白い病室とコリウスのナイフ

鈴来あや

◆EP1 はじめてのセッション


 雨の日に、初めて彼のカルテを開いた。


 大学附属病院・精神科医局の一角。窓の外は灰色で、昼間なのに少し暗い。


 俺は柊真尋、三十二歳の臨床心理士だ。

 この連続殺人事件の司法鑑定の依頼が、正式に回ってきたのは一週間前だった。


 三人の被害者。いずれも成人男性。

 供述録取書には、認める部分と黙秘している部分が、縫い目の悪い布のように交互に並んでいる。


 カルテの表紙に、大きく記された名前。


 御影玲。


「柊くん」


 名前を呼ばれて顔を上げると、医局長の久我原先生が紙コップのコーヒーを持って立っていた。


「一通りは目を通した?」


「はい。ざっとですが」


「どう見える?」


「資料だけだと、『よくいるタイプ』にも見えます」


 世界に向かって衝動をぶつけ、その外側を小さくしようとする若者。

 外来にも、ときどきいる。


「でも、何か違う、と」


「……はい」


 自分でもうまく言葉にできない違和感だった。


「取調べの録音を、少しだけ聞いたよ」


 先生は、カルテの端を指で軽く叩く。


「声はずっと落ち着いていて、暴れもしない。ただ——」


「ただ?」


「じっと、ガラスの向こうを見ている」


 短くそう言う。


「君も、少し覚えがあるだろう?」


 喉の奥が、わずかに鳴った。


「……どういう意味ですか」


「それは、もう少し先でいい」


 先生は、いつもの柔らかい笑みでかわした。


「面談は週二回、一回三十〜四十分を目安に。病棟までは警備がつく。面談室には緊急ボタンもある」


「分かっています」


「もうひとつだけ。自分の話を、あまり差し出しすぎないこと」


 先生の声が、少しだけ低くなる。


「彼は、相手の裂け目を探すのがうまいタイプだ。

 『世界を小さくしたい』と思ったことのある人間の隙を、逃さない」


「……意識します」


「いい初回になるといいね」


 先生は紙コップを持ち上げてみせた。


 俺はボイスレコーダーとカルテをファイルに挟み、席を立つ。

 窓の外の雨は、さっきより少し強くなっていた。


 ***


 病棟の廊下には、消毒液のにおいが薄く残っていた。


 自動ドアを抜け、警備員と一緒に面談室の前まで歩く。

 天井にはカメラ。ドアの横には小さな監視窓。壁の一面には、暗く光るガラス。


 患者側から見れば、ただの黒い鏡。

 こちら側から見れば、中を一方的に覗くための窓。


「何かあったら、すぐ押してくださいね」


 警備員が、ドアの内側の壁にある小さな赤いボタンを指した。


「ありがとうございます」


 そう答えて、深く息を吸う。

 ドアノブに手をかけ、面談室に入った。


 ***


 白い壁。固定されたテーブル。向かい合う二脚の椅子。


 片方の椅子には、すでに御影が座っていた。

 グレーのカーディガンに、紙のように白い肌。指先で袖口の糸をいじりながら、こちらを見ている。


「今日は、よろしくお願いします」


「こちらこそ。柊真尋といいます」


 名乗ると、御影は小さく会釈した。


「御影です。よろしくお願いします」


 よく通る声だった。落ち着いていて、年齢より少し大人びて聞こえる。


「録音させていただきます」


 ボイスレコーダーをテーブルの中央に置き、日付と時間を読み上げる。

 自分の声がわずかに硬いのが、嫌でも分かった。


「まず確認です」


 カルテに目を落とす。


「御影さんは二十三歳。ここには『鑑定入院』という形で来ています。

 そう説明を受けていますか」


「受けてます」


「分からない点があれば、教えてください」


「……便利だなと思って」


「何がですか」


「『鑑定』って名前です」


 御影は、テーブルの木目を指でなぞる。


「『治すため』じゃなくて、『裁くため』の材料集めですよね」


「ここで話したことが、裁判で使われる可能性はあります」


 言葉を選びながら答える。


「同時に、あなた自身を理解するための材料にもなります」


「理解」


 御影は、天井を一瞬見上げた。


「先生は、僕のことを理解したいんですか」


「仕事の範囲では、そうなります」


 自分でも教科書的な返事だと思う。


「じゃあ、その仕事に協力するかどうかは、こっちの自由ですか」


「話したくないことは、そう言って構いません」


「話したくないことばかりだったら?」


「そのときは、その理由を一緒に考えてみます」


 御影は、少しだけ口元をゆるめた。


「真面目ですね、先生」


「仕事なので」


「さっきから、そればっかり」


 小さく笑う。その目は、笑っていない。


「警察の人も、検察の人も、『殺したほう』の話しかしないので」


 御影は、淡々と言った。


「『どうして殺したのか』『次は誰を殺すつもりだったのか』。

 そういう質問ばかりです」


「ここでは、少し変えましょう」


 ペンを置き、正面から御影を見る。


「『誰を殺したか』『誰を殺したいか』だけじゃなくて、

 『誰を殺したくないか』についても聞かせてください」


「それ、ここでのルールってことですか」


「ええ。ここではそうします」


「……珍しいですね」


 御影は、少しだけ口元をゆるめた。


「『殺したほう』だけじゃなくて、『殺さなかったほう』まで数える大人」


「本当は、『絶対に殺したい人たち』と、『絶対に殺したくない人』の両方がいる、と?」


「そうですね」


 御影は、ボイスレコーダーにちらりと視線を落とす。


「でも、外の人たちには、前者だけ見えてれば十分みたいです」


「ここでは、両方聞きます」


「約束ですか」


「約束します」


「じゃあ、少しだけ話します」


 御影は、視線をテーブルの端に落とした。


「『絶対に殺したい人たち』は、だいたいガラスの向こう側に立ってた大人たちです」


「ガラスの向こう側」


「さっきからいるでしょう」


 御影は、俺の背後を顎で示す。


「この黒いの。向こうからは、こっちがよく見えるガラス」


 暗い一面のガラスに、御影の横顔と、自分の輪郭が薄く映る。


「子どもの頃いた施設にも、ありました。こういうガラス」


「どんな施設ですか」


「宗教っぽい名前のついた、矯正施設」


 声のトーンは変わらない。


「言うこと聞かない子とか、家で邪魔になった子とかを集めて、『更生させる場所』ってことになってました」


「そこで、ガラスを見た?」


「ええ」


 御影は、ガラスから目を離さずに言う。


「夜、部屋の中で何が起きてても、細長いガラスが光ってて。

 向こうに白衣が何人か並んでるんです」


「『見ているだけ』の大人たち」


「止めることができたのに、止めなかった大人たち」


 御影は、ふっと笑う。


「そういう人たちは、だいたい『絶対に殺したい人たち』のほうに入ります」


「被害者三人は、その人たちと関係がありますか」


「あります」


 即答だった。


「でも、その話は、もう少し先でいいです」


「今は話したくない?」


「先生が、まだ『どっち側の人か決めてない顔』をしてるので」


 喉の奥が、かすかに鳴る。


「じゃあ、今日は『絶対に殺したくない人』のほうを、少しだけ」


 御影は、ボイスレコーダーを指先で示した。


「昔、一人だけいたんです。『絶対に殺したくない』って決めた大人が」


「さっきの施設で?」


「そうです」


 御影の視線が、少し遠くを向く。


「夜、部屋でむちゃくちゃなことが続いてたとき、一度だけ、ガラスの向こうからこっち側に来た人がいて」


「こっち側に」


「ドアを開けて、中に入ってきて、『ごめんね』って言いました」


 その一言だけは、今でも鮮明に覚えているようだった。


「そのとき、『この人だけは殺したくないな』って勝手に決めました」


「それから、その人は?」


「何も変わりませんでした」


 御影は、小さく笑う。


「次の日からまた、ガラスの向こうに戻って。

 結局、何も止めなかった大人の一人になりました」


「それでも、『絶対に殺したくない人』のままだった?」


「最初は」


 御影は、視線を落とす。


「でも、あるとき急に、『ああ、この人も結局そっち側なんだな』って分かって。

 そこからは、どっちのリストにも入れないことにしました」


「どっちのリストにも」


「『殺したい』にも『殺したくない』にも入れない、『どうでもいい人たち』のほうです」


 淡々とした分類だった。


「今は、どうですか」


 慎重に聞く。


「『絶対に殺したくない人』は、まだいますか」


「いますよ」


 御影は、顔を上げた。


「今、一人だけ」


「その人のことを、話す気はありますか」


「あります」


 即答だった。


「でも、今日じゃなくていいです」


「どうしてですか」


「先生、困りそうなので」


 まっすぐな視線が突き刺さる。


「『今、一人だけ絶対に殺したくない人がいる』って言ったら、先生、たぶん仕事の顔じゃいられなくなります」


「……そう思うんですね」


「思います」


 御影は、肩をすくめた。


「だから今日は、『そういう人が一人いる』ってところまででいいです」


 ボイスレコーダーの残り時間を見る。三十分が近い。


「では、今日はこのあたりにしておきましょう」


 録音を止め、立ち上がる。


「次回は、今日の続きからで構いませんか」


「はい」


 御影は、素直にうなずいた。


「先生が、次もここに来てくれるなら」


「来ます」


 即答していた。


「少なくとも、鑑定が終わるまでは」


「そういう言い方、嫌いじゃないですよ」


 御影は、静かに笑う。


「『いつまでこっち側にいてくれるのか』、ちゃんと見ておきます」


 その言葉が、面談室を出たあともしばらく耳に残っていた。

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