甘い毒、舞台は開かれて
夜の帳が完全に下りた。
窓の外は漆黒の闇に包まれ、時折吹き抜ける風が木々を揺らす音だけが、不気味な通奏低音のように響いている。
部屋の時計が、約束の刻限を告げた。
コン、コン。
重厚なマホガニーの扉を叩く、短く、礼儀正しいノックの音。
ソファに座っていた綾奈は、手元のカップをソーサーに戻し、ゆっくりと顔を上げた。その瞳から、先ほどまでの憂いや迷いは消え失せている。あるのは、獲物を前にした捕食者のような、静かで冷たい光だけだ。
傍らに控えていた獅子堂が、無言で頷く。
彼の手は、すでに懐の武器ではなく、テーブルの上に用意された小さなバスケットへと添えられていた。
「……お入りなさい」
綾奈の声は、透き通るように凛としていた。
ガチャリとノブが回り、扉が開く。
入室してきたのは、二人の屈強な男たちだった。
京極家に長く仕える、ベテランの護衛たち。身に纏った黒いスーツには皺ひとつなく、その立ち居振る舞いからは、長年の訓練に裏打ちされた隙のなさが滲み出ている。
彼らは部屋の中央まで進み出ると、主である綾奈に向かって恭しく一礼した。
「綾奈様、お迎えに上がりました」
年嵩の護衛が、落ち着いた声で告げる。
「ご準備ができましたら、向かいましょう。外部組織より参る者たちも、もうしばらくで到着する模様です」
「ええ、分かったわ」
綾奈は優雅に立ち上がる。その仕草には、微塵の不自然さもない。
護衛の一人が、気遣わしげに言葉を継いだ。
「宝物庫と銘打ってはおりますが、何不自由なく通常通り過ごせるように環境が整えられております。向こうに着きましたら、温かい紅茶でもいかがでしょうか」
「ありがとう。パパの……当主の配慮には感謝するわ」
「ご心配なさらず。不穏な事件が巷を騒がせておりますが、我らがお嬢様をお守りいたしますゆえ」
男たちは、真剣な眼差しで綾奈を見つめていた。
そこにあるのは、主家への絶対的な忠誠と、か弱き令嬢を守り抜こうとする騎士のような使命感だ。彼らは本気で、自らの命に代えても綾奈を守るつもりなのだろう。
その純粋な善意が、今は滑稽で、そして哀れだった。
「……そうね。頼りにしているわ」
綾奈はふわりと微笑んだ。
それは、彼らがよく知る「心優しきお嬢様」の笑顔だった。
「あなたたちは大変ね。これから数日……二十四時間、休みなく私の警護をするのでしょう?」
「当然のことです。大変などというものではありません」
即答する護衛に、綾奈は感嘆したように息を漏らす。
「さすが、パパが見込んだだけあるわ。素晴らしい忠誠心ね」
彼女はテーブルの上にあったバスケットを手に取り、護衛たちの前へと歩み寄った。
甘い、スパイスの香りがふわりと漂う。
「そんなあなたたちに、私自ら用意したお菓子があるの。……食べてくれる?」
綾奈の言葉に、護衛たちは驚いたように顔を見合わせた。
次期当主である綾奈が、自分たちのような護衛のために手ずから菓子を用意するなど、異例中の異例だ。
だが、彼らの目に疑いの色はなかった。あるのは、主からの身に余る寵愛への恐縮と、隠しきれない喜びだけ。
「綾奈様が……? はい、それはもちろん。ありがたくいただきます」
「ふふ、よかった。異国のレシピで作ってみたの。少し癖のある香りがするけれど……」
綾奈はバスケットから、焼き菓子を二つ取り出した。
シナモンやナツメグの香りが強く漂う、褐色の焼き菓子。その香りの奥底に潜む、ケミカルな刺激臭に気づく者は、ここにはいない。
獅子堂だけが、表情を鉄面皮のように強張らせたまま、その光景を見守っていた。
「“束の間の休息”……ってやつよ」
綾奈が差し出した菓子を、護衛たちは手袋を外して受け取る。
「少し変わった味がするかもしれないけれど、遠慮なく召し上がって。私の気持ちよ」
「は……頂戴いたします」
男たちは、疑う素振りすら見せず、その菓子を口へと運んだ。
サクリ、という乾いた音が、静寂な部屋に響く。
彼らがそれを飲み下すのを、綾奈は瞬きもせずに見つめていた。
その瞳の奥が、冷ややかに光る。
「――美味しい?」
問いかけに対する答えは、言葉としては返ってこなかった。
ドサリ。
重い何かが倒れる音が、二つ重なった。
強烈な睡魔は、咀嚼する時間すら与えなかったようだ。白目を剥き、糸が切れた人形のように崩れ落ちた二人の護衛。彼らは床に突っ伏したまま、ピクリとも動かなくなった。
部屋に、再び静寂が戻る。
「……美味しいって顔ね。よかったわ」
綾奈は倒れた男たちを見下ろし、冷徹に言い放った。
先ほどまでの可憐な令嬢の仮面は、既に剥がれ落ちている。
「獅子堂」
「はい」
「うまくいったわね。……さあ、片付けるわよ」
綾奈はドレスの裾を翻し、邪魔そうに男の足を爪先でつついた。
「……重いわ。助けようとしたら下敷きになってしまったわね」
「薬の量が適切だったようで何よりです。呼吸は……ありますね。深く眠っているだけです」
獅子堂は慣れた手つきで男たちの脈を確認すると、淡々と報告した。
罪悪感はない。あるのは、任務遂行への義務感だけだ。
「どうしますか、お嬢様。このまま部屋に放置しておきますか?」
「いいえ。万が一、他の使用人が入ってきたら面倒だわ」
綾奈は部屋を見回し、天蓋付きの大きなベッドに視線を止めた。
「ベッドの下に隠しましょう。うら若き乙女のベッドの下を覗くような無粋な人間は、この屋敷にはいないはずよ」
「……承知いたしました」
獅子堂は屈強な男の体を一人で担ぎ上げると、無造作にベッドの下へと押し込んでいく。
一人、また一人。
京極家の精鋭たる護衛たちが、埃に塗れて詰め込まれていく様は、どこか滑稽で、そして残酷だった。
作業を終えた獅子堂が立ち上がり、乱れたスーツを直す。
「処理完了です。……さて、次は私たちの番ですね」
「ええ。ここからは時間との勝負よ」
綾奈はクローゼットへと向かい、その扉を開け放った。
中には、事前に用意しておいた「変装用」の衣装が隠されている。
彼女はそれを掴み取ると、振り返りもせずに衝立の向こうへと消えた。
「着替えてくるわ。獅子堂、あなたも準備を」
「御意」
衣擦れの音がする。
数分後、衝立の向こうから現れたのは、先ほどまでの「京極綾奈」ではなかった。
豪奢なドレスの代わりに身に纏うのは、機能的で飾り気のない、黒を基調としたパンツスーツ。
美しく結い上げられていた髪は解かれ、無造作に束ねられている。
メイクも変わっていた。目元を鋭く強調し、唇の色を抑えたその顔立ちは、深窓の令嬢ではなく、幾多の修羅場を潜り抜けてきた「プロの護衛」そのものだった。
そして何より、彼女が纏う空気が変わっていた。
甘さは消え、研ぎ澄まされた刃のような冷徹さが全身を覆っている。
「……どう?」
「お見事です。どこからどう見ても、別人ですね」
獅子堂もまた、執事服から護衛用のスーツへと着替えを済ませていた。胸元のベルトは引き締まる彼の体躯が強調され、どこか手練れの雰囲気を感じ取らせる。その様子を視界に収めた綾奈はくす、と静かな音を立ててほほ笑んだ。
「荷物はこれですべて?」
「ええ。必要なものは持ったわ」
綾奈が、獅子堂の足元に置かれた真護衛たちの装備品――インカム、カードキー、そして拳銃を拾い上げる。
冷たい金属の感触が、掌に馴染む。
彼女は慣れた手つきで銃の状態を確認すると、それをホルスターに収めた。
「それと、獅子堂。ここからは設定を徹底して」
「はい」
「あなたは『上司』、私は『部下』。……その敬語も、禁止よ」
綾奈は上目遣いに、けれど有無を言わせぬ眼力で獅子堂を睨みつけた。
年功序列、それによる先入観。
外部の人間から見れば、年上である獅子堂が上司で、若い綾奈が部下である方が自然だ。
それに、もしもの時に獅子堂が綾奈を庇ったとしても、「未熟な部下を上司が守った」という構図にすれば怪しまれない。
「……承知いたしました。いや、分かった」
獅子堂の声色が、低く、ぶっきらぼうなものへと変わる。
長年染みついた敬語を捨てることに、一瞬の抵抗はあった。だが、彼はプロフェッショナルだ。
主を守るためならば、悪党にでも、無頼漢にでもなってみせる。
「お嬢様……いや、『濃幽』。呼び方はどうする」
「……濃幽、でいいわ。深夜のテンションで考えた偽名だけど、今更変えるのも面倒だし」
綾奈――いや、濃幽知音は、肩をすくめて自嘲気味に笑った。
「お前の方はどうする? 名前」
「俺は『獅子堂』のままでいい。外部の人間だ、名前が知られているわけでもない」
「分かったわ。……よろしく頼むわよ、上司殿」
「ああ。足を引っ張るなよ」
二人は視線を交わし、微かに口角を上げた。
それは、主従の絆を確かめ合う儀式であり、共犯者としての契約の更新だった。
「さて、行く前に……最後の仕上げね」
濃幽は机に向かうと、一冊のノートを取り出した。彼女の日記帳だ。
パラパラとページをめくり、今日の日付のページを開く。
そして、そこを乱暴に破り取った。
「なにか書き残すのか?」
「ええ。私が自発的に部屋を出たと思わせるための、証拠作りよ」
彼女はペンを走らせる。
そこに書かれたのは、あまりにも俗っぽく、そしていかにも「奔放な令嬢」が書きそうな一文だった。
『Wi-Fiだけつなぎに行ってくる』
それを見て、獅子堂は思わず呆れたように息を吐いた。
「……本気か?」
「本気よ。別棟は電波が悪いもの。現代っ子がネット環境を求めて脱走するなんて、よくある話でしょう?」
「お前らしいと言えば、お前らしいが……」
「それに、香水も撒いておきましょう」
彼女はドレッサーから香水の瓶を取り出すと、部屋の中に数回スプレーした。
甘く、人工的な香りが充満する。
ここに確かに「京極綾奈」がいたという残り香。そして、その残り香を残して彼女が消えたという事実が、後から来る者たちを混乱させるだろう。
「完璧ね」
濃幽は満足げに頷くと、部屋の明かりを落とした。
月明かりだけが差し込む薄暗い部屋。
ベッドの下には本物の護衛たちが眠り、机の上にはふざけた書き置き。
全ては整った。
「行きましょう、センパイ」
「ああ」
二人は足音を殺し、部屋を後にする。
廊下には誰もいない。
かつかつと、二人の足音がリズムを刻む。
階段を下り、エントランスへ。
そこは、劇場の入り口だ。
小窓から見上げる夜空は、吸い込まれるように暗い。
だが、彼らの瞳は、その闇よりも深く、強い光を宿していた。
京極家の美しい跡取り娘「京極綾奈」のいち護衛・濃幽知音として。
そして、彼女を導く上司・獅子堂堅として。
仮面を被った「護衛」たちの夜が、今、始まる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます