蛇腹に折れば夏になる
酢豆腐
蛇腹に折れば夏になる
ぱた、ぱた、ぱたん。
「そうしたら
ぱたん、ぱたん。
折り重ねた浴衣に、汗が何粒もしたたり落ちる。
その年で一番暑い日のことだ。風もなく、熱気は家の奥にも底にも沈滞していた。
洗濯物だけはよく乾いた。祖母は朝から干してはたたみ、干してはたたんだ。
「はい、よくできました」
所在なさげにしていたところを捕まって、浴衣のたたみ方を教わっていると、
「折るしかあるまい」
玄関先の声が聞こえた。祖父の
「
「おう、この陽気だ。ぼやぼやしとると――」
「気の毒なことだが」
祖母が「ヨシ坊は家におりなさいよ」と言ったが、幼い好奇心が勝った。
母親の
だから何事かあったらしい祖父の様子に惹かれ、家から飛び出した。
村の広場に人の輪わができていた。夏草の匂いと、むんとした人いきれをくぐって輪の中に入ると、腕組みをした銀太がいた。
「子供に見せるもんでもないが」顔をしかめたが、それ以上叱るでもなかった。
中心には大きな桶が鎮座していた。死者を入れる
棺桶の口は開いていて、そこから色のない
つるりと剃られた、いささか尖った頭。面長の顔には肉がついて、口元でたるんでいた。50か60か、肌にはまだ張りがあったが、当然のこと血の気は抜けて青っちろく、乾いた
かつて都会で暮らしていた頃は羽振りが良かったらしい。数年前、
家族はなく、集落の良い場所に
「食中毒のようだ。ずいぶん吐き散らしておったからな」
「感染症でないといいが」
死んでみると財産と言えるほどのものは見当たらなかった。村の不心得者が閑居の中を漁ったが、ちょっとした仏具のほかに金品の類は見当たらず、文字通りの
「株で儲けたと聞いたが」
「
「
「すべて寄進したか」
「騙されたんじゃろう、どこか呑気そうな男だった」
「いやあ、あれでケチなところがあったぜ」
要するに、誰も彼のことをよくは知らないのだ。
葬儀代は村で持つことになった。町で粗末な
「桶が合わない。寸法は測っていたはずだが、これが合わない。桶が小さかったか。いやそうでない、死体の方だ」
どういうわけか、死者がひと回りも大きくなっていたのだと、銀太は言った。桶に座らせると頭が出てしまう。体勢をいじくってみたものの、どうも
「死体にはガスが生じるというから、そのせいかも知れんの」
村では知恵者とされていた銀太がそう言うので、周りの衆も「そういうものか」と納得を見せた。
「ともかく、首と鎖骨を折ってみよう」誰かが言う。
「
と、銀太に肩をつかまれて、輪の外へ出された。
「あちらで遊んでいろ。
さすがに折るところを見せたくはなかったらしい。
広場を離れ、街道に出てみた。
ここでは自動車はほとんど通らない。
白く光る、長い長い道の先に、農夫や荷車の影が小さく見えるばかりだ。
すぐに日差しに耐えかねて木陰を探すと、
大人の男らしかった。
外国の人だ――漠然とそう思った。
「やあ、坊や」
だが意外にも、男は日本語を喋った。
「こっちへおいで。毒の入っていないお菓子をあげよう」
笑っているようだった。臙脂色の頭巾が顔に影を作っていたが、その影が最も濃いはずの目元は、やけにはっきりと見えた。目を細めている。
「お菓子、いらないかい?」
首を振って拒んだ。食べたくなかった。「食中毒のようだ」「感染症でないといいが」――村人たちの言葉が思い起こされた。
「怖がることはない。おじさんはしがない
「ヨシ坊」
ふいに呼ばれて振り返ると、白い服に着替えた銀太が立っていた。葬儀が始まるという。
臙脂色の男の姿はもう、どこにもなかった。やはり白く光る街道が長々と伸びているだけで、どこにもそれらしい人影は見つけられなかった。
人々はうち沈んでいた。誰の顔も死人のように青白い。
棺桶はどうしたのかと見ると、蓋の代わりに布が被せられていた。
「
銀太がつぶやいた。話しかけているのか独り言なのかわからない。
「首を折ったというに、おさまらん。今はもう、肩が見えている」
読経が済み、野辺送りが始まった。人数は少なかった。先ほどまで輪になっていた人々は、もうついてこなかった。
「あれもガスだろうか、銀さん」
村人の問いに銀太は「おおかた、そうだろう」と答えはしたが、自分でも信じてはいなかっただろう。
銀太に手を引かれて葬列のしんがりを歩いた。
墓地では既に穴を掘り終えた村人が待ち構えていた。
「早く埋めちまって――」言いかけて、彼は硬直した。
輿を降ろした若い衆は今にも泣き出しそうだった。銀太も呆然としている。
桶の口から田辺が
青っちろい腕と脚が、桶の
中には田辺の裸身が、でたらめな格好で詰まっていた。
またその肉塊を押しのけて、田辺の肩から上が突き出ている。
桶を覆った布は、それらの圧力に耐えきれず剥がれ落ちたようだった。桶それ自体もほとんど破れそうに見えた。
「増えた」誰かが言った。
死体がふたつになっていた。
――と、まあ、そんな話ですな。昔の葬儀というのは何かと不都合も不手際もありましてな。妙な話も色々と――なに、それで終わりかって? そのあとどうなったか?
気になりますか。気になるんですか。
なるほど、これじゃ話がたためていない。
いやしかし、ここから先のことはとても信じて貰えないでしょう。なに、既に信じがたい話をしていると――ははは、それはそうですな。
臙脂色の男はなんだったのか、ですか。
あれは――そうですね。話すとしましょう。
いや、よくぞ訊いてくれたと言うべきでしょうか。
私が本当に話したかったのは、ここからなのかも知れません。
最初に逃げ出したのは穴掘りをした村人だった。
「馬鹿、穴がもうひとついるだろう」
他の者も右往左往し、気がつくと独りきりになっていた。
墓地を囲む林で
全身は火照り、汗がとめどなく噴き出してくるのを今更ながらに感じる。
そのような騒々しさと、また不快感と、つまりは生きている五感の
「坊や」
林の中から、あの臙脂色の男が覗いていた。
「また会ったね。それが邪魔なのかい」
田辺の詰まった棺桶を指さしながら、男は変な目をこちらに向ける。
変な目――そう、それは物欲しそうな目だった。
「邪魔なんだね? いらないんだね?」
男は重ねて訊いてくる。
戸惑った。
「なに、一言、口にすればいい。邪魔だからあげる、とね」
それでいいのなら。自分の言葉だけで決まってよいのなら。桶に目をやった。溢れ出ている田辺の手足が、また増えているように見えた。
なんだかこれを、男にあげたくなった。
「うん。あげる」
「うふふ」男は愉快そうに笑った。
「じゃあ、引き取るとしようか」
なんでもない
まず全裸の田辺が草の上に投げ出された。
次いで、もうひとりを引き抜く。
2体の田辺が並ぶ。服を着た田辺は異様に大きく、裸体の方はひと回り小さい。
両者の頭から爪先までを、男は値踏みするようにねっとりと眺め回した。
そうして腰を下ろし、地面に正座する格好になった。
大きい方の田辺の服を脱がせると、足先に手をかけて、ぱたん、と折り返した。
足先は折り紙のように簡単に折られ、同時に手ぬぐいのように薄っぺらくなった。
男はまた、ぱたんとひと折りした。足首がたたまれる。
ぱた、ぱた、ぱたん。
蝉の声はやんでいた。男が田辺を折りたたむ音がよく通った。
ぱた、
ぱた、
ぱたん。
山折り、谷折り、山折り、
たたまれたところから平たく薄くなるので、田辺の体は重ねた
その合間に、こり、こり、と、こもった音が混じる。
骨の音だ、と思った。柔らかい骨が曲がり、砕ける音なのだ。
こりこり、ぱたん。
こりこり、ぱたん。
胸元までがすむと、次は腕。指先からぱたぱたと蛇腹になっていく。
「よく折れる。
最後に残った頭を、また男はしごく容易に折りたたむ。
ぼりん、と少し大きな骨の音がした。
折りたたまれた田辺は、浴衣3着ばかりの厚みになっていた。青白さはそのままに、しかし乾いていたはずの肌はどこか滑らかで、思えば
次に男は、もう一方の田辺に手をかけ、同じようにたたんでいく。
目を閉じていてもできるとばかりに、山折り、谷折り、山折り、谷折り、
ぱたぱた、ぱたぱた、ぱたぱたぱた――
「そうそう、上手、上手」
こり、こり、ぼりん。
「はい、よくできました」
男が褒めてくれていた。
気づけば私は、彼に見守られながら田辺を折っていた。最後のひと折りを終えて、私の目の前に、2反の田辺があった。
「うふふ、
男はふたつの田辺を重ねてしまうと、脇に置いた葛籠の中にしまった。それで事は終わったようだった。
「それ、どうするの」
私は尋ねた。私にはもう、ずっと先の将来が予想できた。ここで尋ねておかなければ、この先死ぬまで、後悔するだろうと思われたのだ。
「見たいかね」
男は少し勿体ぶった演技を見せた。葛籠の表面を撫でさすり、口元だけで笑う。
「いいさ、坊やは特別だ」
男は葛籠の蓋を開けた。
こりこりと、また骨の音が聞こえる。
葛籠の中から、尖った禿げ頭が持ち上がる。田辺の顔が迫り上がってくる。それに引きずられて、折りたたまれていた体が、ぱたぱた、こりこり、ほどかれて伸びていく。
頭だけが膨らんでいた。首から下にあたる部分は平たく
「ほら、どんどん伸び上がる。まだまだ出てくる。絵巻の
声が出なかった。暑さも汗も忘れてしまった。
田辺の頭はこくりこくりと左右に揺れて、しかし死体だった時とは違い、閉じられた目が弱々しくも開いている。厚ぼったい
「面白いだろう。君のおかげでこうなった」
臙脂色の男は満足そうに笑っている。
「名付けるなら――そうだな、おりたたみ入道、なんてどうだろう」
かつて田辺だったその入道お化けの口が、だらんと大きく開いた。
歯の間から覗く舌は異様に赤く、そこに確かに血が通っていることを思わせた。
その舌に触ってみたかった。
思わず手を伸ばした瞬間、ぱたぱたぱたぱた――入道お化けの体は再び折りたたまれて、葛籠の中に落ちていった。
「はい、今日はここまで」
男は嘲るように言って、葛籠を閉じた。
「まだまだ、このままじゃ見世物にもなりやしないな。こうして葛籠の中に入れて、時間をかけて育てるとしよう。100年たてば、おりたたみ入道はもっと強く、恐ろしくなる。この世を飲み込むほど、大きくなるだろう。そうしたら、その時は、見せてあげよう。待っていたまえ」
葛籠が背負われる。くるりと
「そんな先のこと、無理だよ」
「そうかい?」
「100年も生きないよ」
「生きるさ」
男は目を細めた。
約束をもらった気がしたが、今ならわかる。あれは口先だけで言っている、詐欺師の目だ。
だがそれでもいい。また見たい。また見られるように。それが、私が初めて心に抱いた、祈りと呼べるものだった。
そのあと、ですか。
さて、祖父たちが戻ってきて、なんとしましたかな。
ともかく邪魔な死体はなくなったのですから、その日のことは丸々、なかったことになったのでしょうな。
何日かして、私は自分の家に帰されたはずですが、そのあたりのことはよく覚えていません。それ以降その村に行った記憶もありません。行かないのもおかしなことですが――祖父母が死んだその葬式の折は、どうしたんでしょうな。
そこからは、ええ、大変な時代でしたなあ。戦争は、それは辛かった。戦場の恐ろしさは今でも言い表せないぐらいですよ。私も敵を殺しましたしなあ。
日本が負けて、社会が変わって、家族との別れ、自分自身の老い――どれも随分、辛いものでした。よく生きてこられたものです。
しかしね、長かったとは感じない。なんだか一瞬だったような気がする。
いつだって、目を閉じれば――あの日の出来事が眩しいほどに浮かんでくる。
ぱたぱたと、時間が折りたたまれて、心があの夏の日に還っていく。
ぱたん、ぱたん、ぱたん。
山折り、谷折り、山折り、そうそう、上手上手。
全部、全部、おりたたまれて――いつでもあの夏になる。
よく待ちました。坊やは特別だ。
見せてあげよう。
忘れもしません。大正15年、8月1日。
次の夏で100年になります。
ええ、楽しみでなりません。
蛇腹に折れば夏になる 酢豆腐 @Su_udon_bu
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