その予告状

朝食を終えた綾奈は、ナプキンをテーブルに置くと同時に立ち上がった。

カトラリーが触れ合う微かな金属音だけが響いていたダイニングルームに、衣擦れの音が落ちる。

長テーブルの向こう側、主人の席は依然として空席のままだった。

かつては、そこには必ず父の笑顔があった。

一日の始まりを告げる挨拶があり、他愛もない会話があり、温かな紅茶の香りがあった。

けれど今、そこにあるのは冷たい空白だけだ。

主を失った椅子は、まるで墓標のように静まり返っている。

「……ごちそうさま」

誰に言うでもなく呟き、綾奈は踵を返した。

その背中に、獅子堂が音もなく付き従う。

廊下に出ると、屋敷の中はひっそりと静まり返っていた。

使用人たちの気配はある。けれど、誰もがどこか怯えたように息を潜め、足音すら忍ばせて働いているのが伝わってくる。

それもそうだろう。

当主・慶介の異変は、屋敷全体に重苦しい影を落としていた。

廊下ですれ違う使用人たちは、綾奈の姿を認めると深々と頭を下げるが、その表情はどこか硬い。彼らもまた、不安なのだ。敬愛する当主が変わってしまったことへの戸惑いと、これから起こるかもしれない何かへの予感に。

「……獅子堂」

「はい」

前を向いたまま、綾奈が呼ぶ。

獅子堂は歩調を乱さず、主人の声が届く距離を保ったまま応える。

「パパは、今日もいなかったわね」

「左様でございますね」

「別棟に籠りきり。食事もとらず、娘の顔も見ず……一体、何をしているのかしら」

その声には、怒りよりも深い哀しみが滲んでいた。

綾奈は立ち止まり、廊下の窓から中庭を見下ろした。

手入れの行き届いた庭園の向こう、鬱蒼とした木立に囲まれて、別棟の屋根がわずかに覗いている。

あそこに、父がいる。

そして、父を変えてしまった「何か」も。

「……必ず、確かめなくちゃ」

綾奈は窓枠に手をかけ、独り言のように呟いた。

その指先が白くなるほど強く力を込めているのを、獅子堂は見逃さなかった。

「ええ。お嬢様の望む通りに」

彼は静かに肯定する。

その言葉に、綾奈は弾かれたように顔を上げ、獅子堂を振り返った。

不安げな少女の顔はもうない。そこにあるのは、どこか飄々とした笑み。覚悟を決めた次期当主の顔だった。

「行きましょう。準備をしなくちゃ」

綾奈は再び歩き出す。

その足取りは、食堂を出た時よりも幾分か強く、速くなっていた。

***

自室に戻ると、綾奈は重厚なソファに身を投げ出した。

天蓋付きのベッド、アンティークのチェスト、壁に飾られた絵画。

幼い頃から慣れ親しんだこの部屋は、綾奈にとって世界の全てであり、同時に美しく飾られた鳥籠のようでもある。

獅子堂が手際よく紅茶を淹れる。

カップから立ち上る湯気と香りが、張り詰めた空気をわずかに和らげた。

「……ありがとう」

カップを受け取り、一口含む。温かい液体が喉を通ると、強張っていた体が少しだけ解れる気がした。

今日は、別棟への移動日だ。

巷を騒がせる失踪事件から身を守るためという名目で、綾奈は今日から別棟の「宝物庫」へ隔離されることになっている。

表向きは「避難」だが、実態は「幽閉」に近い。

父は、綾奈をあそこに閉じ込め、誰にも会わせないつもりなのだ。

だが、綾奈たちにとっては好都合だった。

別棟に入りさえすれば、こちらのものだ。

本物の護衛たちを排除し、内部から父の異変の原因を探る。そのための準備は、もう整っている。

コンコン、と控えめなノックの音が響いた。

「お嬢様、失礼いたします」

入ってきたのは若いメイド、篠原だった。

彼女はこの屋敷に仕えて数年になるが、真面目で気の利く、綾奈のお気に入りの一人だ。

手には大きなトランクと、衣装を入れるためのガーメントバッグを持っている。

「荷物の整理に参りました」

「ええ、お願いするわ。獅子堂、手伝ってあげて」

「かしこまりました」

獅子堂が歩み寄ると、メイドは恐縮したように頭を下げた。

彼女は手早くクローゼットを開け、綾奈が別棟で過ごすための衣服や日用品を選び出し、トランクに詰め込んでいく。

その手つきは慣れたものだったが、どこか落ち着きがないようにも見えた。

視線が泳ぎ、時折、不安そうに窓の外――別棟の方角を気にしている。

綾奈は紅茶を飲みながら、そんなメイドの様子を観察していた。

彼女だけではない。今の京極家全体を覆う、得体の知れない不安の正体。

それは単に当主の乱心だけが原因なのだろうか。

「……何かあったの?」

綾奈が不意に声をかけると、篠原はビクリと肩を震わせた。

手を止め、おずおずと振り返る。その顔色は、心なしか悪い。

「い、いえ……その……」

「隠さなくていいわ。顔に『不安です』って書いてあるもの」

「申し訳ございません……」

彼女は俯き、手に持っていたドレスをぎゅっと握りしめた。

沈黙が落ちる。

獅子堂もまた、手を止めて彼女の言葉を待った。

やがて、意を決したように篠原が顔を上げる。

「あの……お聞きになりましたか? 綾奈様」

「何を?」

「今朝……屋敷に、予告状が届いたという話を」

予告状。

その単語に、綾奈の眉がわずかに動く。

獅子堂も目を細め、鋭い視線をメイドに向けた。

「予告状って、まさか……」

「はい。あの、世間を騒がせている怪盗団……『Ebony Talons』からです」

Ebony Talons。

黒い鉤爪の名を持つその怪盗団は、近年急速に名を上げている組織だ。

神出鬼没で、狙った獲物は逃さない。

彼らが関わったとされる事件は数知れず、その鮮やかな手口は裏社会でも伝説のように語られているという。

「今朝、旦那様のもとに届いたそうです。『本日、別棟の美しい宝を頂きに参る』と……」

篠原の声が震える。

美しい、宝。

「……宝って」

「ま、まさか……綾奈様のことではないかと、使用人たちの間で噂になっていて……!」

彼女は今にも泣き出しそうな顔で訴えた。

無理もない。

京極綾奈は、その美貌と聡明さで社交界でも有名な令嬢だ。

「京極家の至宝」と称される彼女が、怪盗団のターゲットにされたとしても不思議ではない――そう、誰もが思うだろう。

「もしかして、連日の失踪事件って……本当は誘拐事件で……怪盗団が犯人だったんでしょうか……?」

篠原の言葉に、綾奈はカップを持つ手を止めた。

失踪事件。

美しい人間ばかりが狙われ、忽然と姿を消す不可解な事件。

警察の捜査も及ばず、犯人の手がかりすら掴めていない。

それが怪盗団の仕業だとしたら?

(……いいえ、違うわ)

綾奈は直感的に否定した。

怪盗団は物を盗むのが仕事だ。人間を、それも何人も攫ってどうするというのか。

それに、父の異変と失踪事件の時期は奇妙に符合している。

あの「絵」が関わっていることは明白だ。

怪盗団の出現は、あくまでイレギュラーな要素に過ぎない。

だが、獅子堂の思考は別の方向へ動いていた。

彼は冷静に状況を分析する。

失踪した者たちが予告状を受け取っていたという事実は、これまで報道されていない。

単なる愉快犯か、便乗犯か。

あるいは――。

(……利用できるかもしれませんね)

獅子堂は内心で独りごちる。

怪盗団が動いているという情報は、屋敷の警備を撹乱させるには十分だ。

今夜の作戦――護衛への成り代わりと、別棟への潜入。

もし何らかのトラブルが起きても、全てを「怪盗団の仕業」にしてしまえばいい。

本物の護衛たちが昏倒しているのも、別棟で何かが起きるのも、全て怪盗団のせいにできる。

「旦那様ご贔屓の身辺警護の人材派遣会社、『Bling AmGi』からも護衛の方が来てくださるとはいえ……不安です」

「Bling AmGi……」

父が信頼を置く外部の警備会社だ。

そこから派遣される二人の護衛が、今夜の作戦における最大の障壁であり、同時に最大の不確定要素だった。

彼らをどう欺くか。それがこの作戦の成否を握っている。

「綾奈様……どうか、お気を付けくださいね」

篠原は心底心配そうに、綾奈を見つめた。

その純粋な忠誠心と愛情に、綾奈は少しだけ胸が痛んだ。

これから自分が行おうとしていることは、彼女たちの心配を裏切るような危険な行為だ。

けれど、立ち止まるわけにはいかない。

綾奈はカップをソーサーに戻し、ふわりと微笑んだ。

それは不安を隠す仮面であり、同時に、使用人を安心させるための主としての慈愛でもあった。

「心配しないで。私は強いから」

努めて明るい声で言う。

「だいたい、琵琶湖の真ん中に家を建てたいとか言い出すような人間を、攫う物好きなんていないわよ」

「え……?」

「琵琶湖ですよ? 真ん中にポツンと。そんな変な夢を持ってる人間、怪盗だって持て余すに決まってるわ」

突拍子もないことを言い出した綾奈に、篠原はきょとんと目を丸くした。

獅子堂は表情筋一つ動かさず、内心で苦笑する。

いつものお嬢様だ。

緊迫した状況であればあるほど、彼女は突飛な言動で周囲を煙に巻こうとする。それは彼女なりの強がりであり、優しさなのだ。

「それに、私だって自分の異常さは自覚してるつもりよ。普通の令嬢みたいに、大人しく攫われてあげるほど可愛げはないわ」

綾奈は胸を張って言い放つ。

メイドは呆気にとられた後、くすりと笑みをこぼした。

「ふふ、そうですね……綾奈様なら、怪盗団の方々を説教して帰してしまいそうです」

「そうでしょう? だから、そんなに心配しなくていいの」

綾奈の言葉に、彼女の表情から強張りが消える。

しかし、すぐにまた眉を寄せ、不安げに呟いた。

「…そうは言いましても……私は綾奈様になにかあったらと思うと……うう……」

涙ぐむメイド。

その姿を見て、獅子堂が一歩前に出た。

彼は静かに、しかし力強く告げる。

「ご安心ください。お嬢様には指一本触れさせません」

その言葉は、単なる慰めではなかった。

鉄の意志が込められた、絶対の誓約。

獅子堂の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。

「確かに予告状は不気味ですし、状況は予断を許しません。ですが、私がついている限り、いかなる脅威もお嬢様の前には立ちはだかることすらできないでしょう」

「獅子堂さん……」

「お嬢様がどれほど強くとも、守られるべき存在であることに変わりはありません。そのために私がいるのですから」

獅子堂の言葉に、綾奈は少しだけ目を見開いた。

そして、満足そうに微笑む。

「そうね。あなたは私を守ってくれる。……そうでしょ?」

その問いかけには、別の意味が含まれていた。

――今夜の作戦、必ず成功させるわよ。

――私が無茶をしても、あなたが何とかしなさい。

そんな、共犯者への無言のメッセージ。

獅子堂は恭しく一礼した。

「御意に」

篠原は二人のやり取りを見て、ほっと胸を撫で下ろしたようだった。

獅子堂堅という男の、主への執着と忠誠心。それを知っているからこそ、彼の言葉は何よりも頼もしく響くのだ。

「……分かりました。獅子堂さんがいらっしゃるなら、百人力ですね」

彼女は涙を拭い、再び荷造りの手を動かし始めた。

トランクの蓋が閉められる音が、部屋に響く。

それはまるで、平穏な日常に終わりを告げる号砲のようだった。

荷造りを終え、篠原が部屋を出ていく。

扉が閉まると、部屋には再び静寂が戻った。

だが、その静けさは先ほどまでのものとは質が違っていた。

空気の粒子一つ一つが緊張を孕み、ピリピリと肌を刺すような、そんな感覚。

綾奈は窓辺に立ち、沈みかけた太陽を見つめた。

空が茜色に染まり、やがて群青の夜へと溶けていく。

別棟への移動時間が迫っていた。

それは、本物の護衛たちが迎えに来る時間であり、作戦開始の刻限でもある。

「……Ebony Talons、ね」

綾奈はポツリと呟く。

その瞳には、不安の色はもうない。あるのは、獲物を狙う猛禽のような鋭い光だけだ。

「丁度いいわ。彼らには、私たちの舞台の引き立て役になってもらいましょう」

「仰せのままに」

獅子堂は、懐に忍ばせた小さな小瓶の感触を確かめた。

中に入っているのは、強力な睡眠薬だ。

今夜、迎えに来る護衛たちに振る舞う「差し入れ」に混ぜるためのもの。

手はずは整っている。

「お嬢様」

「なに?」

「薬の準備は万端です。……ただ、少し臭いが気になりますが」

「あら、じゃあ適当なものを混ぜ込んでおくわ。スパイスの効いた異国の焼き菓子とでも言えば、疑われもしないでしょう」

「……さすがでございます」

二人は顔を見合わせ、微かに笑みを交わした。

それは主従の笑顔というよりは、悪戯を企む共犯者のそれだった。

日が落ち、屋敷に明かりが灯る。

夜が来る。

仮面舞踏会の幕が上がる。

綾奈と獅子堂は、それぞれの「仮面」を手に取り、静かにその時を待つのだ。

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