蛇腹に折れば夏になる

酢豆腐

蛇腹に折れば夏になる

 ぱた、ぱた、ぱたん。


「そうしたらすそはそこ。ここでふたつに折って、そうそう、上手、上手」


 ぱたん、ぱたん。


 折り重ねた浴衣に、汗が何粒もしたたり落ちる。

 その年で一番暑い日のことだ。風もなく、熱気は家の奥にも底にも沈滞していた。

 洗濯物だけはよく乾いた。祖母は朝から干してはたたみ、干してはたたんだ。


「はい、よくできました」


 所在なさげにしていたところを捕まって、浴衣のたたみ方を教わっていると、


「折るしかあるまい」


 玄関先の声が聞こえた。祖父の銀太ぎんたが、村の者と立ち話をしていた。


おけこしらえ直す金もない。時間もない」

「おう、この陽気だ。ぼやぼやしとると――」

「気の毒なことだが」

 祖母が「ヨシ坊は家におりなさいよ」と言ったが、幼い好奇心が勝った。

 母親の長患ながわずらいのために預けられた田舎の家。1週間を過ぎる頃には新鮮味も薄れ、退屈を覚えるようになった。

 だから何事かあったらしい祖父の様子に惹かれ、家から飛び出した。


 村の広場に人の輪わができていた。夏草の匂いと、むんとした人いきれをくぐって輪の中に入ると、腕組みをした銀太がいた。

「子供に見せるもんでもないが」顔をしかめたが、それ以上叱るでもなかった。

 中心には大きな桶が鎮座していた。死者を入れる座棺ざかんだ。

 棺桶の口は開いていて、そこから色のない禿げ頭が突き出ていた。

 つるりと剃られた、いささか尖った頭。面長の顔には肉がついて、口元でたるんでいた。50か60か、肌にはまだ張りがあったが、当然のこと血の気は抜けて青っちろく、乾いた餅菓子もちがしという感じがした。


 田辺たなべという男だった。

 かつて都会で暮らしていた頃は羽振りが良かったらしい。数年前、何故なにゆえか故郷である村に戻ってきた。それで大不況や大地震もまぬかれたのだから、上手くやったものだと村人たちは噂していた。

 家族はなく、集落の良い場所に閑居かんきょを結んでいた。仏道か何か、宗教にかぶれ、朝夕の読経どきょうを欠かさなかった。というより、その他に稼業をしていた様子はない。


「食中毒のようだ。ずいぶん吐き散らしておったからな」

「感染症でないといいが」


 死んでみると財産と言えるほどのものは見当たらなかった。村の不心得者が閑居の中を漁ったが、ちょっとした仏具のほかに金品の類は見当たらず、文字通りのまいだった。

「株で儲けたと聞いたが」

綿めんじゃなかったか」

船成金ふねなりきんだと思っていたが」

「すべて寄進したか」

「騙されたんじゃろう、どこか呑気そうな男だった」

「いやあ、あれでケチなところがあったぜ」

 要するに、誰も彼のことをよくは知らないのだ。


 葬儀代は村で持つことになった。町で粗末な早桶はやおけをこしらえてもらい、今に埋めてしまおうとなった――のだが。

「桶が合わない。寸法は測っていたはずだが、これが合わない。桶が小さかったか。いやそうでない、死体の方だ」

 どういうわけか、死者がひと回りも大きくなっていたのだと、銀太は言った。桶に座らせると頭が出てしまう。体勢をいじくってみたものの、どうもふたが閉じられない。


「死体にはガスが生じるというから、そのせいかも知れんの」

 村では知恵者とされていた銀太がそう言うので、周りの衆も「そういうものか」と納得を見せた。

「ともかく、首と鎖骨を折ってみよう」誰かが言う。

木槌きづちを持ってこい」また誰かが言う。人々が騒ぎ始めた。

 と、銀太に肩をつかまれて、輪の外へ出された。

「あちらで遊んでいろ。野辺のべおくりには呼んでやるから」

 さすがに折るところを見せたくはなかったらしい。


 広場を離れ、街道に出てみた。

 ここでは自動車はほとんど通らない。

 白く光る、長い長い道の先に、農夫や荷車の影が小さく見えるばかりだ。

 すぐに日差しに耐えかねて木陰を探すと、道路端どうろばたの木の下に、ぼうっと立つ影が見えた。

 大人の男らしかった。臙脂えんじ色というのか、黒味がかった赤色の布で全身を覆っていた。背中には大きな葛籠つづらのようなものを背負っていた。

 外国の人だ――漠然とそう思った。


「やあ、坊や」


 だが意外にも、男は日本語を喋った。

「こっちへおいで。毒の入っていないお菓子をあげよう」

 笑っているようだった。臙脂色の頭巾が顔に影を作っていたが、その影が最も濃いはずの目元は、やけにはっきりと見えた。目を細めている。

「お菓子、いらないかい?」

 首を振って拒んだ。食べたくなかった。「食中毒のようだ」「感染症でないといいが」――村人たちの言葉が思い起こされた。


「怖がることはない。おじさんはしがない屑屋くずやでね。人のいらないゴミを引き取って回るんだ。だから坊や、おじさんを村に案内してくれないかな」


 ころもの下から男の腕が持ち上がり、手招きをした。骨ばった腕だった。顔も腕も、どこか獣のような男だった。


「ヨシ坊」

 ふいに呼ばれて振り返ると、白い服に着替えた銀太が立っていた。葬儀が始まるという。

 臙脂色の男の姿はもう、どこにもなかった。やはり白く光る街道が長々と伸びているだけで、どこにもそれらしい人影は見つけられなかった。


 人々はうち沈んでいた。誰の顔も死人のように青白い。

 棺桶はどうしたのかと見ると、蓋の代わりに布が被せられていた。白布はくふは大きく盛り上がって、桶の中にいるもののかたちを伝えていた。


おおきゅうなった」


 銀太がつぶやいた。話しかけているのか独り言なのかわからない。


「首を折ったというに、おさまらん。今はもう、肩が見えている」


 読経が済み、野辺送りが始まった。人数は少なかった。先ほどまで輪になっていた人々は、もうついてこなかった。


「あれもガスだろうか、銀さん」

 村人の問いに銀太は「おおかた、そうだろう」と答えはしたが、自分でも信じてはいなかっただろう。

 銀太に手を引かれて葬列のしんがりを歩いた。輿こしに乗せられた棺桶から、みしみしという音が聞こえたが、みな聞こえないふりをしていた。


 墓地では既に穴を掘り終えた村人が待ち構えていた。

「早く埋めちまって――」言いかけて、彼は硬直した。

 輿を降ろした若い衆は今にも泣き出しそうだった。銀太も呆然としている。


 桶の口から田辺があふれていた。


 青っちろい腕と脚が、桶のふちからだらりと投げ出されている。

 中には田辺の裸身が、でたらめな格好で詰まっていた。

 またその肉塊を押しのけて、田辺の肩から上が突き出ている。

 桶を覆った布は、それらの圧力に耐えきれず剥がれ落ちたようだった。桶それ自体もほとんど破れそうに見えた。


「増えた」誰かが言った。


 死体がふたつになっていた。



 ――と、まあ、そんな話ですな。昔の葬儀というのは何かと不都合も不手際もありましてな。妙な話も色々と――なに、それで終わりかって? そのあとどうなったか?

 気になりますか。気になるんですか。

 なるほど、これじゃ話が

 いやしかし、ここから先のことはとても信じて貰えないでしょう。なに、既に信じがたい話をしていると――ははは、それはそうですな。

 臙脂色の男はなんだったのか、ですか。

 あれは――そうですね。話すとしましょう。

 いや、よくぞ訊いてくれたと言うべきでしょうか。

 私が本当に話したかったのは、ここからなのかも知れません。



 最初に逃げ出したのは穴掘りをした村人だった。

「馬鹿、穴がもうひとついるだろう」

 すきを持ったまま逃げたので、銀太は慌てて彼を追いかけていった。


 他の者も右往左往し、気がつくと独りきりになっていた。

 墓地を囲む林でせみがしきりに鳴いていた。蝉時雨せみしぐれの合間に、かすかに村人たちのわめき声が聞こえる。

 全身は火照り、汗がとめどなく噴き出してくるのを今更ながらに感じる。


 そのような騒々しさと、また不快感と、つまりは生きている五感のわずらわしさと――眼前の青ざめた塊との対照が、強く意識された。小さな生きている自分と。ぎちぎちに詰まった、死んでいる田辺と。それはどちらが良いのか、悪いのか。違うものなのか、同じなのか。あらいけれど何か、というものが頭に出来て、私の形というものがわかって、それはつまり、

 物心ものごころがついたということになるのだろう。このとき、私は私に。



 林の中から、あの臙脂色の男が覗いていた。

「また会ったね。それが邪魔なのかい」

 田辺の詰まった棺桶を指さしながら、男は変な目をこちらに向ける。

 変な目――そう、それは物欲しそうな目だった。

「邪魔なんだね? いらないんだね?」

 男は重ねて訊いてくる。

 戸惑った。


「なに、一言、口にすればいい。邪魔だからあげる、とね」

 それでいいのなら。自分の言葉だけで決まってよいのなら。桶に目をやった。溢れ出ている田辺の手足が、また増えているように見えた。

 なんだかこれを、男にあげたくなった。


「うん。あげる」


「うふふ」男は愉快そうに笑った。

「じゃあ、引き取るとしようか」


 なんでもない藁束わらたばでも振り回すように、男は棺桶から田辺を引き上げた。

 まず全裸の田辺が草の上に投げ出された。

 次いで、もうひとりを引き抜く。経帷子きょうかたびらを身につけているし、首はだらりと折れていうから、こちらは最初の田辺だ。


 2体の田辺が並ぶ。服を着た田辺は異様に大きく、裸体の方はひと回り小さい。

 両者の頭から爪先までを、男は値踏みするようにねっとりと眺め回した。

 そうして腰を下ろし、地面に正座する格好になった。


 大きい方の田辺の服を脱がせると、足先に手をかけて、ぱたん、と折り返した。


 足先は折り紙のように簡単に折られ、同時に手ぬぐいのように薄っぺらくなった。

 男はまた、ぱたんとひと折りした。足首がたたまれる。

 ぱた、ぱた、ぱたん。すねもふくらはぎもたたみ込まれて、男の手はひざに達する。


 蝉の声はやんでいた。男が田辺を折りたたむ音がよく通った。


 ぱた、

 ぱた、

 ぱたん。


 山折り、谷折り、山折り、蛇腹じゃばらにたたんでいるのだ。

 たたまれたところから平たく薄くなるので、田辺の体は重ねた反物たんもののようになっていく。

 その合間に、こり、こり、と、こもった音が混じる。

 骨の音だ、と思った。柔らかい骨が曲がり、砕ける音なのだ。


 こりこり、ぱたん。

 こりこり、ぱたん。


 胸元までがすむと、次は腕。指先からぱたぱたと蛇腹になっていく。

「よく折れる。入道にゅうどう殿どのはこの世にしがらみがないからな。よく折れる」

 最後に残った頭を、また男はしごく容易に折りたたむ。

 ぼりん、と少し大きな骨の音がした。

 折りたたまれた田辺は、浴衣3着ばかりの厚みになっていた。青白さはそのままに、しかし乾いていたはずの肌はどこか滑らかで、思えば白磁はくじのようでもあった。


 次に男は、もう一方の田辺に手をかけ、同じようにたたんでいく。

 一挙いっきょのよどみもない。

 目を閉じていてもできるとばかりに、山折り、谷折り、山折り、谷折り、

 ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱたぱた――


「そうそう、上手、上手」


 こり、こり、ぼりん。


「はい、よくできました」


 男が褒めてくれていた。

 気づけば私は、彼に見守られながら田辺を折っていた。最後のひと折りを終えて、私の目の前に、2反の田辺があった。


「うふふ、重畳ちょうじょう、重畳」

 男はふたつの田辺を重ねてしまうと、脇に置いた葛籠の中にしまった。それで事は終わったようだった。

「それ、どうするの」

 私は尋ねた。私にはもう、ずっと先の将来が予想できた。ここで尋ねておかなければ、この先死ぬまで、後悔するだろうと思われたのだ。


「見たいかね」

 男は少し勿体ぶった演技を見せた。葛籠の表面を撫でさすり、口元だけで笑う。

「いいさ、坊やは特別だ」


 男は葛籠の蓋を開けた。

 こりこりと、また骨の音が聞こえる。

 葛籠の中から、尖った禿げ頭が持ち上がる。田辺の顔が迫り上がってくる。それに引きずられて、折りたたまれていた体が、ぱたぱた、こりこり、ほどかれて伸びていく。


 頭だけが膨らんでいた。首から下にあたる部分は平たくし伸ばされたまま、不安定にうごめいている。その表面は仄かにてらついていて――脂ぎっていて、それでいて均等に走った折り目のために、生き物と反物のどちらでもありどちらでもないものになっていた。


「ほら、どんどん伸び上がる。まだまだ出てくる。絵巻の入道にゅうどうお化けみたいだろう」


 声が出なかった。暑さも汗も忘れてしまった。

 田辺の頭はこくりこくりと左右に揺れて、しかし死体だった時とは違い、閉じられた目が弱々しくも開いている。厚ぼったいまぶたの奥にあるのは濁った目だった。濁ってはいたが、瞳は確かにこちらを見つめていて、つまり――生きていた。


「面白いだろう。君のおかげでこうなった」

 臙脂色の男は満足そうに笑っている。


「名付けるなら――そうだな、、なんてどうだろう」


 かつて田辺だったその入道お化けの口が、だらんと大きく開いた。

 歯の間から覗く舌は異様に赤く、そこに確かに血が通っていることを思わせた。

 その舌に触ってみたかった。

 思わず手を伸ばした瞬間、ぱたぱたぱたぱた――入道お化けの体は再び折りたたまれて、葛籠の中に落ちていった。


「はい、今日はここまで」

 男は嘲るように言って、葛籠を閉じた。

「まだまだ、このままじゃ見世物にもなりやしないな。こうして葛籠の中に入れて、時間をかけて育てるとしよう。100年たてば、はもっと強く、恐ろしくなる。この世を飲み込むほど、大きくなるだろう。そうしたら、その時は、見せてあげよう。待っていたまえ」


 葛籠が背負われる。くるりときびすを返し、男は林の奥へ歩み出す。慌てて声を飛ばした。

「そんな先のこと、無理だよ」

「そうかい?」

「100年も生きないよ」

「生きるさ」

 男は目を細めた。

 約束をもらった気がしたが、今ならわかる。あれは口先だけで言っている、詐欺師の目だ。

 だがそれでもいい。また見たい。また見られるように。それが、私が初めて心に抱いた、祈りと呼べるものだった。



 そのあと、ですか。

 さて、祖父たちが戻ってきて、なんとしましたかな。

 ともかく邪魔な死体はなくなったのですから、その日のことは丸々、なかったことになったのでしょうな。

 何日かして、私は自分の家に帰されたはずですが、そのあたりのことはよく覚えていません。それ以降その村に行った記憶もありません。行かないのもおかしなことですが――祖父母が死んだその葬式の折は、どうしたんでしょうな。


 そこからは、ええ、大変な時代でしたなあ。戦争は、それは辛かった。戦場の恐ろしさは今でも言い表せないぐらいですよ。私も敵を殺しましたしなあ。

 日本が負けて、社会が変わって、家族との別れ、自分自身の老い――どれも随分、辛いものでした。よく生きてこられたものです。


 しかしね、長かったとは感じない。なんだか一瞬だったような気がする。

 いつだって、目を閉じれば――あの日の出来事が眩しいほどに浮かんでくる。

 ぱたぱたと、時間が折りたたまれて、心があの夏の日に還っていく。

 ぱたん、ぱたん、ぱたん。

 山折り、谷折り、山折り、そうそう、上手上手。


 全部、全部、おりたたまれて――いつでもあの夏になる。

 よく待ちました。坊やは特別だ。

 見せてあげよう。


 忘れもしません。大正15年、8月1日。

 次の夏で100年になります。

 ええ、楽しみでなりません。

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蛇腹に折れば夏になる 酢豆腐 @Su_udon_bu

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