線の海

石野 章(坂月タユタ)

線の海

 僕の仕事場は、中央線の高架のすぐ脇にある。昼間でも薄暗い、三階建ての雑居ビルの二階だ。一階は昼も夜も脂っぽい匂いを漂わせているラーメン屋で、三階には誰が住んでいるのかよくわからない。カーテンは閉まったまま、ベランダには割れた植木鉢と錆びた折りたたみ椅子が出しっぱなしになっている。


 僕はそこで、針を握り、人の皮膚に絵を彫る。刺青師というやつだ。タトゥーアーティストと言ってもいいが、どうも口の中で転がしてみても、しっくりこない。カタカナにすると、僕のやっていることが少し軽くなる気がする。僕にとってそれは、そんなに軽いことじゃない。


 朝一番の客は、二十八歳の女性だった。黒いパンツスーツに白いブラウス、髪は後ろでひとつにまとめている。まるで面接に来たみたいだな、と僕は思う。彼女はドアを開けるなり、少し息を切らして「すみません、駅から迷ってしまって」と言った。


「よくあることですよ」と僕は言った。「ここ、目立たないですからね」


 実際、初めての客は決まって道に迷う。ビルの正面に入り口はなく、ラーメン屋の脇の、裏口みたいな階段を上がってやっとたどり着く。少しばかり見つけにくいくらいのほうが、この仕事場には都合がいい。


 彼女は改めて僕の顔と腕を眺めて、「もっと怖そうな人なのかと思いました」と言った。「全身タトゥーだらけとか」


「そういう人もいます」と僕は肩をすくめる。「僕は自分には線を書かない主義なので」


 彼女は窓際のソファに腰を下ろし、手にしていた小さな紙袋を膝の上に置いた。紙袋の角は小さく折れ曲がり、何度か握りしめられた跡がある。


「今日はどんなものを?」と僕は訊いた。


 彼女はノートを取り出し、その間に挟んであった雑誌の切り抜きを僕に差し出した。そこには、流行りのタトゥーショップの広告が載っていて、手首の内側に、小さな月と星が並んでいる写真が写っていた。


「これと、同じもので」と彼女は言った。「左の足首に。仕事が厳しいところなので、大きいのは無理なんです。でも、なんというか……自分だけの印を、ちゃんと持っていたくて」


 僕は写真をしばらく眺めた。悪くはない。悪くはないが、世界のどこかで、同じような月と同じような星が、すでに何千、何万と皮膚に貼りついている。そこに彼女自身の何かが、どれほど入り込む余地があるのだろうか。そんな疑いを抱いても、もちろん口には出さない。


「わかりました」と僕は言った。「まったく同じにしますか? 少しだけ、形や位置を変えることもできますが」


 彼女はしばらく考え、小さく首を振った。


「このままでいいです。あんまり目立つのは嫌なので」


 そうですね、と僕は言って、デザインをトレース用のフィルムに写し取った。彼女の左足首をアルコールで拭き、余分な産毛を剃る。冷たいジェルを塗り、フィルムを丁寧に貼りつける。足首の骨が、薄い皮膚の下で硬く自己主張しているのを指の腹で確かめる。


「緊張してますか?」


「もちろん」彼女は笑った。「痛いですか?」


「痛くない刺青はないですね」と僕は言った。「でも、耐えられないほどではないですよ。もし我慢できなかったら、そのときは止めましょう」


 彼女は深く息を吸い込み、ソファの背もたれを軽く握った。その指の白さを、僕は一瞬だけ見つめる。


 マシンを動かすと、狭い部屋に独特の低い振動音が広がった。針先が皮膚に触れ、わずかな抵抗のあと、中へ入っていく。その瞬間、僕はいつも、薄い膜を破って別の世界に指を差し込んでいるような感覚を覚える。皮膚の向こう側には海があって、そこにはまだ名前のない色の水が静かに揺れている。その海とこちら側とをつなぐために、針は出入りをくり返すのだ。


 そしてその瞬間ごとに、彼女の肉体はほんの僅かに死へ傾く。皮膚は生まれたままの美しさを捨て、インクという異物を受け入れ、決して元には戻らない。そのわずかな死の連続の上に、ひとつの印が静かに築かれていく。


 彼女は、眉間に皺を寄せながらも、ほとんど声を立てなかった。痛みが寄せては返すたび、呼吸のリズムだけがかすかに乱れる。僕はそれを、波の高さを測る漁師のように確かめながら、線を繋いでいった。


 作業は一時間ほどで終わった。月と星は、教科書通りの形で彼女の足首におさまっていた。彼女は身を乗り出してそれを覗き込み、安堵したように息を吐く。


「すごく、かわいい」と彼女は言った。「思っていた通りです」


 かわいい。僕はその言葉を何度か反芻してみる。かわいい刺青。そう言われることに、僕はもう慣れてしまっている。慣れてしまってはいるが、何度聞いても胸の奥に小さな棘が刺さる。


 やがて彼女は誰かの前で裸になり、足首の月と星を見せるだろう。そのとき、それはひとつのエロティックな装飾として機能するに違いない。ささやかな欲望と、ささやかな痛み。その夜の記憶といっしょに、少しずつ薄れていく種類のきらめきだ。


 しかし僕が本当に惹きつけられるのは、そこではない。その小さな印が、彼女の一生の中でどこにどう影を落としていくのかという、ゆっくりした時間のほうだ。歳を取り、別れをくり返し、最後には土に還るまで、その全部にあの線が付き合っていくことのほうなのだ。


「ありがとうございました」と彼女は頭を下げ、料金をテーブルの上に置いて帰っていった。ドアの閉まる音とともに、部屋の中にはマシンの残響だけが薄く漂っている。僕は静かに息を吐き、ゴム手袋を外した。


 かわいい、か。


 窓の外では、電車が通り過ぎていく。車輪の音が、少し遅れてガラスを震わせる。僕はカーテンを少し開け、線路脇の狭い空を眺めた。曇り空は灰色というより、ぬるく濁った水の色をしていた。


 僕は幼いころから、線を引くことにしか関心がなかった。学校のノートは、授業内容よりも欄外の奇妙な模様で埋め尽くされていた。円、三角、四角、それらが絡まり合い、ほどけ、また別の形へと変転してゆく。意味を持たない曲線が、意味を持たぬまま、自らの居場所を求めてさまよっていた。


 美術の先生は何度も僕のノートを取り上げて、ため息をついた。


「お前は、なんでこう、普通の絵を描けないんだ」と先生は言う。「風景とか、人物とか、そういうのは描きたくならないのか?」


 ならない、と僕は心の中で答えた。でも、口には出さなかった。代わりに、教室の窓の外に広がる校庭を眺めた。そこにはサッカーをするクラスメイトたちがいて、そのさらに向こうには、変哲もない団地の建物が並んでいる。誰が描いても同じような風景だと、僕には思えた。


 高校を出て、美大を目指した。予備校に通い、デッサンやクロッキーを山ほど描いた。線の引き方は上手くなった。陰影の付け方もそれなりに身についた。でも、どうしても最後の一枚で、僕は変な線を足してしまう。海の底から伸びてくるような曲線や、どこにも存在しない文字の断片を忍び込ませる。講師は困った顔をして、鉛筆で赤く丸をつけた。


「こういうのは、今はやめておきなさい」と講師は言った。「自由に描くのは、基礎を固めてからでも遅くない」


 でも僕にとっては、それをやめることの方がずっと不自由だった。結局、僕は美大に受からなかった。滑り止めの専門学校も、なんだか違う気がして行かなかった。


 その頃、たまたま友人に連れられて入った小さなバーで、ひとりの男に出会った。腕じゅうに渦巻き模様の刺青を彫っている、静かな男だった。カウンター越しに僕の描いたノートを見て、彼は言った。


「お前の線は、紙じゃなくて、皮膚の方が合うかもしれないな」


 それが、僕の刺青師としての始まりだった。


 その男——師匠と呼ぶことになった人——は、口数は少ないが、針を握るときだけ妙に饒舌になる。僕は数えきれないほど彼の背中を見つめ、彼の手の動きを真似た。皮膚の上に線を引くというのは、紙に描くのとはまったく違う。そこには熱があり、汗があり、震えがある。人によっては、皮膚の下で心臓の鼓動が針先に伝わってくる。


「線ってのはな」と師匠は言った。「その人が生きてきた道と重なるんだ。どんなに同じデザインを彫っても、同じ線にはならないんだよ」


 僕は頷きながら、その言葉の意味を噛みしめた。それは、僕が長いこと探し続けていたものの輪郭に、かすかに触れている気がした。誰にも理解されないと僕が思いこんでいた、自分だけの線のことを、別の言葉で指し示されたような気がしたのだ。


 師匠の店は、古い刺青の客が中心だった。背中一面に龍を、腕に鯉を、胸に牡丹を。黙って座り、黙って帰っていく男たち。その背中には、僕の知らない物語が山ほど詰まっていた。僕はその物語の表面を、ただ静かになぞるだけだった。


 やがて師匠が病に倒れ、店を畳んだ。僕は独立して、高架脇のこの二階を借りる。初めて鍵を回して扉を開けたとき、何にも染まっていない空気の匂いが、するどく肺に刺さった。その空洞に、自分の線だけを流し込んでゆく。失われていた海へ、ようやく戻っていくような心地だった。


 でも、それで僕の線を誰かが理解してくれるわけではなかった。時代は変わり、店に来るのは、小さなタトゥーをねだる若者ばかりだ。どこかで拾ってきた海外のデザインや、恋人同士のイニシャル。彼らが欲しているのは、気に入った図案を皮膚に写し取る作業であって、僕の海などとは無縁だった。僕に許されているのは、余計なものを混ぜず、指定された線だけを黙って置いていくこと、それだけだった。


 午後、予約は入っていなかった。僕は一人で椅子に座り、さっきの女性の足首に彫った月と星のことをもう一度思い出していた。あの線には、僕の海はほとんどない。インクの表面に、ほんの一滴だけ混ざっているかもしれないが、それはたぶん彼女にはわからないだろう。


 ふいにスマートフォンの画面が光り、小さなバイブレーションが机の上に伝わった。新しいメールだ。僕は立ち上がり、画面を覗き込む。


「はじめまして。あなたの作品をインスタグラムで見ました」


 メールはそう始まっていた。差出人は、二十四歳の女性。添付されているのは、僕が以前に彫った刺青の写真だった。肩から背中にかけて、複雑に絡まり合う線が渦を巻いている。海の断片をできるだけ露骨に表に出したデザインだ。その写真は、フォロワーの少ししかいないアカウントにひっそりとアップしたものだった。


「こういう感じのものを、私の胸にも彫ってほしいです。具体的なモチーフはありません。あなたの好きなように、線を描いてほしい。もし可能なら、相談に行きたいです」


 僕は何度かその文章を読み返した。このような依頼を寄越してくる者は、滅多にいない。まったくいないわけではないが、多くは途中で怖気づき、手首だの足首だのに小さな刺青を刻むだけで満足して帰っていく。


「いつでもどうぞ」と僕は返信した。「ただ、いくつか質問させてください。どんな仕事をしているのか、どんな音楽が好きか、最近見た夢のことを、教えてくれませんか」


 僕は時々、そういうことを訊く。そこから何か具体的なモチーフを抽出するわけではない。けれど、海に近づくためには、その人が持っているささやかな波の気配を知っておく必要がある。


 数分後に、思ったより長い返信が届いた。彼女は大学を出てから、古本屋で働いているらしい。レジに立ちながら、今日売れた本のタイトルをノートにメモしているという。好きな音楽は特にないが、店内で流れているラジオに、時々救われることがある。最近見た夢は、棚から本が静かに落ちていくのを、ひとつひとつ拾い上げるというもの。どの本も、表紙が白紙だったそうだ。


 白紙の表紙。なにも刻まれていない皮膚。僕はその二つを重ねて思い描く。そこに刻まれるものは、美しいだけでは足りない。かすかな死の影を帯び、持ち主の身体ごと土の中に沈んでいく線でなければならない。


 結局、彼女は週末に店に来ることになった。僕は最後に「当日は下着はつけないで来てください。皮膚に跡がつくので」と打ち込んで送信した。


 約束の日、午前十時。少し早めに到着したらしい彼女は、入り口の前で所在なさげに立っていた。くたびれたエプロン姿に黒いリュックを背負い、細いフレームの眼鏡をかけている。思っていたより背が高い。


「はじめまして」と彼女は、深く頭を下げた。「メールの……」


「ええ、覚えています」と僕は言った。「どうぞ。上がってください」


 彼女は部屋に入ると、壁に貼られた紙をじっと眺めた。ほとんどが意味のない線の集合体だ。人によっては、そこに何かしらの形を見出そうとする。龍だと言う人もいれば、木の根っこだと言う人もいる。海だと言ったのは、今のところ誰もいない。


「どれも、不思議ですね」と彼女は言った。「ずっと見ていると、自分の体の中にも、こういう線があるような気がしてきます」


 僕は少しだけ笑った。


「実際、ありますよ」と僕は言った。「みんなの中に。見ようとするかどうかの違いだけです」


 彼女はしばらく紙から目を離さずにいたあと、ふと思い出したように僕のほうを見た。


「写真より、実物のほうがずっと変ですね」と彼女が言った。「いい意味で、ですけど」


「写真も自分で撮ってるので」と僕は答えた。「うまく伝わってないなら、僕のせいです」


「伝わってます」と彼女は首を振る。「これ見て、ここに来たんですから」


 彼女は椅子に腰を下ろすと、しばらく膝の上で指を組んでいた。何かを決心するみたいに息を吸ってから、一番上のボタンに指先をかける。小さな音を立てて外し、少し間を置いて、次のボタンへと降りていく。指がボタンの穴を探すたびに、ほんのわずか震えているのがわかった。


 最後のひとつを外したところで、彼女は一度手を止めた。シャツはまだ形を保っている。胸元に引っ掛かった布を、片手でそっと押さえ込むようにしているからだ。


「全部、開けたほうがいいですよね」と、彼女は視線を落としたまま言った。


「描く範囲が見えないと彫ることはできません」と僕は答えた。「必要なのは皮膚だけです」


 彼女は小さく頷き、押さえていた指を少しだけゆるめた。シャツの前が、静かにほどけるように開いていく。胸の中央に、古い傷跡が一本走っている。照明にさらされたばかりの肌にはうっすらと鳥肌が浮かび、慎ましい膨らみの先では、小豆色の蕾が冷えに驚いたようにきゅっと身を縮めていた。彼女は反射的に襟元をもう片方の手で寄せようとして、それを途中でやめる。どこまで隠していいのか、自分の中で測りかねているようだった。


 僕は視線を必要な範囲だけに留めて、傷跡の位置と長さを確認した。仕事で何度も見てきた種類の肌だ。余計な意味を足さないように、頭の中で線と面の情報だけを並べ直す。


「ここに、お願いします」と彼女が言った。声は少し上ずっている。「この傷も、どこかに混ぜてもらえたら、嬉しいです」


 僕は頷き、淡々と言う。


「わかりました。傷の上はインクが入りにくいので、周りの線で支える感じになります。少し冷たくしますよ」


 アルコールを含ませたコットンを手に取り、必要な部分だけを拭いていく。彼女の肩がぴくりと動いたのが視界の端に入ったが、特に何も言わなかった。僕はいつもどおりの手順で、ただ皮膚の状態と温度だけを確かめた。


「痛みに弱くはないですか?」


「たぶん、大丈夫だと思います」と彼女は言った。「古本屋で段ボールを持ち上げるときに、たまに腰を痛めますけど」


 どういう基準なのかよくわからないが、僕は笑ってしまった。彼女もつられて笑い、少し場の空気が柔らかくなる。


「デザインの下絵は、特に用意していません」と僕は言った。「あなたの胸に直接、ペンで描きます。その線をもとに、針を入れていきます。それでも大丈夫ですか?」


 彼女は少しだけ考えたふりをしてから、真っ直ぐに僕を見た。


「それがあなたのやり方なら、それでお願いします」と彼女は言った。


 僕はペンを手に取り、彼女の胸に最初の線を引いた。傷跡の端から始まり、胸骨を避けるようにゆっくりとカーブしながら、右肩の方へ伸びていく。一本の線に、彼女の話してくれた夢や、本屋の埃っぽい空気や、ラジオから流れる知らない曲の断片を、少しずつ溶かし込んでいく。もちろん、そんなことを他人に説明することはできないし、説明したところで理解されるとも思えない。


 やがて、胸全体にゆるやかな渦が浮かび上がった。中心は例の傷跡だ。そこから伸びる線たちは、一度離れていくように見せかけて、またどこかでそっと合流している。海の底で、見えない潮の流れが出会ったり別れたりしている。


「どうですか」と僕はペンを置いて訊いた。「鏡、見ますか?」


 彼女は首を振った。


「いいえ。そのまま、始めてもらえますか」と彼女は言った。「出来上がるまで、見ないでいたいんです」


 僕は頷き、マシンのスイッチを入れた。


 針が皮膚に触れた瞬間、彼女の身体がほんの少し震えた。だけど、すぐに呼吸を整え、椅子の背もたれをしっかりと掴んだ。僕は線をなぞりながら、針先の振動を通して彼女の鼓動を感じ取った。胸の皮膚は、足首とは違う種類の緊張をはらんでいる。わずかな震えが、線に淫靡な柔らかさを与える。


「痛いですか」と僕は訊いた。


「痛いです」と彼女は正直に言った。「でも、なんだか、悪くない痛みです」


 僕はその答えが気に入った。


 作業は半日ほどかかった。途中、何度か休憩を挟み、水を飲んでもらい、深呼吸をさせる。最後の線を引き終えたとき、マシンの音が止み、部屋の中に急に静けさが戻ってきた。高架を走る電車の音だけが、遠くでかすかに響いている。


「終わりました」と僕は言った。「鏡をどうぞ」


 彼女はゆっくりと立ち上がり、大きな鏡の前に立った。まだ赤く腫れた肌に、黒いインクの線がうねるように走っている。彼女はしばらく何も言わず、それをじっと見つめていた。僕は少し距離をとり、彼女の横顔を眺めた。表情からは、何を考えているのかは読み取れない。


 長い沈黙のあとで、彼女は小さく息を吐いた。


「すごい……」と彼女は言った。「何が描かれているのか、正直よくわからないんですけど」


 ですよね、と僕は心の中で思う。


「でも」と彼女は続けた。「なんだか、前から私の中にあったものが、外に出てきたみたいな感じがします」


 僕はほんの少しだけ肩の力を抜いた。理解されたわけではない。きっと、僕の見ている海と、彼女の感じている何かは、違うものなのだ。


「そう感じてくれたなら、よかったです」と僕は言った。


 シャツを羽織りながら、彼女はボタンを三つだけ留めて手を止めた。白い布の隙間から、フィルム越しにインクの渦がのぞいている。胸の真ん中あたりが、まだ薄く赤い。


「せっかく綺麗に描いてもらったのに、しばらくは誰にも見せられないんですね」と彼女が言う。


「急いで見せる必要はないですよ」と僕は言った。


 彼女はソファの背にもたれ、胸の上に置いた手に少しだけ力をこめた。シャツの隙間が、呼吸に合わせてわずかに開いたり閉じたりする。


「治ったころに、また見てもらえますか」と彼女は言った。「色の出方とか、線の感じとか。そういうの、ちゃんとあなたの目で確認してほしいです」


「アフターケアはしますよ」と僕は答える。


「そういう、仕事の話じゃなくて」と彼女は首を傾げる。「そのときは、もうちょっと普通の格好で来てもいいですか? 古本屋のエプロンじゃないやつ」


 それは、たぶん「また会いたい」の別の言い方だった。そう理解できるくらいには、僕も鈍くない。ただ、その先に何があるのかを考え始めると、手が止まってしまう。


「服装は自由です」と僕は言った。「タトゥーが見えれば、それで」


「じゃあ、見える服にします」と彼女は言う。


 僕は道具を拭きながら、できるだけ表情を動かさないようにした。こういうとき、少しでも嬉しそうな顔をすると、たいていろくなことにならない。こちらはただ線の話をしているつもりでも、相手はそこに全然ちがう意味を足していく。結局どこかで帳尻が合わなくなるだけだ。


「一ヶ月くらいしたら、状態が落ち着きます」と僕は淡々と言う。「そのころにメールください。それまでは、あんまりいじらないで」


「いじるのは我慢します」と彼女は言った。「代わりに、想像だけしててもいいですか?」


「何を想像するんですか」


「この線を描いた人のこととか」と彼女は、真正面から僕を見る。「どんなふうに暮らしてるのかとか、どんな夢見てるのかとか。勝手に想像しちゃいそうです」


「好きにすればいいと思います」と僕は言った。「たぶん実物よりは、そっちのほうが面白いですよ」


 彼女は少しだけ唇を尖らせ、それからいたずらっぽく目を細める。


「じゃあ、確認しに来ます」と彼女は言う。「想像の中のあなたと、本物のあなたが、どれくらい違うのか」


 僕は返事をしなかった。服の下で、さっき彫った線が彼女の呼吸に合わせてゆっくり動いているのが、距離をあけていてもわかる。その動きに、自分の心臓までつられてリズムを変えそうになる。それが嫌で、そっけなくしている。余計な線を増やさないために。


「気が向いたら」と僕はようやく言った。「そのうち、また」


「そのうち、ですね」と彼女は繰り返す。「じゃあ、そのうちを信じてます」


 立ち上がった彼女は、ドアノブに手をかけてからもう一度だけこちらを振り返った。小さく微笑んで、ドアが静かに閉まる。残されたインクの匂いと、さっきの会話の熱だけが、まだ部屋の空気のどこかに漂っている気がした。


 冷蔵庫を開けると、薄い明かりが音もなく立ち上がった。缶コーヒーを一本つかみ、指先でプルタブを起こす。金属が裂けるかすかな音が、静かな部屋の中でやけに大きく響いた。甘さの重たい液体が喉を伝って落ちていく。


 こういうとき、昔の景色が勝手に立ち上がる。小学校の図工室のざらついた机、絵の具と石鹸水の混ざった匂い。黒板の前で何かを説明している先生の声。自分が描いた絵の前で、誰かが首をかしげる気配。


 言い訳みたいな説明を重ねれば重ねるほど、かえってずれていくのを、子どものころの僕は早い段階で学んでしまったのかもしれない。だから言葉を減らした。削った言葉のかわりに、線だけを増やしていった。紙の上に、皮膚の上に、意味のない渦を黙って積み重ねることで、何かを辛うじて固定しておける気がした。


 それでも、どこかでまだ諦めきれていない部分が残っているのだろう。誰か一人くらい、自分の海の輪郭を少しだけなぞってくれるかもしれない、という図々しい期待のようなものが、なかなか死んでくれない。


 理解されないということ、それ自体は、耐えられないほどの苦しみではない。真に堪え難いのは、理解されたいと欲してしまう自分の方だった。


 夜になり、シャッターを半分ほど下ろす。作業台の上だけが、ライトに切り取られた島みたいに白く浮かび上がる。僕はそこにマシンを並べ、慣れた手つきで針を取りつけた。何度も繰り返した儀式のはずなのに、今夜だけは行き先が少し違う。


 左の前腕を、客のものと同じようにライトの下へ出す。アルコールを含ませたコットンで、骨ばった面をていねいになぞる。擦れた皮膚の感触が、いつもより少し生々しい。血管の青さ、産毛の流れ、薄く浮かび上がる筋の陰影。


 ここに線を置くことを想像する。細い黒い線が、時間とともに沈み、にじんでいく様子。袖口からふいに覗くその断片に、誰かが気づく可能性。何も知らない誰かの視線が、僕の海のふちに偶然触れてしまう場面。そんな光景が、頭の中に重なっていく。


 ペンを取れば、すぐにでも描ける。長い間、内側にだけ向けていた海の断片を、自分の皮膚に引き戻すことは、きっと難しくない。マシンのスイッチに指先を伸ばそうとして、その少し手前で止まる。


 ライトの熱がじわじわと腕に溜まっていく。部屋は静かだ。マシンはまだ沈黙している。スイッチを押しさえすれば、いつもの振動音が、この逡巡をごまかすくらいには簡単に部屋を満たしてくれるだろう。その音を合図に、僕は迷いなく針を皮膚に沈めることもできるはずだ。


 それでも、どうしても指が動かない。


 もしここに海を刻みつけてしまったら、僕はどこへ向かえばいいのか、もう迷わなくなるかわりに、迷い続ける余地も失うだろう。


 僕はペンを机の上に戻し、針をマシンから外した。ステンレスのトレーの上で、金属同士が微かに触れ合い、短い音を立てて静まる。


 白いままの左腕を眺めて、ゆっくりと袖を下ろした。何かを諦めたようでもあり、何かを辛うじて守ったようでもある。そのどちらなのかは、たぶんしばらく経ってからでないとわからない。


 店の明かりをすべて落とすと、外の暗さと内側の暗さがゆっくりと混ざり合った。どこか遠くで、見えない海が小さく身じろぎするような気配がした。

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線の海 石野 章(坂月タユタ) @sakazuki1552

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