導入(怪盗陣営)

継承の鍵、雪解けの輪

夢を見ていた。

それは天野琉真にとって、人生の分水嶺となった、あの雨の日の記憶だった。

路地裏の空気は淀んでいた。

降りしきる雨がアスファルトを叩き、排水溝から立ち上る腐臭と、安っぽいタバコの煙が混じり合う。

琉真は壁に背を預け、ずぶ濡れになりながら紫煙を吐き出していた。足元には、つい先ほど叩きつけてきた辞表が、泥水に塗れて張り付いている。

高校を中退し、職を転々とし、どこにも馴染めずに弾き出される日々。

社会という巨大なシステムの中で、自分という部品だけがどこにも噛み合わない。苛立ちと、諦めと、底知れない孤独。

拳には喧嘩で作った傷が絶えず、心には誰にも触れさせない棘を張り巡らせていた頃の自分だ。

(……クソが)

吐き捨てた言葉は、雨音にかき消された。

いっそ、このままどこかで野垂れ死ぬのも悪くないかもしれない。そんな自暴自棄な思考が頭をよぎった時、不意に視界に影が差した。

「おい、兄ちゃん。いい面構えしてんじゃねえか」

顔を上げると、そこには一人の男が立っていた。

上質なスーツを着崩し、傘も差さずに雨に打たれているというのに、その男からは太陽のような熱気が漂っていた。

それが、「先代」――木下銀二との出会いだった。

怪しい勧誘か、あるいは因縁をつけられたのか。琉真が威嚇するように睨みつけても、男は動じるどころか、面白そうに口の端を吊り上げた。

「行くあてがねえなら、ウチに来な。面白いショーを見せてやるよ」

差し出された手。

その手は大きく、分厚く、そして不思議なほど温かかった。

琉真はその手を振り払うことができなかった。野良犬のように牙を剥いていた自分を、初めて「人間」として見てくれた気がしたからだ。

あれから数年。

怪盗団『Ebony Talons』。そこは、社会から弾き出された者たちが集う、奇妙で温かい吹き溜まりだった。

先代は豪快で、破天荒で、それでいて誰よりも情に厚い男だった。

喧嘩っ早く、不器用な琉真を、彼は時に拳で語り合い、時に腹がよじれるほど笑い飛ばしながら育て上げてくれた。

ここには、理不尽な暴力も、陰湿な足の引っ張り合いもない。あるのは義理と人情、そして弱きを助ける「義賊」としての誇りだけ。

いつしか、琉真の口調からは刺々しさが消えていた。

肩肘を張って強がる必要など、もうどこにもなかったからだ。

甘えてもいい。弱音を吐いてもいい。そう思える環境が、彼を変えた。丁寧で、どこか艶のある物腰――いわゆる「オネエ言葉」を使うようになったのは、この場所が彼にとって絶対的な「守るべき家」になったことの証左でもあった。

場面が変わる。

記憶の底から浮上してきたのは、ボスの自室での光景だ。

いつもの晩酌。琥珀色の液体が揺れるグラスを片手に、先代は上機嫌に笑っていた。

琉真もまた、リラックスした様子でグラスを傾ける。

だが、ある瞬間、ふいに部屋の空気が変わった。

先代がグラスを置き、真剣な眼差しで琉真を見据えたのだ。

「なあ、琉真。俺の跡、継いでくんねえか?」

世間話の延長のような軽さで、けれど、そこには重い響きがあった。

次期ボスへの打診。

あまりにあっけらかんとしたその態度に、琉真は思わず口に含んだ酒を吹き出しそうになった。

「……はあ? 何言ってるんですか、ボス。まだ還暦も迎えてないでしょうに」

「馬鹿野郎、引き際ってのは肝心なんだよ。それに、お前ならやれる。俺が見込んだんだ、間違いねえ」

先代はニカッと笑った。

その瞳には、一点の曇りもない信頼と、我が子を見るような親愛の色が宿っていた。

琉真は胸が熱くなるのを感じた。

路地裏でうずくまっていた自分を拾い上げ、ここまで育ててくれた恩人。その彼が、自分を認めてくれた。

琉真はその申し出を受け入れた。

この場所を、この家族を守り抜くことこそが、自分の生きる意味だと確信したからだ。

嬉しそうに頷いた先代は、懐から何かを取り出した。

チェーンに通された、小さな金色の鍵。

アンティークのような繊細な装飾が施された、美しい鍵だった。

「いつかはこいつを託そうと思ってたんだ。頼んだぜ、次期ボスさんよ」

手渡された鍵の冷たさが、掌にじんわりと伝わる。

それは、怪盗団の金庫の鍵でも、隠れ家の鍵でもないように見えた。

首をかしげる璢真に、先代は静かに語りかけた。

「俺もまだまだ現役のつもりだが、安全な仕事じゃあねぇ。いつどうなるか分からない」

「……縁起でもないこと言わないでくださいよ」

「ハハッ、違いねぇ。だがな、もし俺に万一のことがあれば……その時は、その鍵の『錠前』の持ち主を頼りにすりゃあいい」

鍵と、錠前。

二つ揃って初めて意味を成すもの。

「きっとお前の、この怪盗団の力になってくれるだろうさ」

「錠前の持ち主って……誰なんです?」

「時が来りゃ分かる。大事にしとけ、いざという時に使えよォ」

そう言って、彼はまた豪快に笑った。

それ以上、何を聞いてもはぐらかされるばかりで、結局その日は何も教えてはもらえなかった。

ただ、「いざという時」という言葉だけが、重く心に残った。

――意識が浮上する。

琉真はゆっくりと目を開けた。

寝起きのぼんやりとした頭で、無意識に首の後ろへと手を伸ばす。

チョーカーの内側。誰にも見えない場所に隠された、小さな異物感。

指先でその形をなぞる。

あの日託された、金色の鍵だ。

(……時が来れば、か)

あれから二年。

「万一のこと」は、唐突に現実となった。

先代は突然、行方をくらませたのだ。何の前触れもなく、煙のように。

残されたのはこの鍵と、怪盗団という大きな責任。

必死に奔走し、仲間たちに支えられながら、どうにか「ボス」としての役割を果たしてきたつもりだ。

だが、この鍵が合う「錠前」には、未だに出会えていない。

琉真は体を起こし、鏡の前へと向かった。

前髪を整え、左目を隠すように流す。

これはかつての喧嘩の傷を隠すためでもあり、突然の闇にも対応できるようにするための、怪盗としての矜持だ。

鏡の中の自分は、あの頃の荒くれた少年ではない。

怪盗団『Ebony Talons』を率いる、若きボス――コードネーム「モルダバイト」の顔をしている。

今日は、重要な任務の日だ。

先代と懇意にしていた良家の当主からの、直々の依頼。

失敗は許されない。

琉真は首元のチョーカーを指で弾き、不敵な笑みを浮かべた。

「……さて、行きますか」

***

三上璃都もまた、夢の中にいた。

それは彼女の原点であり、魂に刻み込まれた記憶の断片。

そして、決して癒えることのない傷痕の再演だった。

夢の始まりは、いつも幸福な光景だ。

三月三日。璃都の六歳の誕生日。

季節外れの大雪に見舞われた日だったが、家の中は暖炉の火で暖かかった。

テーブルには母の手作りのケーキ。甘いクリームの香りが鼻をくすぐる。

大好きなパパが、大きな掌で頭を撫でてくれる。

大好きなママが、キッチンから優しい眼差しを向けてくれる。

父が構えるデジカメのフラッシュが焚かれるたび、璃都は満面の笑みを浮かべてポーズをとった。

この幸せが、永遠に続くと信じていた。

あのチャイムが鳴るまでは。

突然の来訪者。

父が扉を開けた瞬間、世界は反転した。

怒号。悲鳴。そして、肉が裂ける鈍い音。

父は腹を刺され、それでも必死に「逃げろ!」と叫びながら、押し入ってきた暴漢に組み付いた。

鮮血が壁紙に飛び散る。

母は悲鳴を押し殺し、璃都を抱きかかえて洗面所へと走った。

だが、逃げ場などない。

母は震える手で、山積みになっていた洗濯カゴの中に璃都を押し込んだ。柔らかいタオルや衣類が、璃都の小さな体を覆い隠す。

「愛しいリト、あなただけでも生き延びて」

母の顔は涙で濡れ、恐怖で引きつっていた。それでも、母は無理やりに口角を上げ、璃都に微笑みかけたのだ。

「……それから、どうか笑って」

それは、最期の呪いのような、祈りだった。

母は父のデジカメを璃都の手に握らせると、包丁を構えて立ち上がった。

足音が近づいてくる。重く、湿った足音。

洗濯物の隙間から、璃都は見ていた。

母が、父の仇を討とうと男に飛びかかるのを。

男の左腕を切りつけ、そして――その倍以上の暴力で、胸を突き刺され、崩れ落ちるのを。

男は舌打ちをし、母の体をゴミのように蹴り飛ばした。

覆面をした大柄な男。左手には、血の滴る軍用のサバイバルナイフ。

男は鼻歌交じりに家の中を物色し始めた。

璃都は、洗濯カゴの中で息を止めていた。

悲鳴を上げれば見つかる。泣けば殺される。

目の前で、大好きな両親が肉の塊に変わってしまったのに。

耳を塞ぎたくなるような静寂と、鼻をつく鉄錆のような血の匂い。

カゴの中の暗闇と閉塞感は、幼い璃都の心に、消えない恐怖の刻印を焼き付けた。

やがて男が去り、璃都は弾かれたように家を飛び出した。

これは悪い夢だ。誰か大人が助けてくれれば、目が覚めるはずだ。

裸足のまま、雪の中を駆ける。

頬を叩く雪の冷たさが、これが現実であることを残酷に告げていた。

いくら走っても、人の姿はない。大雪のせいで、街は死んだように静まり返っていた。

足の感覚がなくなり、璃都は雪の中に倒れ込んだ。

(……ああ、死ぬのかな)

凍てつく寒さの中で、感覚が遠のいていく。

目を開けることすら億劫で、璃都は死を受け入れようとしていた。

母の「生き延びて」という言葉すら、雪の冷たさに溶けて消えそうだった。

視界が白く霞み、空に星が見える気がした。パパとママが待っている、お星さま。

そんな彼女を、現世へと引き戻したのは、必死な呼び声だった。

誰かが、自分を呼んでいる。

睫毛を震わせ、わずかに目を開ける。

ぼんやりとした視界に映ったのは、たいそう美しい少女の顔だった。その赤い、赤い目に、吸い込まれそうだと思う。

雪の精だろうか。それとも、迎えに来た天使だろうか。

そんなことを思いながら、璃都はまた深い闇へと落ちていく。

その直前。

ふいに、左腕に冷たい金属が触れる感覚があった。

それは枷のようであり、同時に、命を繋ぎ止める錨のようでもあった。

――場面が切り替わる。

見知らぬ天井。温かな布団の感触。

自分が生きていることに驚きながら、璃都は体を起こした。

そこには二人の壮年の男性がいた。

一人は良家の「当主」。もう一人は、後に彼女の「ボス」となる、怪盗団の先代だった。

その後、数年間の記憶は、悪夢の連続だった。

PTSDによるフラッシュバック。毎晩のように襲う、血塗れの記憶。

閉所への極度な恐怖。笑顔と絶叫を繰り返す情緒の崩壊。

けれど、怪盗団の仲間たちは、そんな「壊れた子供」を見捨てなかった。

根気強く、温かく、家族として接し続けてくれた。

そのおかげで、璃都は少しずつ自分を取り戻していった。

そして、心に三つの誓いを立てた。

一つ、強くなること。二度と大切なものを奪われないために。

二つ、恩を返すこと。命を救ってくれたあのお嬢様と、育ててくれたこの組織に。

三つ、復讐すること。両親を惨殺したあの男に、罪を償わせるために。

場面が飛ぶ。

そこは、鬱蒼とした山の中だった。

十九歳になった璃都は、ついに「彼」を見つけ出したのだ。

十三年もの間、執念で追い続けた、左利きの男。

金のためなら何でもする狂犬。

璃都は男の足と胸を撃ち抜き、追い詰めた。

フードが捲れ、璃都の顔を見た男は、薄ら笑いを浮かべて言った。

『その面、そういうことか。お前のママは最後まで必死でな、ありゃあ面白かったな』

『……っ!』

『大好きなパパとママの仇討ちごっこか。家族の絆ってのはつくづく素晴らしいなぁ』

頭の中で、何かが弾け飛んだ。

視界が真っ赤に染まる。

気づけば、璃都は引き金を引いていた。

一度ではない。全弾撃ち尽くし、それでも足りずにリロードし、動かなくなった肉塊に向かって鉛弾を叩き込み続けた。

激情が去った後、残ったのは静寂と、硝煙の匂い。

そして、決定的な喪失感だった。

自分は、人殺しになった。

あの外道と同じ、命を奪う側の人間になったのだ。

復讐は終わった。けれど、心に開いた穴は塞がらなかった。

両親の写真に話しかける幼い自分は、その日を境に消え去った。

残ったのは、罪を背負い、それでも「明日には明日の風が吹く」と笑って生きる、道化の仮面を被った一人の怪盗団員。

――意識が浮上する。

璃都は目を覚まし、上体を起こした。

冷や汗が背中を伝う。夢見は最悪だったが、不思議と心は凪いでいた。

いつものように寝癖のついた髪をかき上げながら、無意識に左腕へと視線を落とす。

そこには、あの日もらった銀の腕輪が光っていた。

あの子とお揃いだという、世界でたった一つの宝物。

あの日以来、恩人の顔は見ていない。

身分違いの彼女に会うことなど許されないと思っていたし、何より、血に汚れた自分が彼女の前に現れることなど、許されない気がしていたからだ。

けれど、今日。

ついに、その日がやってきた。

例の良家の当主からの依頼。跡取り娘――「京極綾奈」の護衛任務。

十六年越しの再会だ。

彼女は自分のことを覚えているだろうか。

いや、覚えていなくても構わない。

ただ、あの日貰った命を使って、今度は自分が彼女を守る番が来たのだ。それだけで十分だった。

ドアの外から上司の声が聞こえる。すぐに準備を整えなければ。

璃都は腕輪をそっと撫でる。

黒い石の奥で、赤い炎のような光が揺らめいた気がした。

「……っし! 行きますか!」

パン、と両頬を叩いて気合を入れる。

鏡の中の自分は、いつもの能天気な笑顔を浮かべている。

コードネーム「リチア」。

燃えて灰になる石の名を持つ少女。

その瞳の奥には、揺るぎない決意が宿っていた。

絶対に、守り抜いてみせる。

私の命に代えても。

あなたがくれたこの命は、あなたを守るためにあるのだから。

璃都は愛用の銃をホルスターに収め、部屋を出た。

向かうは、思い出の屋敷。

そして、愛しい恩人のもとへ。

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