B×Bマスカレード

@SUSPECT

導入(護衛陣営)

銀の輪、金の刻

夢を見ていた。

それは遠い日の記憶であり、二度と戻らない温かな陽だまりの残滓だった。

視界の端が白く滲むような、柔らかな光の中。

幼い綾奈の視線の先には、膝を折って視線を合わせてくれる父――京極慶介の姿があった。

記憶の中の父は、今のよそよそしく冷たい彼とはまるで別人のように、慈愛に満ちた瞳をしている。その大きな手が、綾奈の小さな手をそっと包み込んだ。

彼の手のひらから、綾奈の手のひらへ。

滑り落ちるように渡されたのは、冷たく、けれど清廉な輝きを放つ二つの銀の輪だった。

「これはきっと、お前の身を守ってくれる。肌身離さず持っていなさい」

父の声は、春の日差しのように穏やかだった。

渡されたのは、繊細な彫刻が施された美しいバングルだ。中央にはめ込まれた小ぶりの黒い石が、窓から差し込む光を受けて、内側に赤い炎を宿したように揺らめいた。

幼い綾奈の手首には、それはいささか大きすぎるように思えた。けれど、父から託された重みだけは、幼心にもはっきりと理解できた。

それは「京極」という家が背負う重みであり、同時に、父からの無償の愛の重みでもあった。

「だが、これを過信してはいけないよ」

父は真剣な眼差しで、綾奈を見つめる。

その瞳の奥には、幼い娘にはまだ理解できない、深い憂いと決意が滲んでいたのかもしれない。

彼は言葉を継ぐ。それはまるで、遠い未来への遺言のようでもあった。

「それから、もしお前に守りたいと思う相手ができたときには」

「……守りたい、相手?」

「ああ、そうだ。その時は――この腕輪のうち、片方を相手にあげなさい」

父の言葉の意味は、当時の綾奈にはよく分からなかった。

守られるべきは自分であり、この広大な屋敷の中で、次期当主として大切に育てられている自覚はあった。自分が誰かを守るなどという状況は、想像すらできなかったのだ。

それでも、綾奈は父の言葉にただ頷いた。

父がそう言うのなら、それは世界の理なのだと信じていたからだ。

場面が切り替わる。

穏やかな陽光は失われ、世界は一瞬にして凍てつくような白と灰色に塗り込められた。

激しい吹雪の日だった。

風が轟音を立てて窓を叩き、視界のすべてを白一色に染め上げる、そんな暗い日。

車の窓から見えた景色に、綾奈は息を飲んだ。

道端に、小さな影が倒れていたのだ。

それは雪の塊などではなく、確かに人の形をしていた。

「止めて!」

叫ぶと同時に、綾奈は飛び出していた。

制止する運転手や側近の声も耳に入らない。路肩に停まった車から転がり出るようにして、彼女は滑りやすい雪道を駆けた。手に掴んだブランケットだけを頼りに。

柔らかく、けれど鋭利な刃物のような雪が、容赦なく肌を刺す。

駆け寄った先、雪に埋もれるようにして倒れていたのは、自分と同じくらいの年齢の子供だった。

少女だろうか。

降り積もる雪に体温を奪われ、その顔色は蝋のように白く、唇は紫色に変わっている。繰り返される呼吸はあまりにも浅く、今にも途絶えてしまいそうだった。

「ねえ、しっかりして! 目を開けて!」

冷え切った体に触れて声をかける。

綾奈の必死な呼びかけに応えるように、子供はかすかに睫毛を震わせ、うっすらと目を開けた。

焦点の合わない瞳が、ぼんやりと綾奈を映す。

けれど、それも一瞬のことだった。生命の灯火が尽きかけるように、子供はまたゆっくりと瞼を閉じてしまう。

死んでしまう。

このままでは、この子は死んでしまう。

その事実に、綾奈の胸は早鐘を打った。

恐怖と、焦燥と、そしてどうしようもない衝動。

すぐにでも消えてしまいそうなその命の儚さが、たまらなく怖くて、愛おしかった。

立場の弱い者、貧しい者に手を差し伸べる父の姿を、ずっとそばで見てきたからだろうか。それとも、京極の血がそうさせたのか。

綾奈は震える手で、父から貰ったばかりの銀の腕輪を外した。

「……死んじゃだめ」

それは祈りであり、命令でもあった。

冷え切った子供の細い腕に、自分の体温が残る腕輪を通す。

銀色の冷たさと、黒い石の奥底で揺らめく赤い炎。

父が言った「守りたい相手」が誰なのかは分からない。けれど今、目の前にある消え入りそうな命を繋ぎ止められるなら、このお守りを手放すことに惜しさはなかった。

――どうか、彼女を守ってください。

そう願った瞬間、世界が白くフェードアウトしていく。

あの雪の日のその後のことは、綾奈自身もよく覚えていない。

冷たい雪の中で体を冷やしすぎたせいで、高熱を出して数日間寝込んでしまったからだ。

熱に浮かされる中、父が困ったように、けれど誇らしげに笑っていたような気もするし、ひどく叱られたような気もする。

あの子はどうなったのだろう。

名前も知らない、顔も朧げなあの子。

助かったのだろうか。それとも――。

意識が浮上する。

まどろみの底から現実へと引き上げられる感覚。

綾奈はゆっくりと目を開けた。

見慣れた自室の天井。天蓋付きのベッドのカーテン越しに、朝の光が差し込んでいる。

夢を見ていたのだと気づくのに、数秒かかった。

体を起こし、寝起きの働かない頭で、無意識に左腕へと視線を落とす。

そこには、あの日からずっと肌身離さず身に着けている、もう一つの銀の腕輪が光っていた。

繊細な装飾。中央にはめ込まれた黒い石。

かつて二つで一組だった片割れ。

あの子にあげた腕輪と、今もこうして自分の腕にある腕輪。

離れ離れになった双子の銀が、今どこにあるのかは分からない。

ただ、腕輪を見るたびにあの雪の日を思い出し、そして――最近の父の様子との齟齬に、綾奈の眉間には自然と皺が寄る。

厳しくも優しく、弱きを助ける人格者であった父。

あの日、腕輪を託してくれた父。

けれど今の彼はどうだ。

ここ一ヶ月、父はまるで別人のように冷淡で、綾奈を避けるような素振りを見せている。別棟に籠りきりで、食事の席にすら現れない。

あんなにも大切にしてくれていたはずの「宝物」である自分を、遠ざけるように。

(……パパ、どうしちゃったの)

胸の奥に広がるのは、不安と、それを塗り隠すような憤り。

だが、京極綾奈はただ守られるだけの姫君ではない。

父が守ってくれないのなら、自ら真実を確かめに行くだけだ。

父の異変の原因と思われる「絵」がある場所――別棟の宝物庫へ。

今日は、例の作戦の決行日だ。

綾奈は顔を上げ、鏡の中の自分を見据えた。

そこには、不安に揺れる少女の顔ではなく、目的のために手段を選ばぬ、若き次期当主の強い瞳があった。

彼女は不敵に口角を上げる。

「……見ていなさい、パパ。私が必ず、目を覚まさせてあげるから」

***

獅子堂堅もまた、夢を見ていた。

それは主人の見た夢よりも少し後の、しかし彼にとっては生涯忘れることのできない、あの日――京極綾奈が中学校へと進学した日の記憶だった。

重厚な扉の前で、若き日の獅子堂は緊張に喉を鳴らした。

当主にたった一人で呼び出されるなど、それまでの彼には考えられないことだった。

粗相があっただろうか、それとも何か重大な任務だろうか。

固いノックの音に、「入りなさい」と落ち着いた声が返ってくる。

失礼いたします、と一礼して足を踏み入れた書斎は、紙とインクの匂いがした。

机の向こうで書類に目を通していた当主・京極慶介は、獅子堂の姿を認めると、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。

それは威厳がありながらも、どこか親しみを感じさせる、彼特有の表情だった。

「よく来てくれたね、獅子堂」

労いの言葉に続き、彼は本題を切り出した。

それは、獅子堂にとって望外の、そして身の震えるような申し出だった。

「綾奈も中学生だ。これからはより広い世界へ踏み出していくことになる。……そこでだ。これを機に、あの子のことを全面的に君に任せたいと思っている」

綾奈様の、護衛。

それもただの警護ではない。教育係を兼ねた、正式な側近としての起用だった。

京極家の唯一の跡取り娘。当主にとって目に入れても痛くないほどに愛されている、あのお方の全てを任されるということ。

その責任の重さと、選ばれたことへの誇らしさに、獅子堂は言葉を失い、ただ深く頭を垂れた。

「謹んで……お受けいたします」

震える声でそう応えた獅子堂を、当主は満足そうに見つめ、手招きをした。

彼が懐から取り出し、差し出してきたのは、一つの懐中時計だった。

金色の、美しい懐中時計。

派手すぎず、しかし洗練された意匠が施されたそれは、見るからに年代物でありながら、丁寧に手入れされていることが分かった。

獅子堂はそれを両手で恭しく受け取る。

ずしりとした重み。金属の冷たさ。

しかし、その時計には奇妙な点があった。

蓋を閉じた留め具の部分。そこに、小さな鍵穴のような意匠が施されていたのだ。

時計に鍵穴?

不思議そうに首を傾げる獅子堂に、当主は静かに告げた。

「あの子の身に何かあったときに使いなさい」

その声は真剣そのもので、冗談を言っているようには見えなかった。

「鍵と錠前は、二つ揃って意味がある」

「……鍵、でございますか?」

「ああ。……鍵の持ち主はきっと、君の力になってくれるだろう」

当主は窓の外、遠くの空を見るような目をした。

そこには獅子堂の知らない、当主だけの物語があるようだった。

「その時が来たら分かる。大事に持っているんだよ」

もう行っていい、と微笑む彼に、聞きたいことは山ほどあった。

鍵とは何か。

その持ち主とは誰なのか。

なぜ、自分にこれを託すのか。

けれど、喜びに震える当時の獅子堂には、それ以上を問いただすことなどできなかった。

ただ、与えられた使命と信頼に応えること。それだけが、彼の胸を占めていたのだ。

――意識が浮上し、目が覚める。

規則正しい生活が染みついた体は、目覚まし時計が鳴るよりも早く覚醒する。

獅子堂は上体を起こし、サイドテーブルに置かれた懐中時計へと手を伸ばした。

冷たい金属の感触。

夢で見たあの日のまま、金色の時計は静かに時を刻んでいる。

けれど、あれから数年が経った今でも、鍵穴の意味も、対となる「鍵」の在り処も、その持ち主も、結局分からずじまいだった。

まだ見ぬ「味方」。

当主はそう言った。鍵の持ち主は力になってくれると。

獅子堂は懐中時計を強く握りしめる。

これは信頼の証だ。

京極綾奈という、この家の未来そのものを任された日の誓いの証。

だというのに。

(……なぜ、今回に限って)

懐中時計を見るたびに、現状への違和感が胸を刺す。

今回の別棟への避難において、綾奈の護衛から獅子堂は外された。

代わりに指名されたのは、古株ではあるが、綾奈との付き合いの浅い二人の護衛だった。

実力も、忠誠心も、誰にも負けるつもりはない。

綾奈様のことを誰よりも理解し、守り抜けるのは自分だけだという自負がある。

それなのに、当主は獅子堂を遠ざけた。

何かがおかしい。

当主の異変。別棟の謎。そして、今回の護衛配置。

すべてが、不穏な予兆を孕んでいる。

だからこそ、獅子堂は決断した。

主である綾奈からの、突拍子もない提案――「護衛に成り代わって別棟へ潜入する」という、狂気じみた作戦に乗ることを。

本来であれば、使用人が主人を危険に晒すような真似は許されない。

だが、今の当主の決定に従っていては、綾奈を守れないかもしれないという予感があった。

「……お守りします、お嬢様」

誰もいない部屋で、獅子堂は低く呟く。

それは誰に対する言葉でもなく、自分自身への誓いだった。

懐中時計を懐にしまい、身支度を整える。

鏡に映る自分は、いつもの冷静沈着な執事の顔をしている。

だが、その胸の内には、静かな炎が燃えていた。

今日が、作戦決行の日だ。

***             

朝食の席に、今日も当主の姿はなかった。

かつてはどんなに忙しくても、娘との朝食の時間だけは欠かさなかったというのに。

広く豪奢なダイニングルームには、静寂だけが満ちている。

綾奈は黙々と食事を進め、獅子堂は無言でその背後に控えていた。

連絡をしても返事はなく、廊下ですれ違えば面倒そうに顔を背けられる。

一ヶ月と少し前。当主がとある「絵」を買い取ってからの劇的な変化。

あれほど愛していた娘を、まるで邪魔者のように扱うその態度は、異常としか言いようがなかった。

そんな折、巷を騒がせる「美しい人間たちの失踪事件」を受けて、綾奈を別棟へ隔離するという通達があった。

名目は「保護」だが、実質的な「幽閉」にも感じられるその処置。

綾奈は、この機会を利用することにした。

父がおかしくなった原因を探るため。

そして獅子堂は、主の無茶を通してでも、彼女を自分の目の届く範囲で守り抜くため。

今夜、本物の護衛たちが綾奈を迎えに来る。

その時が、作戦の開始時刻だ。

二人は目線だけで合図を交わす。

言葉はいらない。

長年培ってきた主従の絆は、共犯関係においても揺らぐことはない。

綾奈は優雅にナプキンを置き、立ち上がった。

獅子堂が滑らかに椅子を引く。

「行きましょう、獅子堂」

「はい、お嬢様」

仮面を被る準備はできている。

今夜、京極家の「護衛」として、二人は闇夜の舞台へと上がるのだ。

それが、二人の運命を大きく変える一夜になるとも知らずに。

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