……佐藤さん、また泣いちゃうの?」


 ヘッドホンの奥で、ハルヒちゃんが呆れたように、けれどどこか楽しげに言った。

 嘲笑ではない。もっと底冷えするような、実験動物を見るような響き。

 僕は嗚咽を漏らしながら、手を動かすのをやめられない。理性よりも先に、壊れかけた本能が「終わらせること」を求めていた。


「気持ちいいんだ、いっぱい罵倒されて」


 見られている。マジックミラーの向こうか、あるいはモニター越しか。

 僕の浅ましい姿は、彼女に筒抜けだ。羞恥心で顔が熱くなるが、その視線こそが最大の快楽だった。


「……っ、あ……はい、気持ちいい、です……」


「肯定してんじゃねーよ、クズ」


 彼女の声が、冷たく突き放す。


「まじでキモいね……」


 その一言は、鋭利な刃物のように僕の心を抉り――そして、どうしようもない赦しに変換された。

 「気持ち悪い」。そう切り捨てられることで、僕は人間である義務から解放される。社会人としての皮を脱ぎ捨て、ただの肉塊に堕ちることができる。


「殺してほしい? ……殺してあげよっか?」


 ハルヒちゃんが、囁くように言った。

 マイクの距離が近づいたのか、耳元で、彼女の湿った唇が触れているかのような錯覚に陥る。


「……殺して……殺してくれ……」


 僕は懇願した。責任感に押しつぶされそうな僕を、今すぐ殺してくれ。


「いいよ。じゃあ、ちゃんと死んでね?」


 そこからは、弾丸のような言葉の雨だった。


「死ね。死ね。あんた、生きてる価値ないよ。酸素の無駄。社会の寄生虫。あんたの代わりなんていくらでもいるんだから、安心して消えなよ……。死ね死ね死ね死ね死ね……!」


 視界が白く弾ける。

 罵倒のリズムと、心臓の鼓動が完全に同期する。限界が近い。

 彼女は、僕が果てる瞬間を見計らったように、とびきり優しく、残酷な声で囁いた。


「はい、さようなら」


 その言葉を最後に、僕は絶頂を迎えた。

 意識が遠のく。フランス語でオーガズムを「小さな死(la petite mort)」と呼ぶらしいが、まさにそれだった。僕は一瞬だけ、この世界から消滅した。


 ◇


 どのくらい時が経っただろうか。

 荒い息がおさまり、小さな個室に静寂が訪れる。

 汚れを拭き取り、身支度を整える。不思議と体は軽かった。毒素をすべて排出したような爽快感があった。


 ブース内の照明が明るくなり、終了のアラームが鳴る。

 ヘッドホンから、ハルヒちゃんの声が聞こえた。

 さっきまでの作ったアニメ声ではない。少し低く、ハスキーな、彼女の「地声」だ。


「……全部出せた?」


「……うん。ありがとう」


「そ。ならよかった」


 カチッ、と向こうで何かスイッチを切る音がした。もしかしたら、タバコに火をつけたのかもしれない。


「また、死ねなかったね」


 ヘッドホンを外そうとした時、不意に彼女が言った。

 それは、罵倒でも、営業トークでもない。まるで、出来の悪い弟にかけるような、奇妙な響きを持っていた。

 ああ、そうだ。僕は今日も、肉体的な絶頂に逃げただけで、本当に死ぬことはできなかった。明日もまた、佐藤として生きなければならない。


「また、死にたくなったらおいでね」


 少しの間があった。

 彼女が息を吸う音が聞こえる。


「今度は、死ねるといいね」


 プツッ。

 音声が完全に途切れた。


 僕はしばらく、音のないヘッドホンを握りしめていた。

 また、死ねなかった。だから、生きるしかない。

 でもそれは、絶望ではなかった。来週また、ここで疑似的に死ぬことができるのだから。


 店を出ると、日付が変わったばかりの街は、まだ少し騒がしかった。 

 僕はコンビニでおにぎりを一つ買って、それを齧りながら駅へと歩き出した。

 少しだけ、味がした気がした。

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