絵画にみせられて

野良影あさぎ

絵画にみせられて

 ころころ、こつん。

 蹴った瞬間に「あ、ミスった」と直感したボールは軽快な音を立ててあらぬ方向へ転がっていき、公園にひとつしかないベンチに座っていた女の人のつま先に当たって止まった。


「すみません」


 僕が慌てて声を上げるのと同時に女の人は両手でボールを拾う。そのままひょいと僕の方へ投げて、ボールはゆるく弧を描いて僕の前にやって来た。


「ありがとうございます」


 ボールを受け取りながら言うと女の人はひらひらと手を振った。ジーパンに黒いTシャツを着た彼女は、そうしてまた手足をだらんと伸ばして溶けるようにベンチにもたれた。その右手にはスマホが握られている。

 西に傾いた太陽の光で、公園は薄くオレンジ色に染まり始めていた。

 この季節は昼は暑いくらいだが太陽が沈み始めると気温はぐんと低くなる。半袖から出た腕を撫でた風が、徐々に気温が下がり始めているのを知らせていた。

 公園にある柱時計の針は四時を指しているが、あの時計は壊れていてずっと四時を指しているのであてにならない。

 住宅街の中で遊具も何もないこの小さな公園は僕だけの遊び場だったのが、今日はあの人という先客がいた。二年生なので小学校が早く終わりボールだけ持って公園へ走った僕より早く、あの女の人はベンチで溶けていた。

 耳にはイヤホンがはめられていて、スマホを横に持って何か視聴しているようだった。人がいるなんて珍しいな、と思いながら僕は構わずボールを蹴った。いつも一人でリフティングやら、適当に引いた線をゴールとしてシュート練習やらをするのが僕の放課後だった。

 僕は受け取ったボールを見て、女の人を見た。

 ベンチのすぐ横には木が生えていて、青々と茂った葉が落とした影の中に彼女はすっぽりとおさまっている。イヤホンは変わらず耳にはめられていて、目は今は眠るよう閉じられている。さわさわと吹いた風が少しだけ前髪を揺らした。

 ふと、彼女の持つスマホの画面が見えた。一面緑色に染まった背景に忙しなく動く小さな影——それがサッカーの試合の動画なのはすぐにわかった。それと同時に、僕の体は動いていた。


「あの」


 目の前まで行って声をかけると女の人はうっすらと目を開けて、そしてすぐ近くにいる僕を見て驚いたように目を見開いた。

 断られるのは承知で、僕は口を開いた。


「サッカー、一緒にやりませんか」

「……あー……」


 女の人は気まずそうに視線を彷徨わせる。二、三度視線が左右に行き来したところで、ようやく黒い瞳がこちらに向けられた。


「……サッカー苦手だけど、それでもいいならいいよ」

「!はい!ありがとうございます!」


 僕は嬉しくて、はやる気持ちを抑えきれず思わず彼女の手を引こうと手を伸ばした。が、


「おっと」


 パッと両手を上げた彼女に躱されてしまった。


「ごめん、私には触らないようにしてくれる?」

「?は、はい……すみません」


 傷付いたような表情をしていたのだろう、僕の顔を見て彼女は若干慌てたように口を開いた。


「あー違う違う、別にキミのこと汚いと思ってるとかじゃないから、マジで。気にしないで。こっちの事情だから」


 そう言って、スマホをポケットにしまうと彼女は両手を膝においてゆっくり立ち上がった。

 木が落とした影の中から一緒に出ると、女の人の顔がよく見えた。肌はあまり日を浴びていないのか青白く、目元には少し隈ができている。墨汁で染めたような長い黒髪は枝垂れ柳が似合うな、なんてことを思った。

 女の人はイヤホンを外して、スマホを入れたのとは反対側のポケットに無造作に突っ込んだ。


「で、なにすんの」

「あ、えっと、じゃあラリーで」

「はいはい」


 距離をとって直線上に向かい合う。いきますよー、と声をかけると「あーい」と気の抜けた声が返ってきた。

 僕が蹴ったボールは今度はまっすぐ飛んで行った。ホッとしながらボールを視線で追うと、女の人がボールを蹴って──そのままボールは誰もいない方向へ吹っ飛んでいった。


「……ごめん」


 苦々しい顔でそう言うと、彼女はすたすたとボールを拾いに行った。そしてすぐに元の位置まで戻ってくると慎重そうにボールを蹴った。

 少し左に逸れたが今度はちゃんと飛んできたので、僕も失敗しないように気をつけて蹴り返す。少し逸れながらも女の人の方に返っていったボールは彼女の足によって蹴り返される──ことはなく、スカッと音が聞こえそうなくらいに綺麗に空振りした足の下をころころと無慈悲に転がっていった。


「…………」

「…………」


 三秒ほどの沈黙を、顔を両手で覆ってしゃがみ込んだ女の人のしわくちゃな声が破った。


「だから言ったじゃん〜……サッカーマジで苦手なんだよぉ……」

「え、あ、いや大丈夫ですよ!」


 慌てて駆け寄ると彼女は、はあとため息をついて顔を上げた。


「……わかったでしょ、私マジでサッカーできないの。練習相手なんてできないから他あたんなよ。こんな知らないくたびれた大人じゃなくて、友達誘いな」


 そう言いながら居心地悪そうに目を逸らす。

 彼女にとっては何気ない、むしろ至極当然の言葉だったのだろう。だけど、僕はその言葉に何か言おうとしてけれどうまく声が出なくて唇を結んで、それから答えた。


「友達は、いません」


 ほんの少しだけ目を見開いて、彼女の視線がこちらに戻る。


「僕、サッカーチームに入ってるんですけど下手くそで。足引っ張ってばっかりだから、みんな僕を避けるんです。だから、上手くならなきゃって思って、練習してるんです」

「……そうなんだ」

「最近は学校の友達からも無視されるようになっちゃって。放課後、一緒にサッカー練習してって頼もうとしても僕のこと見向きもしないでみんな行っちゃって。……誰も話してくれないから、ダメ元でお姉さんに話しかけたんです。スマホの画面がサッカーの試合の動画だったから、サッカー興味あるのかと思って」


 一度話し始めるとぽろぽろと止まらない僕の話を聞いた彼女は「なるほどねぇ」と言うと、何か考えるようなほんの少しの間をおいて一言尋ねた。


「キミはさ、サッカー好きなの?」

「え?」

「サッカーチーム入ってるってことはサッカー好きなのかなーって思ったんだけど、練習する理由が好きで上達したいからじゃなくて、みんなに避けられないためって話だからさ。どうなの?」


 質問の意図がよくわからなかった。彼女は「あ、私は別にサッカー好きじゃないよ、下手だし。スマホのはたまたま動画が流れてきただけ」と呑気に続ける。

 僕は少しだけ考えて、自分の青い靴に視線を落とした。


「……サッカーは、別に好きじゃないです。サッカーチームも運動した方がいいからってお母さんに入れられただけですし」


 サッカーチームの勧誘プリントを持って、僕にチームに入るよう勧めてきた母の姿が脳裏に浮かぶ。

 あの日、僕がやんわりと首を横に振ろうとしたのを察したあの人が不満そうに眉を寄せるのを見て、僕は慌てて笑顔を取り繕って頷いた。それを見て、そうよねぇ勉強も運動も頑張れて優斗はいい子ね、と母はころりと機嫌良さそうに微笑んだのを覚えている。


「ふうん、じゃあキミは何が好きなの?」


 え、と口から声が溢れた。思わず顔を上げると女の人の真っ黒な瞳と目が合った。じい、とこちらを見つめる黒曜石のような瞳に、呆けた顔をした僕が映っている。


「ねえ、何が好きなの」


 彼女の声が空気を震わす。僕は喉につっかえる声をなんとか絞り出した。


「絵が、好きです……描くのも、見るのも……」


 尻すぼみになってしまった僕の言葉を最後まで聞いて、女の人は隈のできた目を細めた。


「へえ、いいじゃん。私も好きだよ、絵」


 インドアじゃん、マジ私と一緒、なんて言って彼女はのそりと立ち上がる。


「だったらサッカーなんてしてる場合じゃないでしょ。美術館行こう、近くにあるやつ」

「へ?」


 そうして、女の人はさっさとスマホを取り出して素早く画面をタップする。予想外の提案に僕が素っ頓狂な声をあげると、彼女はちらりと視線をこちらにやった。


「あれ、絵が好きって言っても美術館とかは興味ないカンジ?漫画とかアニメとかのほうが好き?」

「い、いや、どっちも好きです」

「ならいいね」


 ほら行こうすぐ行こうモタモタしてたら閉まっちゃうよ〜、なんて言って彼女は公園の外へ歩き出す。

 と、くるりと女の人が振り返った。


「あ、そうだ。ボールは置いていきなよ。それ持って美術館行くのはちょっと良くないからさ」


 僕は返事をして持っていたサッカーボールをベンチの上に置こうとして、けれどほんの一瞬手が動かなかった。なぜかここにサッカーボールを置いていくのがひどく躊躇われて、ボールが手に縫いついたみたいだった。


「おーい」


 女性の気怠げな低い声が飛んできて僕はハッとした。見れば、女の人は公園の入り口にある三つの車止めのうちのひとつに腰かけている。

 待たせてしまっている、と僕は慌ててサッカーボールを置いて女の人を追いかけた。

 公園を出るときふいに振り返ると、夜へと移り変わろうと暗闇に沈んでいく誰もいない公園の中に、僕のサッカーボールだけがぽつんと浮き出ているようだった。柱時計の秒針は相変わらず四時を指していた。

 公園を出るとすぐに、禿げかけた横断歩道が現れる。信号はなく、車が通る気配もない。横断歩道で繋がっている道路の向こう側に立つ電柱が目に入る。

 そこには花が添えられていた。けして多くはない、こぢんまりとしたささやかな程度の白や青の花が、電柱のそばにひっそりと身を寄せ合っている。ゆるく吹いた風で花弁が小さく揺れた。

 青い花弁が一枚、はらりとアスファルトに落ちる。


「おーい」


 また女性の気怠げな低い声が飛んできて僕はハッとした。見れば、彼女は僕の立つ歩道の上を少し行った所からポケットに手を突っ込んでこちらを見ている。

 僕は思わず首を傾げて、横断歩道の方を指差した。


「あの、こっちじゃないんですか?」


 目的地の美術館は僕は行ったことがなかったが、公園そして公園の近くにある僕の家からほど近く、どの道を通ればいいのかはよく知っていた。

 公園から向かうなら僕の家の近くを通るほうが早い。そしてそのルートではこの横断歩道を渡った先の道を通ることになる。そのため、僕はてっきりこの横断歩道を渡るものだと思っていたのだ。

 しかし、女の人は僕の質問に頷いた。


「うん。こっちから行こう」


 もうずいぶん日が沈んでしまっている。あたりはオレンジ色の割合よりざらついた黒色の割合が増えてきた。

 女の人の後ろに見える空ははるか遠くの部分にかすかに夕焼けを残すのみとなって、あと少しですべて紺色に塗りつぶされてしまうだろう。そんな空を背負って、黒い女の人はこちらを見つめていた。


「で、でも」

「いいから」


 強い風が吹いた。揺れる長い黒髪の間から、黒黒としたふたつの瞳がこちらを見つめていた。


「駄目だよ、そっちは」


 優しい声だった。言い聞かせるような声だった。

 僕は女の人を見て、横断歩道の向こうを見て、それから彼女のほうへ歩き出した。

 どこからともなく現れた黒い蝶々がひらひらと目の前を横切って、視界の端に映る花束にとまった。今度は白い花弁が一枚散った。背後で車のエンジン音が遠く聞こえた。




 ほどなくして美術館に着くと、女の人はチケットカウンターに寄らずにそのままゲートへ向かおうとしたので、僕は慌てて声をかけた。


「あの、チケットって」

「ん?ああ、この美術館ってネットでもチケット購入できるんだよ。その場合はQRコードをゲートにかざせばオッケーってわけ」


 女の人はゆらゆらとスマホを揺らして見せる。その画面にはたしかにQRコードが表示されていた。


「そうだったんですか……すみません、何も知らずに止めてしまって」

「別に謝らなくていいよ。なんかキミ気にしいっていうか、大人びてるよね」


 優斗はいい子ね。

 優斗くんはお利口さんだね。

 優斗くんって大人びてるよねぇ。

 母や他の大人たちから耳にタコができるほど聞かされてきた言葉に、息が詰まる。と、女の人はあくびをしながら続けた。


「そんな気遣わなくていいんだよ、少なくとも私の前ではさ」


 その言葉にハッと顔を上げると、彼女はすでにゲートの目の前まで歩いていて、僕は急いで後を追った。

 ゲートを通ると、さまざまな大きさの額縁が真っ白な壁に一定間隔で行儀よく並んでいた。閉館時間が近いためか人はほとんどおらず、上品なシルクのような静寂があたりを包んでいた。埃ひとつない乳白色の床を踏む僕らの足音がよく聞こえた。

 順路に従ってゆっくりと進む。額縁の中には、多種多様な美しい自然が閉じ込められていた。

 朝日が降り注ぐ春の森、深い夏の夜の海、夕焼けに染まる秋の竹林、雪の降り積もった夜明け前。ときに淡く、ときに鮮明に、線と色を自在に使って名も知らぬ作者はその目に映ったものを切り取っていた。

 なんて美しいんだろう。思わず、ほうと息が漏れる。緩やかに引かれた線も、写実的でありながら夢のような色使いも、とても憧れずにはいられなかった。

 こんな風に、僕も美しいものを描いてみたい。純粋にそう思った。今すぐに紙と鉛筆と絵の具が欲しかった。

 そうして順路も終盤にさしかかった頃、一際大きな額縁がひとつ飾られていた。僕は吸い寄せられるようにその絵画の前で足を止めた。

 夜の森の絵だった。

 木々の上に広がる夜空に浮かぶ丸い月は、画用紙に穿たれた青白い穴のようだと思った。星はない。黒い空に異界へと繋がるかのような穴がぽっかりと開いている。中央に描かれた湖は夜空を反射して黒く、ほんの少しだけ歪んだ偽物の月が映っていた。湖の周りに咲き乱れる数多の百合たちは純白の頭を垂れて偽物の月を囲んでいる。

 よく見ると、百合と百合の間に一匹の蛇が這っていた。顔はこちらを向いていて、その小さく無機質な二つの瞳と目が合ったような気がした。

 この一枚が醸し出す静謐で濃密な永い眠りの空気は鋭利に僕を突き刺した。頭がすうと芯まで冷えて、全身の力が抜ける。目の前の霧が晴れたようでもあった。ぼやけていた自分の輪郭がはっきりと形を取り戻す。

 僕がようやく絵の前から動くと、すぐ先に女の人が立っていた。


「もういいの?」


 真っ白な空間の中で黒い女の人は言った。


「はい」


 僕は頷いた。出口はもうすぐだ。




 美術館を出ると時間はすっかり夜だった。すらりとした三日月が僕たちを見下ろしている。


「どうだった?」


 歩道を歩きながら、僕を見て女の人が呑気な声で尋ねてきた。柵を挟んですぐ横を車のライトがいくつも通り過ぎていく。


「すごく……すごく楽しかったです。ありがとうございました」


 僕は噛み締めるようにそう言って右手を女の人の左手へ伸ばした。彼女はそれに遅れて気付いて自分の左手を退けようとしたが、僕の手はすでに彼女の手に触れていた。


 ──否、触れてなどいない。


 透けていた。

 僕の右手の重なった部分は消えて、そこには女の人の左手だけがある。

 驚きはない。僕は小さく眉を下げた笑みを浮かべて手を引っ込めた。


「……いつから気付いてたの?」


 女の人が尋ねる。その表情は変わらず気怠げなようでいて、悲しげな色が見えたような気がした。


「ついさっきですよ。あの、夜の森の絵を見たときに。全部思い出しました」


 学校の友達が僕を無視したのも、美術館に入るのにチケットカウンターを経由する必要がなかったのも、そして女の人が頑なに僕に触れることを避けたのも。

 理由は単純だった。はじめから、僕がそこに存在しないからだ。

 血や死体を描かず、しかしむせかえるような死の空気を纏っていたあの一枚の絵は、僕に己が死者であることを無慈悲に突きつけた。放課後、あの横断歩道を渡ろうとしたとき車に轢かれて死んだことにも気付かないまま、ずっとあの公園に縛り付けられて一人ボールを蹴り続けていたことを。

 放課後の学校から公園で日が暮れるまで一人でサッカーの練習をする。そうして意識が暗転して、また次の日の放課後から僕の日々は始まっていたことが今ならわかる。

 きっと生きてる頃にあの絵を見ていたら、僕は魂の底から湧き上がってくる恐怖ですぐにその場を離れていただろう。


「……死者は生者に触れられない」


 ぽつりと、女の人は口を開いた。


「キミが私に一度でも触れれば、その瞬間キミは否が応でも自分の死を自覚することになる……それは避けたかった」

「僕が地縛霊だから?」


 短い僕の問いに彼女は「難しい言葉知ってるね」と、静かに頷いた。


「なんの心の準備もなく自分が死んでいることを思い出したら、どうなるかわからなかったからね。悪霊化した例はいくつもあるし」

「……お姉さんって何者なんですか?」


 なんで当然のようにそんな話が出てくるんだ。僕の疑問に彼女は「うーん」と頭を掻いた。


「なんて言ったらいいんだろうね。あー、あれだよ。エクソシスト、的な。まあなんかそういう感じのお仕事してる人。今回も依頼を受けてやって来たんだよ」


 適当だなあ、と僕が苦笑を浮かべていると、ふと足の先が軽くなる感覚を覚えた。見れば、足先が透けて下のアスファルトが見えている。それを見ても僕の心は穏やかだった。


「……時間だね。何か言い残すことはある?誰かに伝えたいこととか遠慮なく言いなよ、責任持って伝えておくから」


 真面目な声音で女の人は言う。僕はほんの一瞬考えてから口を開いた。


「それじゃあ……ありがとうございました」


 心を込めて僕は頭を下げる。


「お姉さんはきっと、何も気付かないままあの公園でずっと一人で練習してる僕を黙って祓うこともできたんでしょう。でもそうしなかった。あなたは最後まで僕に寄り添ってくれた。おかげで僕、今とても心穏やかなんです」

「……そう」


 ならよかった、と女の人は小さく微笑んだ。穏やかに細められた黒い目がまっすぐ僕を見つめる。


「それだけ?」

「はい?」

「他にも何か言っておきたいことない?」

「い、いえ、別に……」


 首を振る僕を、彼女は全部見透かすみたいな目で優しく見つめる。


「今言わなきゃ、叫びたい本音も言えなくなっちゃうよ」


 多分、この人は僕が本当に言いたいことをわかっていてこんなことを言っている。心の底に沈めたものを優しく引っ張り出そうとしている。


「そんな、こと……」


 言ってはいけない、と己が言う。言ったところで何も変わらない、意味がない、むしろ彼女を困らせるだけだ、と。

 僕は俯く。もう足の大半が消えているのが見えた。そのとき、頭を撫でてくれているような穏やかな声が降ってきた。


「大丈夫。何言ってもいいよ。抱えた荷物全部おろして、旅立ってほしいから」


 その言葉で、抑えていた何かが消えかけた腹のあたりから湧き上がってきた。それは喉を通ると嗚咽になった。目の奥が溶けそうなくらい熱くなって視界が滲む。


「……もっと」


 ぽろり。涙とともに一言溢れると、もう止められなかった。


「もっと、絵を描けばよかった……好きなこと、いっぱいすればよかった……!」


 本当はサッカーなんてしたくなかった。

 絵を描きたかった。新しいサッカーシューズなんかより少し高い画用紙や絵の具が欲しかった。

 まだ描きたいものがたくさんあるのに。僕の消えかけた両手ではもう筆を握れない。


「もっと早く、気付けばよかったなぁ……」


 お母さんに言えばよかった。怖くても、反対されても、自分のしたいことを伝えればよかった。

 僕は大声をあげて泣いた。通り過ぎていくエンジン音にも負けないくらいの僕の泣き声が聞こえているのは目の前の彼女だけだ。彼女は何も言わずに僕が泣き止むのを待っていた。

 やがて言いたいことも涙も全部出しきって全身も消えかけたころ、僕はようやく泣き止んだ。僕が完全に消えるまであと一分もないと直感する。

 一度大きく深呼吸。目を閉じて、再び開ける。女の人は優しい静かな夜のような目をして僕を見ていた。


「改めて、ありがとうございました。もう未練はありません」

「うん」

「来世はもっと好き勝手に生きます」

「おう、頑張りな」

「あ、でもさっきのことお母さんには言わないでくださいね」

「わかった」

「……あの」

「なに」

「最後に、あなたの名前を知りたいです」


 女の人は意外そうな顔をして、それからくすりと笑った。


「いいよ。私の名前は──」


 そうして僕がこの世で最期に聞いたのは、今まで聞いた中で一番きれいな、月明かりの下で咲く一輪花のような名前だった。

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