『化学的要因を伴わない人間の人格・思想形成、その可能性と実用について』

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『化学的要因を伴わない人間の人格・思想形成、その可能性と実用について』

「……ネ、ベネ・ティンベルヘン!」

 ハッ、と意識が浮上した時には頭を叩かれていた。一瞬だけの鋭い痛みに呻いていると、だんだんと目の前の景色に焦点が合ってくる。煤だらけの白かったであろう壁、こだわりの銅製の釜、その中にオールを突っ込んでは、せっせとかき混ぜている部下たち。引き上げたその先からどろり、きらきらとしたショッキング・ピンクが垂れて、なるほど通りで自分が小突かれたわけだと知った。背後にいたはずの上司が前に回ってきて、目の前でふんぞりかえれば尚更。

「何をしているんだ! とっくに休憩時間は終わってるんだぞ!」

「あ〜……すみません、ぼーっとしていて、」

「ぼーっと? 違うな」

 そう言うと、背丈だけはある大男は視線を下へと走らせた。その先にあるのは、自分が使っていた木造のテーブルだ。無垢材のそれはよく使い込まれて傷だらけ。味があるともアンティークとも言えるそれには、きっと一番お似合いの本、本、本……が転がっていた。裏表紙には丁寧に〈ベネ〉と記名されて。

「また本か……しかも、ふざけている伝記なんて読んでいたのか」

「……ふざけた、とは……」

「いーや、ふざけてるな! "飲んでいない"奴らが発明だの発見だのできるわけがない」

「……」

「おとぎ話さ! 夢ばかり見ていると、栄誉ある昇進を取り逃がすことになるぞ……成人の<心>すら飲んでいないお前には、ちょうどいいかもしれんがな!」

 上司はそう言うと、わざとらしく鼻を鳴らした──まだ気に食わないのか。だがベネにとっても、このやり取りは日常茶飯事だ。「はい、気を付けます」と適当に返して、散らばった本の山をかき集め始めた。そうすればもう言えることもあるまい、上司は口の中だけで何やらもごもごとしていた気がするが、そのうちゴトゴトと靴を鳴らして去ってしまった。足のサイズぴったりに作られている上に、水分をはじくよう油脂が塗られている、ぎちぎちと重苦しい木靴。それが自分の足にも巻き付いているのを改めて見て、ベネは急いで息を吐きだした。呼吸だけは自由でありたかったのだ。


 ベネが勤めている工場は、いくつも煙突が突き出ている町の中でも、いっとう大きいところだった。その大きさに見合って、中も最新鋭の技術や器具、大勢の人で溢れている。時には薬品の匂いより、人いきれが鼻をつくほどだ。だが働きバチの法則など丸っきり適応されていないかのごとく、ここにいる皆はせっせと働いている。その時点で、ベネにとっては不自然で、そして何よりも自分が異物であるという感覚を拭えなかった。

「やあロニー、調子が良さそうだね」

「ベネさん! ベネさんの言った通りに混ぜたら、うまくいきましたよ!」

「そう」

 しかし、そんな自らが、この工場で一番美しい<心>を作ると評判なのだから皮肉なものだ。ベネは紐でくくって背負った本たちが間違っても汚れないように、慎重に窯の中を覗き込んだ。毒々しい色をした液体は、ところどころ金色の粒子が目立つことからも完成間近なようだ。「もう引き上げてしまおう」と声をかけると、ロニーは頬を紅潮させたまま、急いで傍らのワゴンからガラス容器をひっつかんだ。勢いを殺してやるまいと、ベネも黒々と焦げたレードルを別のワゴンから引っ張り出して、部下に渡してやる。すると彼は一層目を輝かせて頭を下げ、レードルを窯に突っ込んだ。とろとろと粘ついたピンクが宙に持ち上げられ、零れた端からチカチカとした線を描く。夢幻によく似たそれは、無機質なガラスの中にきちんと注がれ、手に入れられる現実となったようだ。

「なんて綺麗な……本当にベネさんは凄いです!」

「そうかな」

「そうですよ! 僕もこれを飲めたら良いのに……」

 途端、ロニーがはっとしてベネの方を振り向いた。

「もちろん盗みなんてしませんよ!」

「ん? あぁ……分かってる。重罪だものね」

「えぇ、昨日も隣の部署の奴が」

 気持ちはわかりますけどね、とそれでも部下は歯噛みしながら言っていたと思うけれど。ベネはとっくに容器から視線をそらし、なんとなしに天井を眺めていたものだから確証はない。鮮やかな宗教画──今やただの芸術品と化したステンドグラスがはめ込まれた天井、そこから差し込む陽光が、宙を舞う埃を一心に照らしている。その様子が、やけに美しいと思っていた。


***


「ただいま」

「あら、お帰り、遅かったわね。とっくにスープが煮えてるわ、お父さんを呼んできて」

 ダイニング・テーブルについて新聞を読みながらも、一息にそう言った母に、ベネは「はいはい」となるべくハキハキ返事をした。大分軋み始めた木造の階段を上がって突き当り、扉に軽くノックする。建築士たる父さんの聖域、書斎は子供のころから入ってはいけないと口酸っぱく言われてきた。だが「帰ってきたよ、お待たせ」と声をかければ、「ああ、お帰り。降りるよ」とすぐに気の良さそうな、優しい返事が来るのが常だった。

 家族は優しいと思う。工場勤務で目まぐるしくシフトが変わるというのに、なるべくベネの仕事に合わせて一緒に食事を取ってくれている。同じ家にいれば先に食べ始めるなんて、まずしない。ベネが自室で着替えて、擦り切れたショルダーバッグを椅子に放り投げ、また階下に降りるまで──「ベネ、さあ食べようか」と湯気を立てる料理を囲んで、待ってくれているのであった。

 母さんのチキン・グラタンは、僕が好きだと呟いた子供のころから定期的に作ってくれている。父さんが家族二人を養う、人口増加に目を付けた集合住宅中心の設計仕事も、僕には出来ない凄いこと。

 ──彼らは、少なくともベネの記憶の中で、笑顔を絶やしたことはない。穏やかで明るい、絵に描いたような理想的な家庭を、何年も何年も作り続けている。

「ベネ、サラダばかり食べていないで。今日はグラタン以外にお魚もあるんですからね」

「うん」

「すごいな、切り身の間にバジルのペーストが入ってるぞ! 次は父さんも挑戦してみようかな」

「あらやだ、難しいですよ」

 ふふ、はは、と笑いあう和やかな会話の密やかな影に入って、ベネは出られなくなっていた。もう何年も、ベネの胸、きっとまだ空っぽのその中には、寒々しい風が吹き荒れていた。


 最近の食事は喉を通りにくいから、口直しが必要。そんな言い訳で耽り始めた食後の読書時間は、もう何年続いているだろうか。ベネを懐疑に陥らせ、同時に慰めてくれるのは、本の中──またあの上司が聞けば嗤うに違いない、彼らの話だった。深い精神性を秘めた絵画を残しただけでなく、工学から人体解剖学、気象学に至るまで様々な学問を追求し、現代に至る知恵への先駆けと相なった彼は学者の憧れと言えるだろう。自分だけでない皆のアイデンティティを守るために、幼いながらも剣を奮って英雄と名を残している彼女も好きだ。心臓を早鐘で打つかのような、迫力ある彼の音楽は秋の夜長に聴きたくなる。彼が遺した、少年の友情と悲哀を星々で彩った話ほどロマンチックで涙を誘う物語はあるだろうか。他にも沢山ある。他でもないベネの心を彩り、潤いをもたらす彼らの武勇伝は本の中だけでない、ベネ以外の者が生きるこの世界、生活の中にも確固たるものとして息づいている。

 それなのに彼らは、彼らの功績に甘んじている者たちから冷遇されている。その理由は、たった一つだ。歴史書をめくると最後の数ページだけに出てくる美しいだけの図柄に、ベネは息をついた。どこまでも滞留する、靄のような息を。

 彼らは心を吞んでいない、らしい。らしい、というのは、そもそも彼らの時代にこの心を呑む技術が開発されていないから。とはいえ、類似の技術があったかどうかも定かでない。そもそも古文書にそのような記述が無い。だから呑んでいないらしい。やけに白い歯と小綺麗なスーツ姿の編者を表紙に載せるだけのコンパクトな書物でなく、この分厚い革張りにインキの匂いが立ち上る古ぼけた歴史書が言うのだからそうなのだろう。

 この技術が造られたのは、ここ百年と少しの話。便利な情報網によって瞬く間に世界に氾濫した情報は、人間を楽しく躍らせた。だが人間は利便性に溺れるがあまり、考えるのをやめてしまった──「ひとは考える葦である」とは、やはり彼らの一人が遺した名言だ!

 ベネは息苦しくなって、一旦ラジオスイッチを捻ることにした。この時間はお気に入りのクラシック音楽が流されていて、いつも呼吸のテンポを教えてくれる、強い味方だった。続きを読もう。

 考えるのをやめてしまえば、ただ無造作に繁殖を繰り返すだけの植物だ。頭が空っぽ、それを満たそうとした葦は、その欲が命ずるままに動いた。それはもう法治国家など名ばかりで、社会的動物の肩書など無に帰すような人心荒廃の時代であったという。その時代を辛うじて生き抜いた科学者──女性だというのだから驚きだ、彼女が提唱したらしい。

 『社会に、そして人間に、ふさわしい想いのモデルケースを作っていけば、もう誰も苦しみはしない』と。

 ベネのページをめくる指先が震える。きっと当時の科学者もそうであったのだろう、暴論! 暴挙! 不可視のものを作るなんて滑稽! 彼女は針の筵に座らされた。しかし、『神は死んだ』。もう人間は、心など些末なものなど成分分析し、作れるようになっていたのだ。信ずることを尊ぶ宗教は、先人が育んだ丁寧な文化は、科学の前に屈し、古物として現代から消えた。大抵の歴史書は、これこそが人間が一度は下等に成り下がったことと功罪相半ばするという。自分からすれば、もう一般人には広大で区分けの不可能な情報など無価値であると、ネットワークなる網を世界から切り落とした結果、文明が前時代へと逆戻りしたところもある、という点も十分罪だとは思うが。

 ベネは索引までなんとなしにパラパラとめくりきってから、机の上へと乱雑に書物を置いた。蚤の市で見つけたアンティーク・ランプが作り出す、柔い光に包まれた天井を見上げてみる。キィ、と鳴ったのは父方の実家の納屋から掘り出した安楽椅子だ。

 <心>を飲む。だが前述した通り、それは生成物に他ならない。これが自然の産物で云々ならばまだ良かったかもしれないが、他でもない自分の手で作られているともなると、ベネにはより不可解が募った。

 高等教育を受けることも出来たが、ベネが義務教育を終えてすぐに工場に入ったのは、憧れの成せる業だった。だって科学者の彼女も、ベネにとっては偉業を成した者に他ならない。そして、製作物の行く末も見たくなるのが職人というものだろう。ベネは、まだ経験を積むべき子供であるという立場をいいことに、<心>を飲む多くのシーンに立ち会った。

 透けるような青色は、健やかに育ち社会を回す歯車とめでたく相成った成人の証。目にも鮮やかな桃色は、生涯を共に生きる相手への誓い。人生の節目に飲む美しい液体は、空白らしき思想や人格を満たしていく。そして飲み干した時、当人たちはまるで入れ子人形のような、トレーシングペーパーで写し取ったような、皆一様の、幸福そうな笑みを浮かべるのだ。

 ベネも今を生きる以上──昇進という栄誉が控えている以上、<心>を飲むことは決まっていた。隣の部屋で眠る、穏やかな両親のように。愚直に仕事に精を出す部下のように。もう既に、この疑念に囚われている胸の内を、上書きするかのように。

 自分はとことん不心得者であると思う。優しい彼らの<心>を、口にするもおぞましい言葉で貶そうとしている。しかし、ベネの中にはずっとずっと、書物や歴史の中で手招いている偉人たちがいるのだ。一つしかないわが心の中で、ずっと、彼らは本物たれ、と囁いているのだった。


***


 今朝も、母の目を見て話すことができた。そうすると、やっとベネはこの世界で呼吸をする許可が貰えた気がするのだ。「父さんは?」「昨日の夜あわてて出て行ったのよ、最近は緊急の仕事が多いのよね」と他愛もない話をしながらトーストを齧る。片手には気に入りの──今日は物語集──子供向けとは名ばかりで、死のみに安楽を見出す彼の、本をめくるのがルーティーンだ。「本当、ちっちゃい頃から本が好きねぇ」と母が目を細めるのも嫌いではなかった。

 もう出る時間よと母に急かされ、見送られながら家を出る。歩きながらショルダーバッグの中身を確認し、石畳の色の濃いところだけを歩く。背の低い住宅街が立ち並ぶ路地を通り抜け、唯一背のある工場たちの赤銅色の煙突、そこから吹き出し始める白や黒を眺めていく。ベネの街に時を知らせるのは、かつて存在したという宗教施設──教会、の鐘の音などではない、この汚い煙であった。

 だが最近は習慣を増やした。頭の中だけで今日読み返す偉人の研究を反芻し、自分であれば彼らといかなる会話をするだろう、意見は受け入れてくれるだろうか、と試行を繰り返すのだ。それがベネの、世界に対するささやかな反抗だった。


「おはようございます、ベネさん」

「やあロニー……どうしたんだい?」

「えっ?」

「嬉しそうだ」

 更衣室のロッカーに鞄を放り込みながらそう言ってやると、途端に部下は目をキラキラとさせ始めた。こういう時の彼には少々嫌な予感がする。

「新人が来るんですって」

「新人? もう夏だから新卒ではないんだね?」

「ええ、隣の部署の部長の従兄弟の姪っ子さん、だったかなあ」

「遠いね」

 姪っ子。その言葉が引っかかったのは物珍しさであって、下心はない。と言うのに、聞く前にニヤニヤと笑みを深めているのだから腹立たしい。

「うちの工場に女性が入るなんて早々ないのに」

「えへへ、本当に」

「ねえ」

「しかもベネさんとそう変わらない年齢だとか!」

「僕と?」

 それもまた珍しい。自分と同じで高等教育を望まなかったか、望めなかったか、もしくは──研究熱心か。いやに浮かぶ可能性を考えていれば、ふわり、空気の動く感覚。制服のキャスケットを被り直したロニーが、仰々しく更衣室のドアを開け放った。気に触るお辞儀なんかしちゃって。

「ロマンチックが始まる予感、しません?」

「しないよ」

「ベネさんの歳で仕事に恋するなんて勿体無いですよ、もっとロマンがないと」

「余計なお世話」

 ベネも、うっかり鞄でぺしゃんこにした帽子を引っ張り出す。消臭スプレーでは落としきれなかったらしい硫化水素の匂いが鼻について、思わず顔を顰めた。そうだ、昨日は更年期において必要な<心>を作ったのだっけ。次の休みの日にはクリーニングに出さねば、と思いながら、ベネは致し方なくキャスケットを被った。これで夢見がちな彼と揃いの格好だ。

「可愛かったらどうします?」

「どうもしないよ」

「僕が貰っちゃうかも」

「好きにしなよ」

 へへー、と能天気な声と共にドアをくぐる。ロニーが背後でそれをパタンと閉めた時、彼の格好つけか何かだろうか──纏ったらしい石鹸と合成香料の香りが自分にも移ったように思えて、少々幸運に感じたのであった。


「ラナ・クーレマンスです。よろしくお願いします」

 そう彼女は繰り返した、よりにもよって僕の目の前で。

 自部署の朝礼で仰々しく紹介された彼女は、筋肉質の上司に今にも摘まれそうなほど小柄で、きゃらきゃらと光る黒くてまぁるい目が印象的だった。黒曜石かオニキスのよう。挨拶の間にも目をあっちこっちにやって、天井から吊り下げられた液体のサンプル図を映すものだから、様々な色が瞬いて小宇宙にも見えた。工場員が皆同じように「よろしくお願いします」と直角のお辞儀をする最中で、落ち着きのないそぶりからも賑やかな子が入ってきたものだ、と意識を飛ばしていたのが良くなかったらしい。唖然としているベネの前に、またもや筋肉達磨が仁王立ちする。

「聞いてなかったのか、今日からベネ、お前が面倒を見てやるんだ」

「は、はあ、でも僕は研究が中心で釜仕事は、」

「この子は釜仕事からじゃない、お前と同じで研究班だ!」

 それもさっき言ったろう、と鼻を鳴らされる。どうして、新入りは設計図に従って釜をはじめとした機械を動かすのが定番だというのに。ああ、コネ入社だったな。次はベネが鼻を鳴らす番だった。彼女の目は輝いたままだ。

「わかりました、よろしくお願いします」

「! はい!」

 幼気な雰囲気さえある、元気のいい返事。本当に歳が近いのかと疑いさえしたくなる。ああ面倒なことになったぞ、とベネは気に入りの研究書に思いを馳せた。何せ暫くは、休み時間に構ってやれない気がしたものだから。


***


 そう思っていたのに。ベネは今日も今日とて本の隅に手垢をつけてやることが出来た──他でもない、彼女のおかげで。

 クーレマンスさん、もといラナは第一印象よりずっと優秀だった。『"さん"なんて要りませんよ、名前で呼んで!』『え? 私と同い年なの!?』と無邪気に言われた時はどうしようかと思ったが、今やそれで良かったとすら思う。壁を取っ払った彼女の発想は興味深かった。

 ──カルシウムから生み出す心なんて、飲み込むときに硬くて美味しくなさそうだわ。

 やあこの色は美しい、あの心は素晴らしい、と感嘆の声ばかりが聞こえる工場の中に響く、彼女の言葉。思わず腹の底から笑ってしまって、上司にこっぴどく怒られてしまった。ああ、でも。あんなに息を吸い込んだのは何年振りだったろう!

 そんな自由な彼女が、ベネの知識に気づくのも当然だった。

『なあに? あぷりおり、って』

『ああ、先験的な知識さ』

『せんけん』

『つまり、この知識を枠組みとして、そこに経験を当てはめていくのが人間の基本であるとする一説で、うん……』

『? どうしたの?』

 長い髪を鏡も見ずにひとまとめにしただけのポニーテールが揺れる。その奥には、窓越しの田園が朧げに見えていた。

『……心を作ることには、何も関係がないからね。母親になる時の〈心〉の組成でも教えた方が有意義かなって』

 そんなことをつらつらと言える自分の舌をちぎって捨てて欲しかった。舌を抜く神様が確かどこかの国の地獄とやらにいたような。だが彼女の双眼は、きっと業火よりも熱心に煌めいていた。

『何でも知って損はないわ! 教えてくれる?』

 そんな鶴の一声に、上下関係に弱い達磨も屈さざるを得なかったらしい。休憩時間はとことん邪魔されることなく、ベネとラナは書物をめくった。特に分析心理学なんて、文章を読むたびに互いに顔を見合わせて笑ってしまったものだ。

『母性が感情的なつながりや想像力、父性が自己制御、社会的規範の順守を子に与える……やだ、通りで父性の<心>って鉄臭くて飲めたものじゃないと思ってた!』



 二人でベネの厳選した専門書たちを読み終わる頃には、木を飾っていた緑はとっくに影を潜め、橙や黄色をも脱ぎ捨てた灰色の枝が、同じく灰がかった空と交差する時期だった。息を吐きだすたびに、先走った水蒸気が白く世界に溶け込んでいくのを眺めながら、ベネはラナを待っていた。工場の入り口付近なら、一定を保たれている室温のおかげで比較的暖かい。柔らかなマフラーに首どころか顔を埋めてしまえば猶更、苦痛ではなかった。

「お待たせ!」

「! やあ、全然」

 氷柱よりも透明で、通った声音がベネを貫く。肩を跳ね上げてしまったことには気づかれていないだろう、彼女は周りをあまり見ていないのだ──だから何物にも囚われず、自由なのだ。今日は下ろしている彼女の美しい髪は、緩やかな曲線を描いて、顔周りに光の環を飾っていた。行きましょう、と確かに声をかけられたのに、彼女が数歩、積雪に足跡を刻むまで動けなかったのはそのせいだ。「やだ、どうしたの?」と唇を尖らせながら振り向かれた時ですら、すぐには傍に寄れなかった。真っ白な雪に陽光が反射して、ラナを巨大な光で包んでいた。まるでラナこそが本物の太陽になったようで、ベネはその圧倒的な輝きに目を焼かれていたのだった。

「夜勤明けはいいわね、空気がとっても美味しく感じる」

「薄暗い工場に籠りっぱなしだと余計にね」

 他愛もない雑談をしながら、辛うじて除雪された道を行く。彼女の借りているアパートは工場から徒歩十五分ほどで、ベネの家よりも少し遠い。おまけに途中から道が分かれてしまうものだから、ベネはラナを家まで送ったあとに、ぐるりと路地を回って帰路につくのであった。気を遣わせると思って、彼女には家の正しい位置を伝えていない。今日もそれは変わらず、彼女の家へとまっすぐ繋がる、色の薄くて大きな石が敷き詰められた道をゆっくりと、二人で歩いていた。

「そう言えば、次は何を教えてくれるの?」

「……本のことかい?」

「うん! あれとか面白かったわ、湧き出る向上心を信じて、新しい価値を創造することで……スーパーマンになれるってやつ!」

「はは、空は飛べないけれどね」

「そりゃあ飛べたらもっと楽しいと思うけれど、私、十分あの考え方は大好きだわ」

 そう言うと、隣にいたラナは、その高い鼻先をベネに向けた。やはり丸い目を、きらり、今日も瞬かせて。

「どんな悲しい過去でも肯定し、全力で生きてこそ自分を愛せる存在になれる、ってことでしょう」

 彼女がそう言い切った途端、木枯らしが二人の間を通っていったはずなのに。まるで工場の空気がここまで追いかけてきたみたいだ、その熱い温度が、確かにベネの頬を包んだ。オーバーヒートしたエンジンみたいに舌が縺れて、けれど強い気持ちが、ベネの口を開くよう急き立てた。

「僕も、そう思ってる。だから、僕は、考えてることがあるんだ」

「あら、新しい研究?」

「そうさ、」

 一生懸命喋っていくうちに、やっと口がなめらかに動き始める。新しい価値を、自己を、この現代を! ベネも超克したくて、堪らなくなっていた。

「作った<心>を飲まなくてもいいようにしたいんだ」

 冬なのに額から汗が噴き出るのがわかる。まあ、と呟いたラナの声がやけに遠く聞こえて、ベネは慌てて言葉を紡いだ。

「<心>をわざわざ飲まなくたって、人間は時宜にかなった気持ちを、自ら作り出す力があると思う。本当はみんな超人なんだよ、ラナ。僕は、その力を引き出すトリガーを見つけたいんだ……」

 しりすぼみになる台詞とともに、自然と顔も俯いていく。話に夢中になってしまったために止まった足に、彼女も付き合ってくれているのは、石畳を弾く軽やかな音が止んだことから分かっていた。

 ラナ、君は、どう思う。だが、そう口に出して問う前に──彼女が、真珠にも似た白い歯を見せる前に──ベネにはなんとなく、返事が分かっていた気がしたのだ。

「いいじゃない、それ! いちいち飲むなんて面倒だものね」

 弓形になった彼女の双眼は、きっとこの世で一番綺麗なものだと、ベネは確信した。だからこそ、ずっと聞きたかったことは、自然と口から滑り落ちた。

「ラナ、君、<心>を飲んだことはないの」

「? ええ、ないわ」

 胸は、確かにときめいた。心臓は、確かに早く脈打って、期待の音色を響かせた。

「い、今は二分の一成人式なんてものも流行り始めているのに、珍しいんじゃない?」

「そうかしら? 私、パパが絶対<心>の開発者になれって、そうすれば将来安泰だ~って五月蠅かったから。<心>を見るとお説教を思い出しちゃって、自然と避けてたのかも!」

 そう言うと、彼女はくすくす笑った。声は小さいのに身体は揺らすものだから、彼女がつけている香水、いや洋服の柔軟剤なのかもしれない。濃厚で甘い花の香り──夏の太陽の下で凛と佇む、白百合の香りが辺りを漂った。

 この祝福の日からベネは、ずっと胸に秘めていた研究に、満を持して手を付け始めたのだった。


***


 研究は、思ったよりも上手く進んだ。元より知識も構想も備えていたからか、もしくは他でもない彼女が、進捗を報告するたびに手を叩いて喜んでくれたからかもしれない。流石に『成分組成を反復学習に置き換えればいいんじゃないか……もちろん数えきれないほどの試行回数が必要だけれど』と呟いただけで頭をくしゃくしゃと両手で撫でられた時は、いかがなものかと思ったけれど。でも、そんな彼女も愛しかった。周囲からすれば嗤われるような研究に没頭するベネの隣を、彼女は選んでくれていた。ベッドの中で彼女と体温を分け合う冬も、もう半ばを過ぎていた。



「……違う、つまり<結婚>の心の成分を、自然と持続分泌させればいいんだから……」

「……さ……ん」

「外部からの刺激……そうだ、食べ物でどうにかならないか……? セロトニンが<心>に匹敵するほど分泌されるようになれば」

「ベネさん!」

「うわ!!」

 どさ、と後ろ向きにひっくり返らずにすんだのは、まだベネに、ここが職場であるという認識が残っていたからだ。今日、腰に手を当てて立ちはだかっていたのはロニーだった。ちぇ、嫌な奴に似てきたな。

「そろそろランチを食べに行かないと、午後の仕事に間に合いませんよ」

「ああ、もうそんな時間か……君は?」

「休憩のベルが鳴った直後にオフィスを開き始めたベネさんが心配で。待ってたんですよ」

「あ、あぁ……」

 皮肉られても仕方がない、現に部署共有のフリースペースのはずが、七割ベネの本とかノートとかペンとかで埋め尽くされていれば。よく上司に嫌味を言われなかったものだな。きょろきょろと辺りを見回してみれば、幸運なことに不在のようだった。珍しいこともあるものだ、普段は休憩時間だろうか真っ先に昼食を平らげ、窯を一望できる場所、そこに立つ太い柱にもたれかかっているのが常だというのに。しかし好都合。ゴキゴキと首を左右に振って慣らすと、つられて胃も起きて悲鳴を上げた。「ナイスタイミング」とロニーが笑う。

「限定サンドウィッチはもうないでしょうけど、C定食くらいはありますよ、きっと。ほら、行きましょう」

「うん、その、ありがとう」

 立ち上がり際にそう言うと、彼は驚いたように目を見張ってから、どういたしまして、と歯を見せた。気のいい部下で、優しい年上のお兄さん。まさか、自分の存在を丸ごと否定するかのような──<心>を飲むことの無意味さや害悪をも、この研究論文に盛り込んでいるとは思ってもいないだろう。じくりと胸が痛む気持ちはあった。でも、ベネにはその傷すら包み込むラナがいた。

 廊下に出てしまえば、外よりマシといえども多少の寒さが肌を刺す。もう横一列に並んだ工場員たちが、自分たちが来た道を行っていた──確かに大分出遅れている。二人で肩をそびやかし、食堂へ急ぐ……ところで。「んん?」と声を上げ立ち止まったのは部下の方だった。

「どうしたの」

 勢いで数歩先に行っていた足を、彼の隣まで戻す。ロニーは一瞬ベネに視線を寄こしたかと思えば、すぐにまた元に……いや、ベネの方へ、ぐるんと首ごと向けた。ベネが驚きでのけぞっているというのに、逃がさんとばかりに肩を掴む。

「ベネさん! もしかして、あれ!」

「え、ええ? 掲示板が何だい……」

 空いた片手でまっすぐと掲示板──その左上だろうか、を示している指の先に目をやる。その上方にでかでかとあったタイトルで、すぐにベネの興味は失せた。何せ、自らの研究とその理念に反するカウントダウンのようなものであったから。

「昇進試験についてか……なに、どうせ簡単なテストと面談だけって話さ」

「あ、ベネさんはこのために何か……文章? を書いているんじゃないんですか?」

「……あぁ、あれは個人的な論文さ。他の皆には申し訳ないけど、受験資格を得ただけで、受かったも当然と思ってるから」

「そうなのか……てっきり、この特例? 昇進を目指しているのかなって」

「特例?」

「ほら、あそこらへんに」と言われて、次は下方に目をやってみる。ふむ確かに、<特例昇進について>なる見出しがあった。

「目新しい学術的意義を備えた<心>研究論文を提出することによって、筆記および面談をはじめとした全ての試験を免除する……」

 ロニーがそう読み上げた直後は、ベネもふうん、とやる気のない相槌を打っているだけだった。何だい、どうせ受かる試験に何を勿体ぶっているんだ。それとも、そこまで試験類を避けたい奴がいるっていうのか、先が思いやられる。

 しかし「さっさと行こう、」と足を踏み出したのと、ぴかり、脳に電流が走ったのは同時だった。

「そうですね、定食すらなくなっちま」

「ロニー。君、なんて?」

「え? 人気のないC定食もなくなるって」

「違う、その前だ」

 次はベネがロニーの肩を掴み、我先にと掲示板に目を向ける番だった。特例昇進について、資格、条件……ここだ!

「なんだい、全ての試験って」

「え? それはだから……全部、ってことでしょ」

「違う。そもそも筆記と面談以外に、試験なんてないはずなんだ」

「ん? あぁ、確かに……」

「他に昇進試験でやることと言えば、」

 容易なテスト、分かり切った面談、その先に待ち受けるのは、あまりにも手に入れ甲斐のない祝福。

「<心>を飲むことだ」

 「あ~、その日のうちに飲んじゃうとか言ってましたね~」とロニーが呑気な声を上げている間にも、ベネの心臓を運命がノックしていた。頭がスーッと冴えて、けれど頬はずっと熱い。あまりにも、その想像は出来すぎだと分かっていた、けれど。

「ロニー! 早く飯を食いに行こう、」

「え、あ、はい!?」

 先ほどは待ってくれていたはずの彼を、次は自分が引っ張った。彼の手首を振り回しながら、ベネの頭の中のモーターは異常な速度で回り続ける。昇進、免除、論文……愛。希望が、目の奥でぴかぴかとちらついている。さぁ、それを具現化するためにはまず腹ごしらえだ。「奢るよロニー、唐揚げも食べるといい」「ええ、助かった。今節約中なんですよ」と馬鹿な話をしながら、ベネは一層食堂へと急いだのだった。


「……特例昇進」

「ええ」

 脳筋の上司にしては、珍しく顔色が悪かった。彼の目の前では、既に勤勉な従業員たちが規則正しく窯を混ぜているというのに。だが話しかけてしまったものは仕方がない。後ろでは早くランチを詰め込んだあまりに、こちらも顔面蒼白のロニーを従えて、ベネは上司と相対していた。ついていくと聞かないものだから、また仕方ない。

「受けたいっていうのか? お前みたいな天才坊ちゃんなら、資格があるだけで受かったも同然だろう」

 こいつと同じことを思うとは、不覚。しかし屈するわけにはいかない。服のズボンをぎゅっと握りしめながら、「その前に、お聞きしたいことが」と口を開いた。

「試験の免除があるとのことですが」

「筆記、面談、<心>を飲む儀式の免除だ」

 え、とベネは目を見開いた。しかし彼は緩く首を振り帽子を被りなおして、「他に聞きたいことでもあるのか? 絶対に受かる論文なんざ、俺が聞きたいくらいだな」とだけ言った。

「い、いえ、ありません。あとは、要綱を読みますから」

「そうしろ、俺は忙しいんだ」

 吐き捨てて、上司はさっさと窯の方へと去って行ってしまった。未だグツグツと音を立てて煮えている窯、その湯気の向こうに、彼は儚く溶け込んでいった。

「ベネさん、そんなこと確認したかったんですか、うぷ、」

「ああ」

「<心>、飲みたくないんですか?」

「……」

 ベネは心優しい部下を振り返った。茶色の大きな目は、心底不思議そうにベネを見つめている。嗚呼ロニー、君にはわからないのか。それとも、一度<心>を宿したら、もう。ベネは背筋が震えるようだった。

「あ、もう昼休憩が……」

「そうだね、さ、午後も忙しいんだ」

 当番の鳴らした終了のチャイムに包まれながら、ベネはデスクに行きすがら部下の肩を叩いた。それを何と勘違いしたのか、「じゃあ僕五番窯の様子を見てきますよ、来月、新婚さんに渡す分ですから失敗できないや、」と重い木靴を鳴らしながら走っていった。 

 それを見送りながら、やっとベネには実感が伴ってきた。<心>を飲まなくていい。<心>を飲まずに、例の論文を完成させれば、きっと。──僕は、彼らのように、本物でいられる。<偽物>に成り下がらなくていいんだ!

 ベネの心は逸って、きっと足にまで伝播した。いや、ロニーに影響されたのかもしれない。午後の仕事は山ほどあると言い出したのは自分だというのに、デスクに着いた瞬間、また先達の本を開いてしまうと分かっていた。その勢いは恐ろしく、「やあ、特例、あの人もう一回行ったのかい」「期限までは何度でも挑戦できるからね、まあでも、そんなに特例で受かりたいかね、あの頑固上司」「なに、ご自分が特別なんだって証明したいんだろうさ」などという工場員の噂話を、間一髪、聞き逃さないですんだほどだった。



 ベネは何も夢を見て夢を食う青年ではない。ロニーの態度からも、自分は異端であるということは嫌というほど分かっていた。だからこそ流石に今日は、彼女のアパートへの帰途の足取りは重かった。<心>を飲まなくていい、人間の可能性を信じる研究論文を完成させたい。けれど、自分が<心>を飲まないとは決して言っていない。ラナだって現代の人間なのだ。どうしよう──ラナに背を向けられたら。そんな馬鹿げたことを抜かすなと罵倒され、別れを告げられたら。ラナ、ラナ。それでも彼女を求める心は、自然と玄関までベネを運んでいた。

「お帰りなさい!」

 わざわざチャイムなんて鳴らさなくていいのに。そう言って迎えてくれた彼女の鼻の頭には、赤い何かがついていた。とんとん、と自分の鼻を指して示してやったのに、「ええ?」と見当違いのところを触っている。

「ここだよ」

「あら本当だわ、ありがとう」

 彼女が笑うと空気も柔くほどける。でも「ラザニアのソースよ、味見にどうぞ」「じゃあ喜んで」「きゃーっ! 駄目よ、汚いわ」と、慌てふためく顔だって愛らしい。居室に入るまで、ずっとベネが舐めやしないか見張っている顔だって、ベネには愛しくて仕方がなかった。

「……ラナ」

「なあに? ちゃんとティッシュで拭いてくれるまで、ラザニアも、お手製のポテトサラダも抜きよ」

 眦をわざとらしく吊り上げながら、そう気遣ってくれるラナに隠し事をするわけにはいかない。きっと、料理がすっかり冷めてしまう前に言わなければ。そう思って、ベネは彼女の両手を握りしめた。

「やだ、どうしたの」

 少しだけ低い位置にあるラナの両目が、白熱灯を受けて激しく輝いた。まだ、見つめていられる。「ラナ、」と名前を呟くと、彼女は額に張り付いた髪をどけてくれた。

「ベネ? 顔色が悪いわ」

「ラナ、特例昇進って知ってるかい」

「? ああ、工場の? 掲示板で見たわ。それが何か?」

「特例昇進を受けようと思う」

「あらそうなの、わざわざ」

「それでね、僕は……」

 いけない、彼女の手まで汗で濡れてしまう。けれど離したくはないから、乾ききった口を動かすしかない。背の低いテーブルに、並べられた二人分のカトラリー。壁に飾られた思い出の写真、清潔な白いシーツに、畳まれた洗濯物。全てがベネを引き留めようとして、失敗に終わった。

「昇進のための、<心>は飲まない」

 ラナの瞳は、丸いままだった。綺麗だけれど何を考えているかわからない。こういう時に、研究者っていうのは役に立たない──「手がけている論文から考えれば飲まない方が説得力が上がる」とか、「特例で受かった方が箔がつく」とか、理屈ばかりをこねまわしてしまう。でもそんなものは、くすり、と悪戯っぽく笑う彼女の前では全て、無に帰してしまうのだ。

「いいんじゃない?」

「え」

「ロマンは眺めるより追い求めたほうが楽しいわ」

 そう言うとラナはにっこりと歯を見せた。「何かもっと大問題かと思ったわ」なんて、寧ろ彼女が安心したかのように、ひとに抱き着いてくるのだ。

「そんな貴方も好きよ、私は」

「……ラナ」

 編み込まれた黒髪を崩すとはわかりながらも、かき抱かずにはいられなかった。ラナ、と口の中だけで彼女を呼ぶ。「僕も、君の笑顔が大好きだ」とだけはやっとの思いで捻りだすと、「ありがとう、ママ似なの」と無邪気に返ってきて。胸の内も一層、暖かくなった。

 さ、ご飯にしましょうと抜け出してくれて良かった、ベネの視界は滲んで、頬だってすっかり濡れ切っていたから。それでもラナから目を離したくなかったけれど、彼女がキッチンへと急いで行く背中──翻ったエプロンの鮮やかな青が目にまぶしくて、ベネは思わず視線を逸らしてしまったのだった。


***


 今年の春は随分と足が遅いようだ。もう年も明けて一か月は経つというのに、外はまだ何度も雪が降るし、頬を刺す風は寧ろ鋭さを増したのではなかろうか。だが、ベネにとっては猶予が出来たといっても過言ではない──それは嬉しくて、同時に焦燥を孕んでいたけれど。

 結婚しよう、と提案したのはベネだった。その時、ちょうど彼女は朝食のオムレツをひっくり返していて、ぺしょん、と情けなくフライパンに落ちた。もちろん形は崩れていた。

『プロポーズにしては急ね!』

『ごめんよ、でもずっと考えてた』

 君しかいない。孤独であった僕を包み込み、真の愛で空白の胸を満たしてくれるのは、君しかいない。君が、僕を<本物>にするのだ。

『論文の提出を終える頃には、もう春だ。暖かくなったら、籍を入れて、式も挙げよう。それまで待っていてくれるかい?』

 彼女の顔を覗き込むようにお伺いを立てる。恐れ多くて触れることなど出来ない、ただ小心者のように神託を待つだけ。彼女が、その口角を上げてから、やっとベネも笑みを浮かべることが出来るのだ。

『パパに言うわ。貴方の娘は随分早く攫われてしまうって』

『そうだな、悪漢でないし、身代金なんて寧ろ払いたいぐらいだって伝えておかなくちゃ』

 顔を見合わせて、二人きり、声を上げて笑った。

 彼女の両親は予想通り、早すぎる娘の送り出しに驚きこそしたものの、優しく微笑んで頭を下げてくれた。ベネの両親だってそうだ、大らかな母親はすぐにでも結婚式の場所と日程を聞きたがったし、冷静な父親はそれを嗜めながら祝福してくれた。まさに理想通りの両家だ。ベネの頭の片隅に引っかかった違和感は、今日ぐらい息をひそめてほしかったけれど。

『ごめんよ、ラナ。娘が出来るってきっと有頂天なんだ、母さんは』

『気にしないで、すごく嬉しいわ。大切な貴方の家族になれること』

 ラナはそう言って、共に帰途を行くベネの肩に寄り掛かった。

『お父様、お母様に恥じない、最高の家庭にするわ。約束する』

 甘く、それでいて芯のある彼女の声。思わず細い肩を抱いた途端、幸福が形となって迫り来ているのだとベネは噛み締めた。それは余りにも巨大で、ひょっとするとベネを押しつぶしてしまうほどに、偉大だった。



 結婚という啖呵を切ったまでは良かったが、研究の方は、あの特例昇進の話をした辺りから芳しくはなかった。机上論だけでは研究論文は成り立たない。客観性と共通性が必要となる──それが例え、少なくとも現代においては前代未聞の<心>を頼らない人格・思想変容でもだ。実験は必ずしなければならない。だが、ベネが当初から危惧していた通り、妙ちきりんで得体のしれない実験に手を貸すものなど早々いない。天才の考えていることは分からないと鼻で笑われ、その割にはわざわざ非効率を追い求めるなど人間社会の発展を希求するはずの研究者として愚鈍であるのではないかと陰口を叩かれる。集団的動物の本能の露呈を目の前に、ベネは紙束を握りしめていた。きっと部下──ロニーがいなければ、勢い余って破り捨てていたかもしれない。

『僕が他の部署にも声をかけてみますよ、なーに任せてください、いざとなれば友達もいますから!』

 彼は、あの日<心>を飲みたくないのかと問うてから、積極的に研究を見せてほしいとせがむようになった。『尊敬するベネさんの考えていること、理解したいですから』と言って、必死に論文を読んでくれるロニーのことを、ベネは心底信頼できるようになった。そして、己を恥じた。彼の助けを借りることが、その償いにも繋がるだろう。

『ありがとう、お願いするよ』

『ええ、ベネさんは実験準備に集中してください』

 なんとなしに差し出した手を、彼は易々と認めて握ってくれた。命の脈打つ、暖かな手であった。

 それに似合うような人望があったことには、改めて驚いた。ロニーは本当に工場中に声をかけ、時には街に繰り出して、人間をかき集めてきた。まだ<心>を飲んでいない子供、結婚の<心>を飲んだ者、もっと多くの<心>を飲み干してきた者──『いっそ僕を使ってください』『いや、成人の<心>だけを飲んだ者はきっとたくさんいる。それに、君は僕に甘いからね。都合のいいことを言ってくれそうだ』──彼の眉が情けなく下がる。でもベネにとって頼りがいがある部下、いや兄貴分なことは間違いなかった。それなのに、振り上げた拳が力なく空を切るように、研究は遅々として進まなかった。

 『ラナ、』と名前を何度も呟きながら、細身の彼女を抱きしめて眠る日も少なくなかった。そうして引き留めていないと、研究どころか彼女すらいなくなってしまうのではないか──そんな馬鹿げた焦燥感をも、ベネを苛んでいたのだった。



「よし、長期被験者の具合はどうだい?」

「問題ないです。こちらが指定したルーティンをこなしていることも、口頭ですが確認しました」

「大丈夫だよ、難しいことではないし、一応日々の報告書は貰っていたからね」

「はい、」

 ベネは強張ったロニーの肩を叩いた。制服のジャケットではなく、研究用の白衣を仰々しく着た彼は、いつもより角張りに見える上に、顔色だって悪く見える。だが、きっとベネと同じくらい真剣に、今回の実験について考えてくれていることは分かった。何せ彼も、度重なる失敗をベネと共に目の当たりにしていたのだから。

 ドーパミン分泌過剰による精神錯乱、逆に厳しい食事や習慣、思考制限をかけたことによるセロトニン不足の過食傾向に、ノルアドレナリンの欠乏。とかく、短期の実験は困難を極めた。大柄な被験者が暴れてロニーが吹っ飛ばされた時なんて、ベネはいっそ工場中からありったけの<心>を持ってきて、被験者の口に突っ込んでやろうかと思ったぐらいだ。

 やはり、人間はただの葦でしかない。〈心〉に支配されるしか能がない──何度自室の机を叩いたか、分からない。長期に及ぶのは、正直賭けだった。短期の時点で粗悪な結果が出ている以上、良い転回など望めやしない。ベネは研究者として、痛いほど無謀さは分かっていた。

「……ロニー、始めよう」

「……はい!」

 問答に対する理想的解と、各ホルモン分泌量の確認。たったそれだけの動作に、ベネの研究も、そして人生も掛かっていた。ロニーが白衣を翻し、工場の貸し会議室から出ていく。完璧にドアが閉まった途端、ベネは顔を両手で覆った。ベネの思い描く〈幸福〉が、ぐらぐらと音を立て揺れて、不安を煽るようだった。


***


「……あぁ……」

「き、きみ本当かい?」

 ベネは最後の被験者を目の前に、今にも真っ白に燃え尽きてしまいそうだった。きっと彼らが会話をしていなければ、ベネは折角の血液の入った試験管を取り落としていた。

「そうだ、確かにこの設問の答えはCさ。でも何故……以前の被験者に教えてもらったわけじゃないだろうな?」

「まさか! ただ、なんとなく……」

 そう言いかけると、被験者の青年はわかりやすく歯噛みし始めた。手術着に覆われた胸を押さえて、言葉を探すように口をモゴモゴとさせている。その不器用な風体が、ベネの目線を惹きつけてやまなかった。

「なんとなく……きっと、父親になれば、こう考えるべきなのだろうと思ったのです」

 論理的思考において子供の責任感を育てることを重視する。試験の正答はこうだ、だが。知識がないなりに考え、捻り出された、飾り気のないありのままの言葉──本物の答え。ベネはもう、椅子になど座ってられなかった。

「ロニー! すぐにこの血液を調べてくれ」

「! はい!」

 ロニーの手に押し付けるように試験管を渡し、機械を弄る背中にじっと集中する。「あの、何が」「しっ、静かに」と貴重な被験者の声すら制止して、ベネは手を組んだ。おお、神よ。貴方は決して息絶えてなどない。科学者としては離反するような祈りさえ捧げながら、ベネは判決を待った。それは、厳かな声で降ってきた。


「オキシトシン……適正量が確認されました」



 ありふれた被験者十人の内、必要ホルモンの適正量を超えたのが一人、適正量とまではいかなかったが問答は理想的であり、可能性を見込めるのが一人。決して多い数字ではない。でも、それでも五分の一。長期間、習慣づけ、反復学習、外部要因による思想人格の規定! ベネは確信した──成功にほど近い、と。あともう少しだけデータを取って、根拠づけとして論文に記載すれば。ベネには見えていた、<本物>たる自分が、目を刺すような激しい光の中で佇み、手招く姿がはっきりと像を結んでいた。

 会議室を飛び出し、興奮のまま自らのデスクに噛り付いていると、時計の短針は既に十を指していた。ロニーは明日も早番であるし早々に帰らせたけれど、ラナは。『待っていてくれるかい、伝えたいことがある』と先ほど電話で頼んだから、まだ健気に待ってくれているはずだ。最近は彼女と会っていても研究の不出来ぶりで頭がいっぱいだった。それでも不安な素振りひとつ見せずに、大丈夫よ、気にしすぎよと優しく背中を撫でてくれた彼女を、随分と待たせてしまった。ラナ、もう心配いらない。

 机の上のものをショベルカーのようにかき集めて、乱雑にバッグの中に滑り込ませる。一人きり残った部屋の電気をパチンと消した。ステンドグラスが月光に照らされる。最も歴史のある宗教のひとつ、その創始者が十字架に貼り付けられている姿がぼんやりとした色味を持って浮き上がっている。その胸からは鮮やかなオレンジの果汁にも似た血液が吹き出て、脇に跪く天使の聖杯をなみなみと満たしていた。無邪気な顔は微かな笑みを浮かべていた。復活の顛末を知っているとはいえ、命の根源たるものを搔き集め、笑っていた。

 ──この杯を、彼はどうするつもりなのだろう。そしてこの後、創造主の空っぽの胸には、何が詰められるのだろう。

 気づけば思索に耽りがちなのは研究者の悪い癖だ。薄い雲でほんのりと月が陰ったのを合図に、ベネはハッとして、足早に部屋を出た。施錠をしようと振り返りざま、薄く開いた扉の向こうでは、自分が立っていた場所が暗く、まるで口を開けているように見えた。


***


 月はまだ顔を見せない。そのせいだからか、息を飾る白い靄は見えない。もしくは春の訪れを予感させているとでも言うのだろうか──この、めでたい日に。なんたる幸せ! ベネは石畳を踏み鳴らした。大きい石も小さい石も関係なく、ただステップを踏んで、よろこびの歌を奏でた。不格好で音もちぐはぐだけれど、確かにベネの口から零れ出ているのは愛の詩だった。無鉄砲だけれど寛容の精神に溢れ、人々を思わず揺り動かしてしまうかのような、絶対的な力の調べ。ベネは、今この瞬間だけは、この街で誰よりも尊ばれる神であった。元より運動不足の身体の息が上がる。もう音楽など気にしてられない、ただ必死に走って、獣のような荒い息遣いを闇に溶かしていく。彼女の部屋へと通じる、アパートの玄関を二段飛ばしで駆け上がった。はぁ、はぁと膝頭を抑えて、ついでに汗も袖で拭ってやる。まごうことなき人間であった。建付けの悪いドアの隙間から、柔らかな明かりが漏れていた──ラナ!

「ただいま!」

 そう叫んで扉を開け放った、瞬間だった。

 玄関を開けてすぐ、キッチンは右横にある。戸が開け放たれた居室には何がある? 背の低いテーブルに、並べられた二人分のカトラリー。壁に飾られた思い出の写真、清潔な白いシーツに、畳まれた洗濯物。ラナを中心として暖かく編まれた、優しい空間。


 ──では。あの、ぎとぎととベネの視界に張り付く色はなんだ。自然の色味を吸いつくしてしまうかのような、毒々しく、人間をそぎ落とすかのような……目にも鮮やかな、ピンク色は。


「あら、お帰りなさい」

 女神は、その色が満たされたフラスコの横で笑っていた。真っ青なエプロンが、今日も似合っていた。

 ひゅ、と喉が鳴った。心拍の上昇、走った時とは比べ物にならない汗が噴き出て、顔も背中も濡らしていく。落ち着け、落ち着け。彼女だって研究者の端くれなんだ。サンプルを作ったのかも、僕に見てほしいとか。色んな仮説は思いつくのに、足は鉛のように固まって動かない。僕はラナを信じていないのか? いや、違う。誰よりも信じている、彼女の<存在>を。だが今にも、ベネの足は固い木造りの床に両膝をついてしまいそうだった。「どうしたの?」「なんでもないよ」そう返した己の声が掠れていた。確かめなければ、仮説を検証し、立証するまでが研究者の仕事なのだ。言い換えれば、そこまでは何一つ真実じゃない。ベネは足を持ち上げた。一歩ずつ、一歩ずつ、運命がベネの胸を叩く音に合わせて。

「ベネ?」

「……」

 今度こそ、ベネの顔色は蒼白と相成った。ベネの双眼を、眩いショッキング・ピンク──二つのフラスコに入ったそれが、容赦なく刺した。それどころじゃない、脳天を殴って、揺らして、ガンガンと眩暈がする。ふたつ、わざわざ二つに分けられた容器が意味するのは。ベネが回る視界から身を守ろうと片手で顔を覆った途端、追い打ちはやってきてしまった。

「ふふ、驚いた? パパからもお願いしてもらって、最高級のを工場から譲ってもらったのよ!」

 長らく保管庫にあったものらしいの、熟成されているおかげで良い思想になれるって。大きな瞳を伏し目がちにして、ラナが言う。気に入りだと言っていたウッドチェアに腰を下ろして、細い脚を揃えて、うっとりとフラスコを眺める……ラナが、言う。いっそ、この今にも飛び出て床を這いつくばりそうな心臓を混ぜてやりたかった。この言いようのない激情を混ぜて<心>など滅茶苦茶にしてやりたかった。それなのに、震えた声は縋るような響きを持っていた。

「飲むために……貰ってきたのかい」

「? ええそうよ、確かに綺麗だけど、インテリアにするには勿体ないわ」

「君は……飲まないと思っていた」

「え?」

 ラナが心底不思議そうに首を傾げた。ガラス玉のような眼が、惑うベネを映していた。


「だって、皆飲んでいるじゃない。普通のことよ?」


 足元から、化け物に飲み込まれている心地がした。確かに目の前にいるのはラナ、聖母のように優しいラナ、無邪気に笑うラナなのに。もうベネも壊れているのだろうか、何度この両目に彼女の姿を映しても、それはそれは美しい、ただひとりの女神に他ならないのだ。その神々しさから守るかのように、ベネの目に水膜が張った。「どうして、どうして……」と単調な語彙ばかりをひねり出し、怠けようとする口を叱咤した。都合の悪い結果から、目を逸らしてはいけないから。

「僕は、飲まないって言ったはずだ」

「あら、何の話?」

「<心>だ、昇進の<心>は飲まないと、飲まない世界を叶えるために、研究を続けて、今日も……」

 言葉は宙に溶けていった。息が苦しい、かひゅ、かふと呼吸はすれども、酸素を取り込んでいる心地がしない。いよいよ立っているのが危うくなって、テーブルの端に手を突こうとすると、ラナは慌てた様子で滑り込んできた。

「しっかりしてベネ、どうしたっていうの」

「君こそどうしたんだい、研究を、僕を、愛しているのではないのかい」

「やだ、ベネ……」

 今にも膝から崩れ落ちそうなベネを腕に抱え、白魚のような手がベネの後頭部を撫でる。少女のように紅潮した頬には確かに命を感じるのに、今日の指先も、酷く冷えている気がした。


「あなたのロマン好きで、子供みたいなところだって、私は愛しているわよ」


 息が、止まった。柔らかな彼女の身体に埋まって、今にも窒息してしまいそうだ。呼吸が出来ない、安楽椅子にラジオ、書きかけの論文──本!

 ベネは彼女の腕を払いのけた。縺れる足で、玄関へと急いだ。すぐにでもここを離れないと、その一心で玄関のドアを開け放ったつもりだった。

「ベネ! 待ってちょうだい!」

 あぁ、ラナ、それはこちらの台詞なんだ、きっと。諦めの悪い顔が振り向いたその先、彼女の愛らしい顔は青ざめていた。でも、もうここは、僕の──。

 最後まで思い浮かべる前に、ベネはアパートの階段を駆け下りていた。走って、走って、それでも熱情は振りほどけない。底なし沼のようなそれは二又に分かれて、死にかけのベネを焼き尽くそうとしていた。真っ白な月光だけが、淡々と、ベネの行く道を照らしていた。


「あら、今日はラナのところじゃなかった?」

 深夜に駆け込んできた息子に対して、母親は呑気なものだった。「父さんは?」「残業らしいの」「そうなんだ」「貴方はどうしたっていうの」……押し黙って、自分の脇をすり抜けて家に入ってきた息子に対しても、母は笑顔を崩さなかった。

「喧嘩でもしたの?」

「……もっと、酷いことさ」

「あら、聞かせて頂戴」

 水色のストールを肩にかけなおしてから、母が言う。穏やかに、慈愛ある視線を変わらずベネに向けている。……無駄だ。そう冴えた頭は叫んでいるのに、それでも親に縋ってしまうのは、暖かな家庭で生まれ育った功罪なのかもしれなかった。


***


 仮面みたいだ。全てを話し終えても笑顔を浮かべたままの母を見て、ベネは心底嫌悪感が生まれた。子の主張を聞き、最大限尊重するのが共感性を重視する母親の<心>ではないのか? 母はお手製のハーブティーを啜りながら『ベネ、結婚するということはもう子供でいられないのよ』と困ったような声音で言った。

『我儘を言ってラナを困らせてはいけないわ。研究は研究、夢は夢、現実は現実』

『そんな、母さん、』

『ベネ、お願い。私は確かに本を読む可愛い貴方も大好きよ。でも、大切な子を生涯かけて守ると誓う貴方のことは、より一層好きになると思うわ』

 そのまま、何が怖いと言うの、味かしら? ママが飲んだ時はとても甘くて、と。見当違いなことを言い連ねていく母親が他人のようで、耐えられなくて。ベネはガタンと音を立てて椅子から立ち上がり、リビングを飛び出した。こんな乱暴な素振りを母に見せたことはない。『ベネ!』と階段下から呼ばれた気がするけれど、ベネは逃げるように自室へと走りこんだ。父が部屋を設けてくれた時『いつか必要になるかもしれない』と作った掛け金を慌てて弾く。静寂、窓から差し込む星と月の明かり、うず高く机にも椅子にも積まれたままの本、少し埃の積もったラジオ──孤独。全てがベネを歓迎して、そして世界から切り取ってしまった。

 ラナ。

「僕の愛した人」

 わざとらしく過去形で呟いたところで、このじくじくとした胸が治るわけでもない。想いが消えてしまうわけでもない。寧ろ──彼女の輝く残像が、いつまでもベネを苛んでやまない。

 ベネは弾かれたように立ち上がると、適当な本をひっつかんで開いた。英雄、哲学者、科学者、作曲家、作家に医療従事者。名前と功績が、胸を張るかのようにずらずらと並んでいる。そのどれもが”勇猛果敢に戦い抜いた”、”贖罪と自己犠牲を生涯のテーマとした”、”禁忌を犯してでも美とリアリズムを追求した”……”失恋の連続であった”、”生涯未婚を貫いた”、”孤独に苛まれながらも没後にその作品が高く評価された”! そして彼らは、孤高で崇高なる彼らは<心>を飲んじゃいないのだ!

 ベネは椅子から本を跳ね除けた。どさりどさりと重い音をBGMに、安楽椅子に座り込み、目を手の甲で覆った。夢なら覚めてほしかった。いや、<心>を飲まずとも愛と理想を追求できると思った時点で、ベネは幻想に彷徨っていたのだ。本当に<心>を飲まなくても生きていけると思った? ラナに偶像を見ていた? 彼女なら受け止めてくれると信じた? ラナを……都合よく、愛した?

 頬が熱い。今日、初めて決壊した涙腺が、とめどなくベネの顔を濡らしていく。閉じた視界、真っ暗な瞼の裏では、青や赤の小宇宙がぴかぴかと煌めいているよう。まるで、あの子の瞳のように。

 ベネ、と彼女の高い声が頭の中で聞こえる。

 ──ねえ、ベネ。貴方は可能性の一つも、もう考えていないのね。

 そう響いて目を見開くのと、雪崩のような物音に気付いたのは、同時だった。

「なんだ……」

 思わず呟くほどの音だった。隣の部屋か? でも隣は……父さんの、書斎。

 父さん、帰ってきたのか。でも、単純にドアを閉めたにしては、随分と大きな音だ。まるで何かが……倒れるような。ハッとして立ち上がる。父さん! 最近は多忙だという父だ、何が起こってもおかしくない。ベネは急いで部屋を出ると、閉ざされている書斎のドアを叩いた。

「父さん! 大丈夫かい? 何かあったんじゃ、」

 あ、と声を上げた。扉からは、青白い光が漏れていた。開いている。でもここは、父さんの。記憶の中で、まだ自分の頭三つ分は身長のある母が、いけませんよと指を振る。いや、今のベネは代わりに頭を振った。言いつけより、父さんの方が大事だ。

「入るよ!」

 金属製の、いやに冷たいドアノブを掴んで、押し開く。インクと、古い紙と、冷たい冬の匂いが綯交ぜになってベネに押し寄せてくる。いっそ青い月が、暗い部屋を──その真ん中で倒れている父を、煌々と照らしていた。「父さん!」と駆け寄ると、コン!と何かを蹴飛ばした音がした。なんだ? 気にしている場合ではないと分かりつつも、ベネは未だ音を立てるものの方へ目をやった。ガラス瓶だ。それはころころと木の床を滑っていって──止まった──同じようなガラス瓶の、山に当たって。

「えっ……」

 本棚の前に堆く聳り立つそれは、ただのガラスなのにどこか発光しているようだった。月の光が当たっているからか、と好奇心を掻き立てられたベネが近づく前に、強い香りが鼻を刺した。う、と思わず呻く。なんだ、これは。血の匂いか?いや、それにしては酷く重たくて、まるでネジを思う存分弄んだあとのような。──鉄臭い。

 はっ、とベネは息を飲んだ。その勢いのまま、発光の元に手を突っ込む。適当に掴んだガラス瓶の底は光っていて、それは、人工的な緑色をしていた。

 ベネは冷たい床にへたり込んだ。これは──<心>だ。<父性>の心。

 過剰摂取による意識消失だ。そう思い当たって、とりあえず自分の部屋からタオルケットを持ってくるのは正解であったろう。倒れている父を仰向けにしてから、それをかけてやる。父親の顔は今日の月と同じ色だった。元より体格差が違うから、寝室までは運んでやれない。でも、なんとなく、ベネはそれで良かったのだと思った。

 呼吸があることだけは確かめて立ち上がると、紙束が目に入った。父の仕事だろうか、几帳面に引かれた線と数字が、いくつもの住宅を形作っている。ベネには予想がついていた。母、ひいては父がどうしてこの部屋にひとを入れなかったのか。父がどうして、一回飲めばそれで済むはずの<心>を家族に隠れて飲み続けていたのか。全ては単純な線となって、そしてベネに、天涯孤独とも思い込んでいたベネに、一条の光が射し込んだ。

 ベネが伸ばした指の先、他の紙と比べて擦り切れたそれを、引っ張った。ずるりと重々しい音を立てて飛び出してきたそれには、美しい、歴史書でしかお目にかかったことのない──神殿が。三塔型と半円アーチの天井、小さな窓に厚い石壁……はるか昔、古代の建築要素を再解釈して生み出されたという、荘厳なデザインの神殿が、描かれていた。

 父さん。これが、父さんが<父性>の心を飲み続けても、忘れられなかった夢なの。

 ベネは思わず設計図を抱きしめた。今や無用の長物で、何の役にも立たず、家族を養うことも叶わない幻想が、ベネの腕の中で少し砕けた。

 家庭を選んだことで諦めた、夢の分の空白。それは例え倒れるほどに<心>を飲み続けても埋まらない。<心>に、人は支配されない。

「父さん、」

 ベネはもう一度父親を呼んだ。昔よりも少しこけた頬、増えた目尻の皺。……ベネがテレビの俳優を格好いいと言ったばかりに、真似して伸ばし始めた口髭。手に残るペンダコは仕事に精を出してきた証拠。……ベネはやっと、父の正体が分かった気がした。


 夢を忘れるために。いやそれよりも、家族を選ぶために、愛するために! この人は<心>を飲み続けたのだ。


 ベネは膝を抱えた。頭を伏せて、暗闇に揺蕩う。それと同じくらい漆黒で、吸い込まれるほどに美しい髪。夜でも明るく輝く肌。同じ色の歯を見せる快活な笑顔。ベネを、その屈託ない言葉で、いつでも救ってくれた──ラナ。僕の、愛する人。ベネは気づいてしまった。この状況においてもなお、ベネは軋轢に嘆き苦しむだけで、彼女を手放すという選択肢など思いつきもしなかった。

 愛のために<心>を飲むことも、また本物の心が織りなした選択なのだ。偉大な彼らがその心で研究を成したように、ベネも、父も、その心で愛を成すのだ。

 うぅ、と呻いた。身体がカチカチと強張り、氷漬けになったかのようだ。だが、どこに行けば、何を選び取れば溶けるのか、とっくに答えは出ていた。それでも、もう少し冷気にさらされていたくて。ベネは父親の手を取り、握りしめたのだった。


***


自分の手の中で、金粉まじりのショッキング・ピンクは踊っている。

ベネはその日、純白のウェディング・ドレスに身を包んだラナの笑顔の前で、フラスコを傾けた。


遠くで陽に透かされた桜が、まるで蛙の卵のように蠢いていた。


***


 夏、炎天下、三十度。宿題をやるために図書室にでも逃げ込みたかったけれど、僕ら友人三人組は騒ぎすぎて追い出されるのがオチだ。互いの家も空いていないし、仕方なく、近所の公園に集まることにした。木陰なら少しは涼しい。

「歴史めんどくせぇなあ」

「やっちゃん、また写させてとか言わないでよ」

「言わねーよ、最近モモちゃんうるせーし」

「僕パソコン持ってきたから、ちょっとここで調べる?」

 そう言って僕は、最近母さんが買ってくれたノートパソコンをベンチに置いて開いた。アイスを咥えたままの友達が、しゃがんだり背もたれ越しだったりと一斉に画面をのぞき込む。スリープ状態にしていたせいで、ブラウザには個人サイトやら百科事典やらが開きっぱなしだ。特に恥ずかしいものではないけど。

「タツ、もうやってんだ? 偉」

「僕、書くの遅いから」

「へー、誰書くの」

 黒縁眼鏡を指で押し上げたヨシキが聞いてくる。それに僕は「ロニー・ベッカー」と答えた。やっちゃんが目を丸くしたまま、まだ三分の一は残っていたはずのアイスを口に押し込む。その代わりのように、ヨシキが僕を見た。

「外国人? 俺知らないかも」

「本当? ”時代を変えた盗人”だよ」

 僕が画面を指し示すと、やっとアイスを飲み込んだらしいやっちゃんも目をやった。

「盗んだんなら犯罪者じゃん」

「あくまで当時はね。ロニーが盗んだのは心だったんだよ」

「映画の話してる?」

「やっちゃん、歴史でやったろ? 昔は心を作ってたって」

「えぇ、何それ、そんなオカシイこと言ってたっけ?」

「まあ、歴史で見れば凄く短い期間だし、桃木先生もさらっとやっちゃったかもね」

 僕は人差し指を立てた。気分はさながら教師だ、何せ得意なところだったし。

「ロニーが生きていた時代は大人になる時や結婚する時に心を作って飲むのが普通だったんだ」

「なんで?」

「犯罪とか不義理とか悪いことをしないように、薬で抑制しちゃうんだよ」

「洗脳じゃん」

「珍しく正しいこと言うなあ」

 ヨシキの鋭いツッコミに、やっちゃんが目を吊り上げる。いつもの光景だけれど面白くて、思わず続きを話すのを忘れてしまうところだった。

「はは……でもそうだよやっちゃん、洗脳に他ならないって今では批判されてる。で、当時初めてそれを禁止しようって呼びかけたのが、このロニーだったってわけ」

 僕はタッチパッドを触ると、百科事典をスクロールして顔写真を出してやった。キャスケットを被った快活そうな青年が、得意げに口角を上げている。

「彼は二十代のころに心を作る工場に勤めていて、そこから心をいくつも盗んだんだ」

「盗んだ後は?」

「捨てた」

「えっ、全部? 当時の心ってすごく貴重なものだったんだろ?」

「うん。ヨシキの言う通りで、多分日本円だと、全部で数千万とかしたんじゃないかな」

「遊んで暮らせんじゃん!」

 やっちゃんがアイスの棒をぴっと僕に向ける。

「そうだよ。でも彼は作られた心が許せなかったんだろうね。裁判にかけられた時、心を作るなんておかしい、心は人間が元から持ち合わせてるもので、人間は思い一つで大人になれるし結婚もできる、父親にも母親にもなれる、そういう覚悟を決められるって演説したんだよ。えっと、これが原文かなぁ」

 辞典を真ん中の方までめくってやると、強調された文章が出てきた。「ほんとだ」とヨシキが声を上げる。

「当時の常識を覆そうとしたことも、この演説も、あと生涯かけてそれを貫いたのも格好いいんだよ、ロニー・ベッカーは」

「”私は<心>を拒もうとした人間たちを知っている。それでも何かのために、誰かのために、受け入れた人間たちを知っている”……」

「ああ、ロニー以外にも心を作るなんておかしいって考えた人がいたらしいね、ほら、この上司とか」

「ほんとだ、トクレイショーシン?」

「工場の昇進試験だよ、特例で受かれば昇進の時に心を飲まなくても良くて……だってそうだろ? そんなに優秀なら、わざわざ薬品で悪影響が出ちゃったら大変だしさ」

「なるほどねえ」

 お、やっちゃんが飽きてきた。遠い目をし始めた彼に苦笑いをしていると、元々勤勉なヨシキは、まだ辞典を読み進めていたらしい。

「でも上司さんは、その試験は結局受からなかったんだ」

「すごく難しかったらしいし、それに立場上、心を飲まないことに意地になるのもおかしいじゃん?」

「あぁ、心を飲むのが普通だってなってる周りからは、まあ変な奴ってなるよな」

「そうそう。だって当時は心を飲むことで立場に適した人間になれるわけだから、わざわざ知識を得る……本とか。読むことは子供っぽくて、大人になっても沢山読んでると逆に変だなって思われたらしいよ」

「俺、その時に生まれたほうが良かったかも」

「確かにやっちゃんには向いてたかもね」

 なんだよお、マジに言うなって、とやっちゃんが地団駄を踏む。「実際まだ宿題のための本すら読んでないしね」とヨシキが追い打ちをかけると、やっちゃんは慌てたように「じゃあ俺、こいつ調べる!」と画面の下の方に触れた。

「なに? あぁ……駄目だよやっちゃん、この人は資料が少ないらしいんだ」

「えっ、結構でかく載ってんじゃん、いやまあ適当に指したけど」

「運がないねえ」

 やっちゃんがヨシキの二の腕を叩く。「やめなって」と苦笑交じりに宥めながら、僕も改めてやっちゃんが選んだ名前を見た。

「ベネ・ティンベルヘンは、ロニーが何かにつけて出してた名前なんだよ。ロニーの演説の根拠にもなった研究をしていた人らしいんだけど、論文とかは全然残ってない」

「へえ、勿体ないね」

「まあでも、この人は結婚して家族もいたらしいし。心を飲んじゃったあとは、心に反対する論文なんて早々書けなかったんじゃないかなあ」

「あ、本当だ。へー、この人、特例昇進試験に受かるぐらい優秀だったんじゃん」

「うん、その時に提出されたのが、作った心に頼らない人間の思想形成についての論文。ロニーが棺に入れてくれって頼んだ逸話があるんだよ」

「でも結局、そのケンキューシャは女を取ったってことだろ? ダッセーなあ」

「そうも言えるね、で、ロニーが引き継いだって感じかな」

 さて、やっちゃんがアイスの棒をゴミ箱へ投げ入れ損ねた時点で話は終わりだ。本当に彼の宿題のテーマを見つけてやらないと、また放課後に居残りになる……何故か、きちんと出すものは出す僕とヨシキもだ。

「やっちゃん、で、どんな人なら興味あるのさ」

「うん、うん。アイスもう一本食ってから考えるわ」

「え?」

 聞き返した時には、既にやっちゃんの姿は小さくなっていた。「あいつ最悪、捕まえてくる」と頭を搔いていたヨシキも立ち上がり、早々にやっちゃんを追いかけていった。あとに残された僕は、いよいよ笑うしかない。まあ自分だって余裕があるわけじゃないし、早くロニー・ベッカーについてまとめなくちゃな。確か、それこそちょうど関連人物をまとめているところだった。

 背負っていたリュックを降ろして、筆記用具を取り出してから、僕は書きかけのレポートを眺めた。ロニーに演説場所を貸し続けた人間と、上司のことは書けるかな。それでも文字数が足りなさそう。ふう、と溜息をつきながら画面をスクロールして、ただでさえ少ない人物欄、その最後に鎮座する彼の名前に戻った。

 ──ベネ・ティンベルヘン。他の人たちよりも情報が少ないうえに、編集者がヘマをしているのか、その文章の下には随分と空白があった。親切心で修正してやろうとして、手が止まる。

 ──この人のこと調べれば、レポート埋まるかな。

 いくら資料が少ないとはいえ、ロニーの伝記をしらみつぶしにあたったり、恐らくそこに引用されているであろう論文の中身を読めば、人となりくらいは推測で書けるかもしれない。じゃあ、調べたあとに辞典の編集もしてやろう。そう思いついて、僕はとりあえず、鞄の中から町の図書館の貸出カードを発掘することに決めたのだった。

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『化学的要因を伴わない人間の人格・思想形成、その可能性と実用について』 @My_Own_Factory

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