白鳥を目指した者たち

霜月校長

白鳥を目指した者たち

 自分の人生が、誰かが書いた童話であってほしいと思う。


 清く正しく美しく、最後には必ず報われるような、表しかない世界があればいい。


 たとえば、どこまでも続く青空みたいな。


 もしそうなら、きっと私の馬鹿げた夢も、いつか叶う日が来るだろう。


 たちばな千春ちはる。十七歳。

 夢は、プロのミュージシャンになること。

 今はまだ、何者でもない。



         ✙



 「ちーはーるー!」

 「わっ!」


 耳元で叫ばれ、勢いよく顔を上げる。瞼をぱちぱちさせていると、視界の端からスカートが現れた。


 「優希……」

 「あはは。おでこ赤くなってる」


 親友の守山もりやま優希ゆきが、自分の額にちょん、と指を立てていた。その弾みで揺れるポニーテールが、なんだか犬の尻尾に見えた。


 「千春、六限目からずっと寝てた」


 今度は左方から、落ち着いた声がした。視線を送ると、そこにはもう一人の親友、原田はらだ菜摘なつみがいた。せせらぐ湖のような瞳で、こちらを見つめている。片手には文庫本を開いていた。


 「じゃあ私、一時間くらい爆睡してたわけか……」


 私は教室の時計を確認した。今はすでに放課後。外では運動部の掛け声が響いている。背中を反らすと、ぱきぽきと骨が鳴った。ここ最近、バイトが忙しくてまともに寝れていなかった。


 「ごめんね待たせて。そんじゃ、いこっか」

 「うん!」


 私が椅子から立ち上がると、優希が元気よく頷いた。菜摘は無言で本を閉じて、鞄にしまう。私も鞄を持って、ロッカーに置いてあったギターケースを肩に掛けた。


 さあ、待ちに待った部活の時間だ。



         ✙



 「じゃあ、軽く音合わせから」


 ギターをアンプに繋ぎ、メンバーを見やる。真面目な顔でスティックを握る優希と、無表情にベースを構える菜摘。馬鹿みたいに狭い部室を含め、いつもと変わらぬ大好きな光景に、自然と頬が緩む。


 私は弦に指を伸ばし、ギターを先走らせた。するとそれに追走して、優希がドラムを、菜摘がベースを奏でる。


 Ugly Duckling《アグリー・ダックリング》。直訳すると、みにくいアヒルの子。

 それが、私たち三人のバンド名。


 結成したのは、今から二年前。高校に入って間もない頃、同じクラスで仲良くなった二人を、私が誘ったのが始まりだ。自分たちで申請書を書いて軽音部を設立して、貯めたお小遣いとバイト代で楽器を揃えた。

 私は中学生の時から、親戚にもらったアコギがきっかけで、音楽にハマっていた。だけど優希と菜摘に関しては、バンド結成時は全くの初心者だった。それでも、こうして放課後に練習を繰り返すうちに、今となってはそれなりの、いや私としては、かなり上出来の演奏ができるようになっていた。


 「おっけ。イイ感じ」


 私がピッキングを止めると、あとの二人も演奏を止める。そのタイミングで、私は自分の鞄から紙束を取り出す。そんな私の行動に、優希たちの視線が集まる。


 「今度の文化祭でやりたい曲、私の方でまとめてきたんだけど……どうかな?」


 曲名と楽譜が書かれた紙を、遠慮がちに見せる。五月の連休明け、私たち三年には最後となる文化祭が開かれる。そこで私たちは、体育館でライブ演奏をするのだ。


 二人は興味津々に覗き込む。選曲は完全に独断だから、少し緊張する。やがて、そんな心配を破るように、優希が声を上げた。


 「これ、昔流行った曲だよね!お母さんが好きって言ってた!」

 「お、知ってた?」


 ふんふんふふん……と鼻歌を口ずさむ優希に、ひとまずは安堵する。


 「菜摘はどう?」


 続いて横目を動かす。菜摘は、顎に手をあてて楽譜を見つめていた。その顔が妙に険しくて、胸に緊張が蘇った。


 「ここにある曲については、異存はない。ただ、ここにはない曲も欲しい」

 「ここにはない曲……つまり、曲を追加したいってこと?」

 「そう。それもできれば、私たちのオリジナル」


 菜摘の顔が上がる。こちらを真っすぐに捉える瞳は、強い意思を宿していた。


 「オリジナル、か」

 「千春は作曲ができるはず。文化祭用に、一曲書けない?」


 私は答えあぐねた。すると、そんな私の顔色を読んだのか、優希が口を開いた。


 「でも、文化祭もうすぐだよ?新しく作曲する余裕なんて、あるのかな?」

 「だから、今それを確かめてる」


 菜摘が制すように言った。さらに彼女はこちらに向き直ると、今一度訊ねてきた。


 「千春。できる?」


 私は唇を噛む。文化祭までの期間で曲を作ることは、不可能ではない。では、何が私を躊躇わせているのかというと、単純に自信がないのだ。


 私には作曲の才能がない。声とギターに自信はあるが、自分でメロディを生み出すとなると、どうにも上手くいかない。

 もちろん、将来プロを目指している以上、作曲も怠らずやっている。放課後の演奏、歌唱練習に加え、バイトから帰って毎晩、宅録をしている。どうしても眠たくても、その日思いついたメロディだけは、必ず書き留めている。

 それでも、ダメなのだ。自分では傑作が出来たつもりでも、他人からすれば駄作、良くて凡作どまり。高二の時、東京まで受けに行ったオリジナル曲を歌うオーディションでは、審査員から『赤ん坊の夜泣きみたいな曲だね』と言われた。バカな私でも、それが皮肉であることは分かる。ようするに私の曲は、聞くに堪えないのだ。


 「千春、無理しないでね。私は別に、オリ曲にこだわらなくても…」

 「これは、優希のためでもある」


 菜摘が小声で言った。すると優希が「ちょ、菜摘…」と焦りを見せる。が、すぐにハッとして、今度はバツの悪そうな顔を私に向けてきた。


 「なに?優希のためって、どういうこと?」


 直接本人に訊ねると、優希は忙しなく手のひらを振った。


 「あ、あはは。私も、何のことかわかんない」

 「千春。今はそれより、オリ曲が出来るか出来ないか」


 菜摘にぐいっと迫られて、優希の姿が見えなくなる。色んなモヤモヤが胸に立ち込めていたけど、私は一旦、それらを全て置いておくことに決めた。


 「……わかったよ。何とかして、作ってみる」



         ✙

 

 

 じゃかん、と弦を弾く。自室に広がる音色は憂いを帯びていて、疲れ切った私の心を歌い出してくれるようだった。


 「くっそぉ~、難産だあぁ……」


 私はパソコンの前で大げさに溜息を吐いた。菜摘に頼まれ、オリ曲を作ることになって数日。作業は一向に進んでいなかった。

 ギターを投げ出し、床に倒れ込む。静寂が訪れた室内には、時計の秒針の音だけが響いていた。ちらりと確認すると、すでに零時。成果はなくとも、時間はきっちり経っていた。そう思うと、処理し切れない焦燥感に襲われた。


 「ちょっと入るよー」


 ガチャッ、と急にドアが開く。倒れたまま見上げると、大学生の姉がパジャマ姿で立っていた。


 「ノックくらいしてよ」

 「入るよー、って言ったけど?」

 「返事してない」

 「んなもん待つか。予告したら突撃でしょ」


 姉が眉尻を下げた。なにその宣戦布告みたいなルール。


 「私、眠いんだけど」

 「ふぅん?またギター弾いてたのに?」

 「……っ」


 私は言葉に詰まる。姉は、床に置かれたギターや、他に散乱した楽譜や音楽雑誌を見て、はあ、と溜息を吐いた。


 「お母さんから聞いたけど。千春、マジで進路どうすんの」


 渋々起き上がった私に、姉が真面目に訊ねた。……やっぱりその話か。


 「東京いく。んで、適当に働きながら、プロ目指す」

 「なんて雑な将来設計……アンタ、ほんとにそれでいいの?」


 引き気味の姉に、私は真剣な顔で頷く。


 「誰に何と言われようと、私は絶対、私の夢を叶える」

 「アンタねえ…」

 「お姉ちゃんやお母さんが、心配してることは分かってる。でも、私はどうしても、音楽で食べていきたい。自分の音楽を世間に響かせたい。それができない人生なんて、考えられない」


 多分、今の私は、誰よりも不格好だ。自分の欲望を叫び散らすだけの子どもだ。それこそ、赤ん坊の夜泣きと何も変わらない。不満を外側にぶつけていれば、いつか世界が変わると信じている愚か者だ。


 でも、それの何がいけないのか。自分の願望を叶えたり、不満を取り除こうとすることの、何が非難されうるのか。世界を変えようとするのは間違っているのか。

 私はそうは思わない。むしろ願望を押し殺して、仕方なく不満を受け入れて、望まない世界で生きていく方が間違っていると思う。やりたいこともできない人生に、意味などないと思う。


 「……はぁ。ほんとにこの馬鹿は」


 姉はほとほとと手を振り、少しの間考え込んだ。


 「音楽がしたいなら、別にフリーターになる必要なくない?大学に入るなり、定職に就くなりして、空いた時間に練習すればいいじゃない。そもそも、アンタ東京の家賃わかってんの?あんな大都会で、バイトだけで生計立てて、自分一人で生きていける?相当きついと思うよ、私は」

 「でも、うち、金銭的に大学は無理じゃん。私成績も悪いから、お姉ちゃんみたいに奨学金も取れないし」


 蒸発した父に代わって、お母さんが日夜働き詰めなことは分かってる。


 「だったら地元で、ちゃんとしたとこに就職なさい。十八でフリーターとか、まじ有り得ないから」


 そう言って立ち上がると、姉は私の肩に手を置いた。


 「……私は別に、千春の夢を否定しない。夢も目標もない人がほとんどの中、まっすぐに進む姿勢は、立派だとも思う。でもね、本当に自分のやりたいことのためには、やりたくないこともやらなきゃ」


 ドスッ、と胸に何かが突き刺さった。息が詰まって、呼吸がままならなくなる。

 黙り込んだ私を残して、姉は部屋から出ていった。答えを探すように視線を這わせていると、床に置いたギターと目が合った。冷たく張られた弦が、何事か問いかけてくる。


 私は、現実から逃げているだけなのか。夢を追いかけているんじゃなくて。

 

 

             ✙



 「ちーはーる?」

 「えっ」


 後ろから掛かった声に、びくっと肩を強張らせる。慌てて振り向くと、ドラムの前に座る優希が小首を傾げていた。ベースを構えた菜摘も、奥の窓辺から視線を送っていた。


 「練習、しないの?」

 「――あ。う、うん。始めよう」


 手元のアコギに視線を落とす。私としたことが、練習中にボーっとしてたみたいだ。


 「なんか、最近疲れてる?前にも教室で、こんなやり取りしたよね」


 優希が心配そうに言った。放課後に寝ていて、起こされたことを思い出す。


 「ごめん、少し寝不足。でも、もう大丈夫」


 私は笑みを作り、演奏に取り掛かろうとする。が、それを菜摘が阻んだ。


 「千春。そういえば、作曲の方は順調?」

 「えーと……そっちは、大丈夫じゃないかも」


 一瞬迷ったが、正直に答えた。文化祭まで残り一週間と少し。なのに作曲は、ちっとも進んでいなかった。


 「やっぱりさ、無理して作らなくても…」

 「最後なのに、ただのコピバンで終わっていいの?」


 菜摘が口を挟む。まあ、せっかく最後の文化祭だし、オリ曲を披露するくらいの気合は入れたい。でも、その気持ちに進度が追いついてないのが現状だ。このままのペースだと、仮に完成しても練習ができない。それで半端な演奏をすることは、私のプライドが許さなかった。


 「千春が良ければ、一度みんなで話し合う?その方が、曲のアイディアもまとまるかも」

 「あ、たしかに。ことわざでもあるよね。三人寄れば…ええと、もんじゃの知恵?」

 「優希、それを言うなら文殊な。もんじゃは東京の食べ物」


 オーディションで東京に行った時、帰りがけに食べたな。くたびれていたせいか、妙に美味しかった記憶がある。


 「千春。どうする?」


 じっ、と菜摘が見つめてくる。


 「うん……じゃあ、お言葉に甘えて、二人にも手伝ってもらおうかな」


 このまま一人で悩んでいても、どん詰まるのがオチだ。だったら、仲間の手を借りる。信頼できる、仲間の手を。


 「なら、今日の練習は切り上げて、ファミレスいかない?」

 「うん、そうしよう。もんじゃ焼きの話して、お腹空いたし」


 今にも鳴りそうなお腹をさする私に、あはは、と優希が笑った。




 ファミレスに着くなり、ドリンクバーとポテトだけ注文して、私たちは会議を始めた。


 「なんだかんだ、三人で曲作りって初めてだよね」


 私と菜摘の向かい側に座る優希が、感慨深げに言った。


 「今までは、私一人でコソコソ作ってたからね」


 軽く自虐してコーラを飲む私に、菜摘が口を開いた。


 「千春は、本気でプロを目指してるんでしょ」

 「ん?まあ、そうだけど」

 「なら、自分の努力に誇りを持つべき」

 「はは…たしかにね」


 軽く頬を掻く。自分のやっていることが努力と呼べるのか、正直自信がなかった。私は好きなことに夢中になっているだけで、嫌なことや辛いことから逃げているだけじゃないか。そんな考えが、ここ最近頭に浮かんで離れなかった。


 「……なんかさ、分かんなくなってきたんだよね」


 残りわずかになったコーラを見て、私は呟いた。その声は小さく、他の客の会話にかき消されてないか不安になった。だけど優希たちの表情で、ちゃんと届いたことが分かった。


 「それは、どういう意味?」

 「んーと、なんていうか……今の自分の生き方は、本当に正しいのかな、って」


 中学生で音楽に目覚めてから、今日までそれだけに打ち込んできた。逆に言えば、それ以外のことは何もやってこなかった。結果として、私は世の中の大多数から外れた人間になった。ちょうど、群れから追い出されたアヒルの子のように。


 そのうえ、外れた先の道でも、何も結果を残せていない。オーディションに落ちまくるどころか、文化祭で演奏する曲一つ満足に作れないのだ。こんな私が、『上京してプロになる』なんて言い出すのだから、家族も心配して当然だろう。にも関わらず、誰も理解してくれない、なんて言って拗ねて……私は一体、何をやってるんだろう。なんて無様で、醜いんだろう。


 私は赤裸々に、そんな悩みを打ち明けた。優希は同情するように、菜摘は無表情で、ただ、私の弱音に耳を傾けてくれた。


 「夢を追うって、孤独だよね」


 優希が、空になったコップを見て言った。頼んだポテトは誰も食べず、しなしなになっていた。


 「ぶっちゃけね。でもだからこそ、二人には感謝してる。こうして話を聞いてくれるのも、これまで一緒にバンドやってきたのも……優希と菜摘には、いつも支えられてきた」

 「あはは……菜摘はともかく、私は……」


 優希は照れ臭そうに笑って、ふっ、と目を伏せた。その時の表情が一瞬、寂しげなものに映った。私はそれが気になって、優希?と呼ぼうとした。でも、それより早く菜摘が口を開いた。


 「みにくいアヒルの子は、最後には、美しい白鳥になった」

 「……菜摘」 


 私は隣を見た。菜摘は、ティーカップに入った紅茶をゆっくりと啜っていた。


 「卵から孵ったアヒルの子は、同じ母鳥から産まれた兄弟とは、明らかに外見が違っていた。それが周囲には醜く映り、アヒルの子はいじめられた。だけど実は、アヒルの子が孵った卵は、アヒルのものではなく、白鳥の卵だった。だからアヒルの子は、成長して立派な白鳥になり、白鳥の群れに迎え入れられた。これが童話、『みにくいアヒルの子』の結末」


 私たちのバンド名、Ugly Duckling。その名付け親たる菜摘の語りに、私も優希も視線を奪われていた。


 「この話は、分かりやすいサクセスストーリーとして広まっている。今がどれだけ苦しくても、いつかは救われる。醜いアヒルの子でも、美しい白鳥になれる。……そんな薄っぺらい希望が、世間ではバラ撒かれている」


 菜摘の表情は冷たい。なのにその語り口は熱を帯びていた。そんな菜摘の姿に、私は驚きを隠せなかった。


 「……じゃあ、アヒルの子は運が良かっただけで、みんながみんな、童話みたいに報われはしないってこと?」


 不満と悲しみが混じった顔で、優希が呟いた。


 「そういう解釈もある。でもそれは、私が言いたいことじゃない」


 目を閉じた菜摘が息を吸う。そうして、困惑気味の私たちに言い放った。



 「白鳥になる前のアヒルは、本当に醜かったと思う?」



         ✙



 その後、私たちは本題の作曲について話し合った。結果、三人で作業を分けることになり、メロディは私が、作詞は菜摘が、曲のチェックは優希が担当になった。やることが減った分、気だけは楽になって、ゴールデンウィークの五日間はひたすらパソコンと向き合って過ごした。


 そしてついに、文化祭前日。部室に集まった私たちは、優希のチェックが済んだオリ曲の音源を聴いていた。


 「おお……」


 薄らぎ散るメロディに、感嘆の息が出る。最後まで聴き終えた私たちは、互いに顔を見合わせた。徐々にこみ上げてくる嬉しさが、叫びとなって弾ける。


 「「「やったぁー!!!ついに完成だぁー!!!」」」


 きゃああああ、と喜びの悲鳴を上げて、私たちは抱きしめ合う。この数週間、煮詰め続けた苦労がやっと形になった。半端じゃない達成感だ。


 「これも二人のおかげだよ。もう、マジ最高」

 「千春が引っ張ってくれたからだよ。私は大したこと…」

 「あーもう素直に喜べよ!謙遜は損だぞ⁉」


 私が優希の頭をグリグリすると、「あはは……」と苦笑が返ってきた。あれ?いつもはもっと、活きの良い反応が返ってくるんだけどな……


 「千春。ダル絡みしてるとこ悪いけど、演奏はやらないの?」


 菜摘に言われ、ハッと目を覚ます。そうだ。曲が完成して終わりじゃない。明日のステージに向けて練習しないと。ていうか、オリ曲の方は全然練習できてない。ピンチだ。


 「よーし!今夜は学校に泊まり込みだー!」

 「それは校則違反」


 興奮して拳を突きあげる私に、菜摘が冷静にツッコんだ。



 下校時間ギリギリまで練習して、私たちは学校を出た。振り返ると、校舎の窓に段ボールが貼られ、校門前にはアーチが出来ていた。点々と明かりの灯っている教室では、残っている生徒の影が動いている。それを見て、明日は文化祭という実感がやっと湧いてきた。


 「千春。優希。それじゃ」

 「うん!ばいばい!」

 「お疲れ。明日は頑張ろう」


 私と優希は、一足先に別れていく菜摘を見送った。

 今日はバイトがないので、優希と歩いて帰る。こうして二人きりになるのは久々で、夜空が濃くなる帰り道を、他愛もない話で盛り上がった。

 やがて、三叉路に差し掛かった時。優希がそれまでの笑顔を引っ込めて、急に下を向いた。


 「優希?どうしたの?」

 「……ちょっと、千春に伝えたいことがあって」


 親友の改まった態度に、緊張を覚える。なによ、と私が半笑いで訊ねると、重苦しい声が返ってきた。


 「私、この文化祭が終わったら、バンドを抜けようと思ってる」


 優希が制服の袖を握りしめた。私は口を開けて、棒のように突っ立った。やがて、真っ白になった頭の中に、自分の声が響く。


 ……優希が、バンドを抜ける?


 「なんで?」


 気付けば問い詰めていた。心臓が、バクバクとうるさい。


 「私、小学校の先生になりたくて。それで、もう三年だし、さすがに勉強しないと……」


 優希の説明に、ああ、と一人で納得する。


 当たり前のことなのに、なんで気付かなかったんだろう。

 私に夢があるように、優希には優希の、目指したい未来があるんだ。


 「ほんとは、もっと早く伝えたかったんだけど……ごめんね」


 気まずそうに俯く優希。菜摘にはもう話したのだろうか、と思ったが、少し考えたら分かった。菜摘が妙にオリ曲にこだわるのは、優希から脱退する話を聞いたからだ。明日のライブが、三人でやる最後のライブだと知っていたから、あんなに熱くなっていたんだ。


 重たい沈黙が流れる。多分こうなると分かってたから、私には言い辛かったんだろうな。


 私は息を吐き、優希の肩を叩いた。


 「また、詳しく聞かせてよ。今はとりあえず、明日の演奏に集中。そんじゃ、お疲れ!」

 「千春!」


 呼びかけを無視して、私は三叉路の片方に折れていった。走りながら、ぐっと唇を噛み締める。



 こんなふうに、夢を追う者は孤独になっていくんだ。



         ✙



 夜が明けて、文化祭当日。落ち込んだ気分のまま登校した私は、とても祭りを楽しめなかった。優希たちと模擬店を回るのも、途中で体調が悪いと言って抜けた。夕方のステージ発表に向けて、午後から始めた最終練習も、全くもって身が入らなかった。


 そして迎えた、ステージ発表本番。私は舞台袖で、前の組のダンスが終わるのを待っていた。すぐ近くには優希と菜摘がいる。二人とも、私の様子を心配していた。


 「千春……」


 優希に暗がりで呼ばれる。その声が今にも消え入りそうだったので、私は顔を上げた。


 「大丈夫。もう、切り替えたから」


 そう言って笑顔を作る。だけど優希の顔は晴れないままで、菜摘はそんな私たちを静かに見つめていた。


 『これにて、ダンス部の発表を終わります。続きまして、軽音楽部による演奏です』


 実行委員のアナウンスが、私たちの出番を告げる。最後の舞台の幕開けだ。

 私情は捨てろ。観客を沸かせて、優希を送り出すための演奏をすることに集中しろ。それが、Ugly Ducklingのリーダーとしての責務だ。


 ステージに歩み出る。設置されたマイクの前で立ち止まると、体育館に集まった無数の生徒たちと目が合う。途端に汗が流れ、鼓動が早まった。


 「千春」


 ベースを構えた菜摘が、離れた位置から視線を送る。分かってる、と頷き、呼吸を整える。まずは一曲目。ここでの掴みが場を作る。絶対にミスれない。


 『――――っ』

 『きょ、今日はっ、お越し頂きありがとうございます‼』


 私が息を吸い込んだ瞬間。同じタイミングで絶叫が響いた。きいいいん、と耳をつんざくハウリングに、観客が顔をしかめる。

 見ると、優希がドラムから立ち上がって、マイクを握っていた。表情は硬く、手は震えている。ちらりと見える舞台袖で、「おい!マイク返せ!」と実行委員が叫んでいた。


 「優希、あんた何して…」

 『突然ですが、皆さんは、「みにくいアヒルの子」を知っていますか?』


 私の呼びかけより早く、優希が観客に問いかけた。


 「みにくいアヒルの子?」

 「絵本だっけ?子供の頃に読んだ」


 生徒からチラホラと声が上がる。優希の意図が掴めない私は、困惑で立ち尽くした。


 『私は、あの童話の教訓は、頑張る人は報われるっていう、励ましだと思ってます。でも現実には、報われない人が沢山いて、励ましも慰めも、届かないことがあります。私は最近、ようやくそのことに気が付きました』


 優希が菜摘に、意味ありげな視線を送る。多分、似たような話を前にしたからだろう。


 『なんでこんな話をするかと言うと……私の親友が、今、すごく悩んでて。夢が叶うのかどうかや、そもそも、夢を追うこと自体間違ってるんじゃないかって。それで、どんな言葉を掛ければいいのかな、って』


 私の心臓が止まる。こちらを見ずに、まっすぐに観客の方だけ見る優希は、明らかに私のことを喋っていた。


 『沢山考えました。私たちは夢を叶えられないのか。醜いアヒルは、童話のように美しい白鳥にはなれないのか。考えて考えて考え抜いた結果、一つの答えが出ました。それを、今ここで親友に伝えます』


 そう言って、優希が目の前に歩いてくる。観客がざわつき出した。私はギョッとして、向かい合うように立ち止まる優希を見た。



 『……アヒルの子は醜くない。だって、白鳥になろうと足掻いてる姿が、一番美しいんだもん』



 優希の言葉に。私は目を見開いた。

 頭の中で、何かが弾け飛ぶ感覚があった。


 「……そっか」


 私は小さく呟いた。それから、ゆっくりと顔を上げて、つぶらな瞳の親友を見た。


 「愛してるぜ、マイメン」

 「うん!私も千春のこと、大好きだよ!」


 互いに笑顔を交わし合う。観衆は、その内輪ノリに呆れるどころか、口笛を吹いたり、拍手を飛ばしたりしてくれた。


 持ち場に戻るよう優希に言って、横を見た。菜摘が、穏やかな微笑みを浮かべていた。


 『みんな待たせたね!こっからは、全力でブチ上げてくよー‼』


 私の叫びに呼応して、観衆が声を出す。菜摘のベースが唸り出し、イントロが始まる。優希のドラムが地を揺らし、リズムを作る。そして、激しくも繊細な主旋律を、私のギターが奏でる。


 私は声を張り上げ、一曲目を歌った。つづく二曲目と三曲目も、無我夢中で歌った。手を振り乱す観客と、音を届ける私たちとで、会場は一つになっていた。



 楽しくて仕方なかった。今この瞬間が。これまで駆け抜けてきた日々が。



 でも、楽しかった時と同じくらい、苦しかった時もあった。わけもなく涙が出てきたり、不安に押し潰されそうになったり、何もかも捨てて逃げ出したいと思ったこともあった。

 それでも今、私は歌っている。ちっちゃな体育館に大きな熱狂を生んでいる。大切な仲間たちと、最後の演奏を楽しんでいる。今を本気で生きている。




 私は現実から逃げてなんかない。だって、夢を見ることは、現実と向き合うことだから。




 『……ラストは、私たちUgly Ducklingの、オリジナル曲になります』



 息切れしながら、私はマイクを握る。熱狂冷めやらぬ観衆が、期待に満ちたどよめきを起こす。私は後ろを振り返った。優希も菜摘も、笑顔で頷いてくれた。




 『タイトルは、「白鳥を目指した者たち」』



                                

           〈了〉

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