スターチス
雨虹みかん
スターチス
夏を飲む。最後の一滴まで、全て飲み込みたいと思う。サイダーの炭酸を苦しくなるくらい身体の中に詰め込むのが好き。自動販売機から転がり落ちたばかりのサイダーで私は海を泳ぐ。この泡があれば、浮き輪なんかなくたってどこへでも行けるのだ。私はペットボトルに付着した水滴を撫でて小さく夏を感じる。
昨日、駅前で買ったTシャツは丈が短すぎたかもしれない。私はグレーのスウェットパンツのウエストを限界まで引き上げる。私の通っている高校は私服登校で、髪型も校則の縛りがなく自由だ。私は高二の春から髪をライトブラウンに染めていて、一ヶ月前には両耳にピアスを開けた。
夏休み明け最初の登校日の今日もメロディがつかない孤独な歌詞を書く。両耳のファーストピアスのローズは夏の眩しさに照らされて、きらり輝いていることでしょう。この孤独な朝がやけに気持ちいい。
朝早く登校し、誰も居ない教室でルーズリーフを広げるのが日課だ。数年前にコンビニで買った安物のシャープペンシルを滑らせる。作詞をするときはこれがいい。
『泡になるときはキミと一緒に』
ここから先の歌詞が思い浮かばない。今回は架空の恋愛ソングにしたい。高校生の男女の少し大人びた恋愛模様。最近読んだばかりの小説に自分の作風が影響されているのを感じる。恋愛の経験は乏しいから、創作物で恋愛を疑似体験する。私は恋愛によって生じる苦しさを知らない。
がらりと扉の開く音がした。私は机に広げていた数枚のルーズリーフを急いで拾おうとした。しかし、焦りから手が滑りルーズリーフを床に落としてしまった。
「泡となるときはキミと一緒に」
私の書いた歌詞を読み上げる男子の低い声に身体が凍りつく。
「これ、谷崎さんの?」
顔を上げるとそこには同じクラスの塙(はなわ)がいた。塙は今年初めて同じクラスになった。身なりに無頓着で、今日も髪の毛に寝癖がついている。度の強い黒縁メガネのレンズの奥にある瞳は長い前髪で隠れていてはっきりと見えない。
私は、自分のではないと咄嗟に嘘をつこうとした。しかし、落とし物として職員室にでも届けられたらたまったものじゃない。嘘をついても後々面倒なことになるだろう。私は正直に自分のものだということを塙に伝えた。
「秘密にしてほしい」
「じゃあ……今日の放課後、髪のセット方法を教えてほしい」
「なにそれ、ヘアセット教えたら秘密にしてくれるの?」
「谷崎さんいつも髪の毛カールさせてるから……」
「これ、アイロンでやってるんだよ。私癖毛だから毎朝ストレートにするよりも、巻いちゃった方がまとまるんだよね。持ち運び用のアイロン持ってきてるから、今日の放課後空き教室でヘアセット教えようか?」
「お願いします」
好きな花を他人に聞かれたら、私は迷わずスターチスを選ぶだろう。正直、本物のスターチスの花を見たことがあるかと聞かれたら自信を持って頷くことはできない。私はスターチスという名前に惹かれている。私にとってのスターチスは音声合成ソフトを使って楽曲を作成している音楽家だ。スターチスは一日あれば一曲完成させられると過去にインタビューで答えていた。動画サイトで現在最も勢いのある天才音楽家で、私は大勢いるファンの中の一人。年齢・性別非公開のスターチスにいつか自分の書いた歌詞を見てもらい、曲をつけてもらうことが私の夢であり憧れなのだ。どんなことがあってもこの憧れだけは変わらないと胸を張って言える。私にとって憧れとは揺るがないものだ。
放課後、私と塙は約束通り空き教室に集まった。
「とりあえず椅子に座って」
「はい」
塙を椅子に座らせると、私はコードレスヘアアイロンの電源を入れた。
「谷崎さん、それ熱いの?」
「熱いから触っちゃだめだよ」
「そう言われると触りたくなる」
「火傷しても知らないから」
「そしたら耳たぶで冷やせばいいんだよね?」
「耳たぶ触るのって、白玉だんご作るときに固さの目安にするときじゃなかったっけ?」
「そうなの?」
「そう言われると自信なくなる。違うかも」
「じゃあ、アイロン触らないでおく」
アイロンが温まると私は塙の背後に立ち、つむじを見下ろすような姿勢になる。塙の毛先に指先でそっと触れる。男子の髪の毛に触れるのは人生で初めてだった。塙の髪の毛は猫っ毛で柔らかかった。癖で小さく束になった髪の毛を摘み、熱くなったアイロンを滑らせる。
まともに話したことのないクラスメイトが自分の背後で凶器を握っている。いつ首元にアイロンの熱いプレートを押し当てられて大火傷してしまうか分からないのに、彼は怖くないのだろうか。
「谷崎さんってギャルだよね」
「ギャルじゃないよ。髪染めてるだけでギャル判定? つけまもカラコンもしてないし、裸眼だし」
「へえ、谷崎さんって視力良いんだ」
「小学生のときからずっと両目A」
「僕のメガネかけたらどうなっちゃうんだろうね」
その塙の言葉を聞いて何故か鼓動が速くなる。私は自分の身体の変化に驚いた。
「かけてみたい」
メガネをかけるだけ。そう理解しているはずなのに、彼のメガネをかけてしまったら何かが始まってしまいそうな、または何かが壊れてしまいそうな、そんな不気味さを感じた。
塙のメガネのつるに右手の人差し指をかける。下に親指を添えて、つるを摘む。反対側のつるを左手で右と同じように摘む。塙の目からレンズを少しずつ離していく。するとだんだん塙の瞳が小さくなり輪郭が歪んだ。
塙のメガネを私が持っている。このことが塙の視力を自らが奪っていることを意味すると気付いたとき、私は自分の決して良いとは言えない思考に嫌悪感を抱くとともに、自分の予感は間違いではなかったということを実感した。
「何も見えない?」
「谷崎さんの姿は認識できるけど、目に映る全てのものの輪郭がぼやけている」
「ほんとにかけていいの?」
「いいよ」
塙のメガネをそっとかけると、世界がぎゅいんと動いた。目が回る。このまま目を開けていたら床に倒れ込んでしまいそうだ。こんな世界が存在していたなんて。ぼやけた世界を知る前の自分にはもう戻れないと思った。
「塙はいつもこの景色を見ているの?」
「僕はこのメガネをかけると谷崎さんの裸眼の状態になる」
「不思議。同じレンズ越しでも見えている景色が違うんだね」
「深いこと言うね」
「このメガネかけていると、歌詞が書けそう」
「僕、歌詞にされんの?」
「そうかもね。嫌?」
「不思議と嫌な気持ちはしない」
今まで塙とは掃除当番のときくらいしか話したことがなかったけれど、塙と過ごす放課後はやけに湿っぽくて、暑くて、このまま夏が終わらなければいいのにとさえ思った。
私は楽しかったのだ。塙の身体の一部を私のものにしている。それはスターチスの音楽を聴いているときと似ていた。音が身体の中に響くのだ。響き渡って、私から離れていかない。ずっとここに居たいという安心感と、永遠にこの場所を自分だけの秘密基地にしていたいという独占欲を抱いた。
「谷崎さん、いつまで僕のメガネかけてるつもり?」
「いつまでも」
「目悪くなるよ。あと、仮に僕にキスされそうになったとしてもすぐに逃げることができない」
突然の塙の言葉に動揺する。
「は? 何言ってんの」
自分の眼球が揺れ動くのを感じた。このままではメガネで酔って本当に倒れてしまう。塙は動揺する私を面白がるように笑った。
「今、谷崎さんはそれくらい危険なことをしているってこと」
さっきまでの、私が塙の視力を奪って優位に立っているというのは私の思い込みだったのだろうか。いつの間にか私は塙の罠にはめられていた。いつからか分からない。きっと塙はわざと際どいことを言って私の反応を楽しもうとしている。それなら私も塙の調子を狂わせたい。
「私は歌詞のためなら塙にキスされたって構わない」
「キスがどういうことか分かってる?」
塙に表情を変えないまま即答され、私は言葉を詰まらせる。塙は私を馬鹿にしている。
「塙はキスしたことあるの?」
「あるよ」
「へえ、意外」
「そうかな。僕の地味な見た目で判断しているでしょ。谷崎さんは見た目で判断されるのは嫌いじゃないの? 派手な格好をしていると初対面で怖がられそう」
「私、背低くて童顔だからかよく幼く見られるんだよね。それが嫌で派手な見た目にしている。だから怖がられて結構」
「怖いと大人っぽいは違うと思うよ」
「塙って失礼なこと言うね」
私は塙の度の強いレンズによって歪ませられた景色に耐えられなくなり、メガネを外した。机に置いていたヘアアイロンはオートオフの機能により電源がオフになっている。冷えたヘアアイロンは凶器にならない。私は耐熱ポーチにヘアアイロンを収納した。
「あれ、しまっちゃうの」
「うん」
「まあいいよ、今日のお願いは谷崎さんと話すための口実だったし」
「なにそれ」
「ねえ、歌詞が完成したら見せてよ。『泡になるときはキミと一緒に』だっけ? キミって誰? もしかして僕のこと?」
「塙のわけないでしょ」
「じゃあ誰?」
「特に誰っていうのはないよ」
「ふうん、谷崎さんって好きな人いないの?」
「恋じゃないけど、憧れの人ならいる」
「言ってみてよ、その人の名前」
私は憧れのその人の名前を呼ぶときにはいつも綺麗な声を出したいと思う。自分の声はあまり好きではないけれど、その人を呼ぶときだけは自分の声を少しでも好きでいたい。息を深く吸う。
「スターチス」
その人の名前を呼ぶ度に世界が少しずつ優しくなっていくような感覚を覚える。私はこの名前が生む音が大好きだ。
「今流行っているよね」
塙のその言葉に反論するように私はつい熱く語り出してしまった。
「流行っているから好きってわけじゃないの。私の好きはそんな単純なものじゃない。私はスターチスの音楽が本当に大好きでたまらなくて毎日聴いているの。新曲を出すペースが速いからスターチスから目が離せない。一日あれば一曲完成させられるんだって。すごくない? 私ね、スターチスと一緒に曲を作るのが夢なの」
スターチスへの想いを言い終わると私はハッとした。大して仲良くもない塙に自分の夢を熱く語ってしまった。しかし塙は私を馬鹿にすることなく微笑んだ。
「素敵な夢だね」
「ありがとう」
「谷崎さんも」
「え?」
「谷崎さんも、一日で作詞できる?」
私は人に作詞をしていることを話したことがないため、今こうして塙と作詞について話しているのが不思議な感じがする。
「んー、速いときは一時間くらいで一曲書いちゃうかな」
私が何気なくそう言うと、
「じゃあ、今ここで朝の続き書いちゃおうよ」
と塙が面白いことを言うものだから、私はなんだか楽しくなってしまって、気が付けばリュックサックからクリアファイルとペンケースを取り出していた。クリアファイルからルーズリーフを取り出すと、早速『泡になるときはキミと一緒に』の続きを考え始めた。
「メガネならいつでも貸すよ」
私が少しでも作詞に行き詰まると塙が愉快なことを言ってくるから面白い。塙と同じ空間にいると不思議と歌詞が次々と浮かんでくる。その感覚は映画館でポップコーン・マシンの様子を観察しているときのように爽快で、教室の窓から見える夕焼け空のオレンジの向こう側まで飛んで行けそうに思えるほど軽やかだった。
歌詞を書き始めてから約一時間が経っていた。空の明度がどんどん低くなってきているのが分かる。
「書き終わった……」
「おつかれさま! 完成した歌詞、見てみたい」
私は塙にルーズリーフを渡した。塙に自分の書いた歌詞を見せることにもう抵抗はなかった。人間というのはたった一日の放課後の時間だけで、こんなにも距離を縮めることができるのだから興味深い。しかしこれは相手が塙だったからという気もする。塙は私を惹きつける見えない何かを確実に持っている。
「谷崎さんが良かったら、明日の文化祭一緒に回らない?」
「私で良ければぜひ」
明日から文化祭が始まる。この高校は部活ごとの出店のため、部活に入っていない私は正直、文化祭に行かなくてもいいかななんて考えていた。夏休みが明けたとはいえまだまだ気温が高くて暑いし、人混みは好きじゃないし。しかし、そんな文化祭でも塙と一緒なら行ってみたいと思えた。
「私の名前を呼ぶとき、さん付けしなくていいよ」
「え、いいの?」
「うん。谷崎花奈(たにざきはな)。花奈って呼んでくれたら嬉しい」
「やったー。では早速、呼ばせていただきます。僕、花奈の下の名前知っていたよ。前に掃除当番一緒だったから」
「そうだったね。ごめん、塙の下の名前ってなんだっけ」
「マサジだよ、雅(みやび)に司(つかさ)って書く」
「これから、雅司って呼んでいい?」
「もちろん」
外はすっかり暗くなっていた。夏の終わりの独特な空気の匂いに寂しさを感じる。私たちは校門に着くと、向かい合って立ち止まった。
「それでは、また明日」
雅司が「よっ」とでも挨拶をするように手のひらを私に向けた。私は雅司のその仕草を真似して、
「また明日」
とエアハイタッチをした。
帰宅すると私はクリアファイルの中身を整理しようとした。しかし、そこに歌詞の書かれたルーズリーフは入っていなかった。
「花奈おはよー」
「おはよ、今日髪型いい感じじゃん」
「姉のヘアアイロン借りてやってみた」
雅司の髪の毛はいつもの寝癖ヘアではなく綺麗にまとまっていた。しかし整った髪型とは正反対に、目の下のクマが酷かった。
「そのクマどうしたの?」
「あー、文化祭が楽しみすぎて眠れなくて」
「雅司ってそういうタイプなんだ」
「まあね」
図書室前の廊下で待ち合わせた私たちは、近くを歩いていた文化祭実行委員からパンフレットをもらい、教室を回り始めようとした。
するとそのとき、廊下に校内放送が鳴り響いた。
「本日の出演チームに空きが出ました! 急遽、追加で出演者を募集します!」
午前中は部活ごとの出店、午後からは体育館でステージ発表が行われる。私たちは午後のステージ発表を観に行こうと話していた。
「もうすぐ九月だね」
突然、雅司が呟いた。黒縁メガネのレンズの奥に雅司の儚げな瞳がある。
「夏が終わるって言いたい?」
「そうだね。今、夏の終わりの匂いがしたから」
「雅司も夏の終わりの匂いを感じる人?」
「うん。春の匂いも、秋の匂いも、冬の匂いも知っている。夏の終わりの匂いは一年で最も印象的でその匂いを感じると何故か寂しくなる」
この夏が終わったら世界から消えてしまうのではないかと思えるほど、雅司の横顔が美しく見えてしまって、私は思わず立ち止まった。
「夏が終わっても、ここに居てよ」
「大丈夫、僕はずっとここに居ます」
私たちは、夏の終わりにオレンジジュースを飲んだ。私がトイレに行っている間にジュースを買ってきてくれた雅司から、狙っていた瓶ラムネは売り切れだったということを聞いて、私はその事実に静かな嬉しさを感じた。
午後になり、私たちは体育館へ移動した。もうすぐステージ発表が始まるという頃、雅司が何の前触れもなく体育館の外へ走って行ってしまった。突然の出来事に驚いていると体育館が暗転し、ステージが複数の交差したスポットライトで照らされた。そして司会の生徒がマイクを持って登場した。
「午前中の放送を聞いて、出演希望の連絡をしてくれた生徒がいます。トップバッターはその方です! それではどうぞ!」
ステージの照明が全て消えた。そして数秒後、アコースティックギターを抱えた雅司がスポットライトに照らされながら立っていた。
雅司はぺこりとお辞儀をすると、ギターを弾き始めた。体育館に雅司の出す音が響く。Aメロの出だしの歌詞を聴いた瞬間、ステージ以外の風景がぼやけてモザイクのようになった。
この瞬間を私はいつまでも鮮明に思い出せるだろう。
「泡になるときはキミと一緒に」
雅司が歌っていた。ギターを弾いていた。
これは確かに私の歌詞だ。
私の歌詞にメロディがついている。
雅司が歌い終わると体育館は盛大な拍手に包まれた。モザイクが晴れていつもの体育館に戻ると、私は長い眠りから目が覚めたような気分になっていた。
「この曲は同じクラスの谷崎花奈と作りました。あそこの席にいる生徒です」
雅司が私のいる方を指差すと、ステージに向いていたスポットライトの光の一つが私の方へと近付いてきた。客席がざわつく。私は周りの生徒からの視線に耐えられなくなり、スポットライトの光から逃げるように体育館を抜け出した。
「花奈、ごめん!」
校門で息を切らしていると、後ろから雅司が追いかけてきた。
「勝手にあんなことしてごめん」
雅司の肩が上下に動く。前髪が汗で額に張り付いている。
「それより、ギターはどうしたの?」
「他の出演者から借りた」
雅司が笑顔でピースをする。
「聞きたいことは山ほどあるのだけど、とりあえず帰りますか」
「はい、花奈様」
「ねえ、花屋寄って行かない?」
「花奈様のお願いなら何でも聞きます」
私たちはおかしな寸劇をしながら歩き、高校の近くにある花屋に寄った。店内を見回すと、私は店の奥にあるドライフラワーのコーナーに釘付けになった。
「枯れてる」
数多くのドライフラワーを目の前に雅司がそんなことを呟くから私は大きなため息をついてしまった。
「ドライフラワーだよ。雅司ってほんっとにデリカシーない」
「花奈は、枯れている花とドライフラワーの違いを正しく説明できるの?」
私はハッとした。私は何も知らないのかもしれない。きっと、雅司のことだってまだ全然知らない。昨日の放課後と今日の文化祭だけで雅司の全てを知ることはできないだろう。全てを知る必要はないかもしれない。だけど私はもっと雅司を知りたい。今のままじゃまだ足りない。
キミの夢はなんですか?
憧れの人はいますか?
今、誰かに恋をしていますか?
宛先のなかった「キミ」が雅司で彩られていく。私にとって憧れとは揺るがないものだ。そして私は夏の終わりにもう一つ、揺るがないものを知ってしまった。
ピンク色のドライフラワーの束の近くに「スターチス」と書かれたカードが貼られている。私がピンク色をじっと見つめていると、隣に立っている雅司が口を開いた。
「スターチスの和名は花浜匙(ハナハマサジ)。花言葉は『永久不変』」
スターチスの花についてすらすら話す雅司に驚いてしまった。私はスターチスが大好きなのに、スターチスのことをほとんど知らなかった。
「詳しいね」
「前に調べたことがあったんだ」
雅司はそう言うと、店員さんのいるカウンターの方へと歩いて行った。そして店員さんからスターチスのドライフラワーを受け取ると、
「花奈にあげる。スターチスが好きなんだろう?」
と笑った。
「ありがとう。お花をプレゼントしてもらうって、人生で初めて」
「喜んでもらえて良かったよ。憧れのスターチスにいつか会えるといいね」
「うん。会えるように頑張る。そうだ、塙は憧れの人いるの?」
私はキミにもっともっと聞きたいことがある。
泡になるときはキミと一緒に
手を繋ぎながら夏を飲み込みたい
泡になる前に聞かせてよ
キミの夢はなんですか?
憧れの人はいますか?
今、誰かに恋をしていますか?
文化祭のステージの光景が鮮やかに蘇る。
「憧れの人、花奈って答えたら怒る?」
雅司の声は小さく震えていた。
「怒らないよ」
私は「ありがと」と伝えると、呼吸を整えて唾を飲み込んだ。キミの名前は、綺麗な声で呼びたいから。
「雅司」
世界が少しずつ優しくなっていく。
スターチスは一日あれば一曲完成させられる。
雅司から衝撃のカミングアウトをされたのは九月に入ってすぐのことだった。授業が終わって一緒に帰っている途中に雅司は言った。
「ルーズリーフ、勝手に持ち帰ってごめん」
「早く言ってよー。失くしたかと思って焦ったんだから」
「ごめんごめん」
「塙雅司って、ほんっとに勝手な人」
私が大げさに怒ってみせると雅司は、
「勝手に花奈の歌詞にメロディつけて文化祭で弾き語りしちゃうような人だもんね」
とにやにや笑った。
「そうそう、雅司って作曲できるんだね。文化祭のときびっくりした」
「まあね~」
「なんで話してくれなかったの?」
「あの有名なスターチス様には技術が及ばないからね~。スターチスファンである谷崎さんには言えませんでした~」
雅司はスキップをして私の隣から遠ざかっていった。雅司のテキトーな態度にむっとして、私は雅司に聞こえるように大きな声で叫んだ。
「ねえ、他に何か隠してることない?」
雅司はスキップをやめると、私の方に向かって叫んだ。
「さっき僕の名前フルネームで呼んだよね?お願い、もう一回呼んでよ!」
私はやけくそになって、
「は! な! わ! ま! さ! じー!」
と九月の空に精一杯叫んだ。
綺麗な声じゃなくたって構わない。きっとこれから数えきれないくらいキミの名前を呼ぶだろう。雅司には私に綺麗じゃない部分も知ってもらいたい。
私が叫ぶと雅司が私に負けないくらい大きな声で叫んだ。
「『わ』の音を『は』の読みで呼んでみな!」
私は、雅司の言っていることをいまいち理解できないまま、もう一度フルネームを一文字ずつ叫んだ。『わ』の音を『は』の読みに変換して。
「は! な! は! ま! さ! じ!」
久しぶりにこんなに大きな声を出したから、私は喉が痛くなった。雅司のしたいことが何なのか全く分からない。
「まだ気付かないの?」
雅司はそう言って、スキップしながら呑気に私の隣に戻ってきた。
塙雅司。
はなわまさじ。
私は何度もキミの名前をぶつぶつと唱えた。すると、あるとき私の全身に鳥肌が立った。
『スターチスの和名は花浜匙(ハナハマサジ)』
あの日の花屋で雅司が放った言葉を思い出す。
「やっと気付いたようだね」
彼が私と目を合わせて微笑んだ。
「弾き語りを聴いて、これがスターチスの新曲だと気付けないようじゃまだまだだよ」
憧れは揺るがないもの。
そして、憧れというものは案外近くに存在しているかもしれないものであると知った。
見えている世界が必ずしも全てとは言えない。同じレンズ越しでも見えている景色が違う可能性もきっとある。スターチスは私にそのことを教えてくれた。
高校三年生の春がやって来た。今日も朝早く登校して新しい教室でルーズリーフを広げる。一年前と異なるのは、朝が孤独なものではなくなったことだ。
「お、新曲のアイディアですか?」
雅司の猫っ毛はヘアアイロンで丁寧にセットされている。
「雅司、『泡になるときはキミと一緒に』の再生回数見た?」
「見た見た、やばい」
「公開から結構経ったのに、まだランキング上位にいるの感動」
「公式ミュージックビデオよりも、文化祭の弾き語り無断転載動画の方が伸びてるのは納得いかないけどな!」
「あれはスターチスってより塙雅司だもんね」
「そうなんだよ」
窓を開けると春の匂いが教室に充満した。私は深呼吸して春の温度を思いっきり吸い込む。
「そういえば、花奈はもう派手な格好しないの?」
「うーん、もういいかなって。大学受験あるし、気持ち的にも黒髪が落ち着く」
「鎧を脱いだってことか」
「まあ、そういうことかもね」
窓際で大きなあくびをしたらポニーテールに結った黒髪が風に靡いた。あと数か月すればまた夏がやって来る。自動販売機の季節限定ドリンクが待ち遠しい。鎧を脱いで昨年よりも強くなった私は、今年も夏を飲むのだ。
スターチス 雨虹みかん @iris_orange
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