片手に持ち歩いたもの

安槻由宇

片手に持ち歩いたもの

 胸が弾むようなときめき。あるいは心が締め付けられるような感動が去来し、自分自身の存在が大きく揺さぶられることがある。そんなとき、私たちは大きな波に流されるようにその身を自然の赴くままに任せるしかない。アニメや漫画の世界ではそれを「胸キュン」と表現することもあるが、まったく言い得て妙だと思う。過度な興奮や緊張からくる心拍数の上昇をまるで心臓が驚いて伸縮しているような擬音を用いて表現する。初めてこの手法を編み出した人は天才だ。そのルーツを事細かく遡る気にはなれないけれど、「胸キュン」は伝統的な感情表現の手法として現代にも受け継がれていることは確かだ。もっぱら、昨今の「胸キュン」は物語の登場人物の感情を表現するというより、それら創作物全般を嗜む人々が登場人物を自己に投影して疑似的な感情体験をした際の「感想」という側面が強くなっているきらいもある。しかし、考えてもみれば我が国では千年以上前から源氏物語などの創作物の登場人物に自己投影をして愉しむ文化があり、何も物語に「胸キュン」していたのは今に始まったことではないのだ。

 ところで自分の話をするならば、私はまったくと言っていいほど物語に「胸キュン」することはない。それどころか日常生活の中でも「胸キュン」が起こり得ることはほとんどないと言っていい。それはもちろん、私自身の何かを感じるという機能が鈍重であるとか、あるいは私が男性である(一般的に「胸キュン」は女性的な表現であると思われる)という点にもその遠因があるとも言えなくはないだろう。しかし最大の要因は私が「胸キュン」、あるいはそう表現される広義の感情に明確な「水準」を持っているということであると考えられる。誰にでもこういう経験がなかっただろうか。例えば、子供の頃に食べたお子様ランチの味。例えば、初恋のほろ苦い記憶。それらは愛着や思い出補正という言葉で片づけることができない何かを私たちの心に刻むことがある。私の場合のそれが「胸キュン」と表現される感情だったということだ。私はそれを十三歳のときに取得して、以来その「水準」の物差しを片手に人生を歩いて来たと言っていい。そして多くの場合、私が出会ってきた人々はその物差しに記された「水準」を超えることはなかった。逆に言えば、数少ない「水準」を超える人々は須らく何らかの痕を私に残していった。

 これは私が二十五歳のときに古い友人の結婚式で出会ったある女性の話だ。その女性は私の人生において関わり持った数少ない「水準」をクリアした女性だった。私の三十年弱の人生で「水準」をクリアした女性は片手で数えられるほどしか出会っていない。だから彼女のことはよく憶えている。その他の数多く出会ってきた背景のような人々の中で彼女は確かに被写体的な輝きを放っていた。もちろん、この表現はあくまで私の個人的な「水準」を持って測った感想なので、私が不遜にも世間一般的な評価を下しているわけではないということは留意していただきたい。



 その日はよく晴れた日曜日で、結婚式は東京駅付近のとあるホテルで行われていた。ホテルのワンフロアを貸し切った式場はどうも自分には場違いな感があり、受付の列に並ぶ前にネクタイを締め直して靴に汚れがないか確認したが、それでも依然どこか正体の見えない後ろめたさが私の肩を重くしていた。そもそも、友人とは言っても中学を卒業してから一度も会っていない相手の結婚式にどうして招待されているのかも釈然とせず。案の定、式場に顔見知りはほとんどいなかった。

 私が式場の隅の席でちびちびとジンジャーエールを飲んでいるところに、一人の女性が現れたのは開式の半刻ほど前のことだ。彼女は何も言わずに丸テーブルの対面に腰を下ろして静かに携帯電話をいじり始めた。テーブルは他にもたくさんあったが、ほとんどは会社の同僚か大学の友人連中という風の顔見知り同士で埋まっていて、当然私や彼女のような外様の入り込む余地は無い。

「ああ、えっと……。こんにちは」

 急に話しかけられて驚いた(びっくりしたというより、珍しいものを見たという驚きに近い)のか、彼女はしばらくの間表情を固めたままこちらを見つめてから、「こんにちは」と短く返した。彼女の声は磨かれた結晶体のような鋭さで私のこめかみの辺りを通り過ぎていった。

 年齢は私と同じくらいだろうか。二十代の半ばを過ぎると女性の年齢は急に判別が難しくなる。だから彼女の歳が本当はもっと若いことだって、あるいは私よりも一回り上ということもあり得るかもしれない。しかし、ここに一人で来ているということを考えれば私の推測が大きく外れていることはないはずだ。新郎新婦は同い年で当然私とも同年代なのだ。

 彼女は特別目立つ外見をしているわけではなかった。むしろ没個性と言ってもいい。それでも私は一目見たときから彼女に好感を持っていた。彼女を美人とか可愛らしいとか、あるいは端正な顔立ちだとか、いわゆる外見を褒めるための言葉で表現することは難しい。もちろん彼女の顔立ちや髪型や体型について、気取った言葉を用いて賛辞を述べることは出来るけれど、それは好みという直感的な感想に後付けされた、いわば答えを見ながら事務的に行う計算のようなもので、本質をとらえているとは言えなかった。それでも尤もらしい言葉を当てはめるならば、——これはずいぶん、本当に後になって気づいたことなのだが——彼女の外見には欠点らしい欠点が一つも存在しなかった。

 私たちはしばらくの間他愛のない世間話をしていた。それは本当に何も意味を為さない世間話だったけれど、気がつくと周囲の雑踏は消え去り、私は彼女との会話に没頭していた。そのとき私の右手にはきっと物差しが握られていたことだろう。そして(実際はただ会話をしていただけだが)私はそっとその物差しで彼女を測っていた。

「やれやれ」と私は心の中で呟いてみた。彼女が「水準」を超えていることはすぐにわかった。けれど、そんな相手と出会うのはずいぶん久しぶりのことで、そういうときの立ち振る舞いというものを私は忘れてしまっていた。


「いきなりこんなことを言うのもおかしいけど。

 俺は君のことをとても好ましく思っている」


 そう言った後に少し冷静になると身体全体が熱くなった。もちろん恥ずかしさもあったけれど、それはどちらかと言えば、長いあいだ使っていなかった回路に電気を通したせいで熱暴走しているという表現が適切に思えた。

 彼女は初めこそ戸惑うように右耳に手を当てて閉口していたけれど、すぐに平静を取り戻して、今度はどこか挑発的な口調で言った。

「別におかしいなんて思わないけど。どうしてそんなことを言おうと思ったの? 少なくともあなたはそれがおかしな事だと思ったのでしょ?」

 とても良い返しだった。自分の見立てに狂いがなかったことを私は確信した。確かに彼女は「水準」を超えていた。彼女の言葉や仕草には私の胸中を揺さぶる何かがあった。しかし、意外だったのは自分自身の行動だ。彼女の言う通り初対面の相手(いくら「水準」を超えた相手だとしても)に好意を伝えるという行為は私の行動原理に反している。実際、これまでだって私は石橋を叩いて渡るような人間係を築いてきたはずだった。それがどうして今日だけは……。

「どうしてだろう。ちゃんとした言葉には出来ないんだけど、いまここで言わないとまた俺は何かをここに置いてきてしまう気がするんだ」

 ふいに出た言葉は思想めいた歩様で私と彼女の間をさまよい、薄暗い式場の天井へと消えていった。彼女は何も言わなかった。

 腕時計を見ると時刻は十三時十五分を過ぎた頃だった。まだ開式まで十五分はある。

 ……もし。

「もし、退屈なら」


「少し昔話に付き合ってくれないかな」




 私が言葉を切ると、まるで動き続けた機械がその天寿を全うしたかのように辺り(少なくとも我々のテーブル周辺)はしんと静まり返った。床の絨毯から舞う微量の埃や粒子が照明に照らされて仄かな熱量を持って宙に漂う。それは当時、私が初めてその物差しを手に入れたときの光景と少し似ていた。あれは午後の体育館だった。


「つまり」

 静寂を破ったのは彼女の声だった。

「つまり、あなたはそのときに。中学一年生のときにある一人の少女に恋をして、そのときの思い出が比較対象となって好意という感情の門番をしている」

 彼女は少し首を傾げて言った。

「つまりそういうことでしょ」

 彼女は世の中にこれほど下らないことはないとでも言いたげな顔をしていた。何だか思い出に水を差されたようでいささか腹が立ったけれど、よく考えてみれば彼女の言葉は的を射ていた。そんな単純な話ではないのだと言い返したい感情と、他人からすればそれは確かに下らないことだと納得する理性が相克していたが、結局私は彼女の意見に同意した。

「まあ、そういうことだろうね」

「それで、わたしはその門番を突破したというわけ?」

「その通りなんだけど、改めて言われるとなんだか恥ずかしいな。これじゃあまるで告白しているみたいじゃないか」

「そう受け取ったけど……」

 彼女は極めて落ち着いてそう答えた。

「なるほど」

 私はそう言うしかなかった。私が黙っていると彼女は続けた。

「ごめんなさい。わたしはあなたの想いに応えられない。つまりあなたの言う水準みたいなものがあるのだとすれば、あなたは私の水準を超えていないということになるわ。でも考えてもみて。あなたの水準を超えた相手がいたとして、その相手の水準をあなたが超えているなんて確率はきっと限りなくゼロに近いはずよ」

 確かに彼女の言う通りだった。この数分間のあいだ、彼女は常に正しい言葉を話していた。だからその後に彼女が続けた言葉もきっと正しかったのだろう。

「でも、あなたはきっとそんな事わかっているのね。何だかあなたの話からは一種の諦念のような白々しさを感じる。私に言った言葉だって、ただそこに川があったから石を投げこんでみた。そんな風に感じてしまうの。

 あなたは「何かを置いてきてしまう」と言っていたけれど、本当は何もかも捨て去りたかったんじゃないの? 私を測るその物差しも、未来に持っていけなかった多くの想いも、すべてが煩わしく感じる。だから捨て去りたい……」

 そこまで言ってから、彼女はハッとした表情で右耳に手を当てた。きっと彼女が何かを考えるときの癖なのだろう。

「もしかしてあなたは……。初めから捨てるつもりで今日ここへきているの?」

 彼女のその言葉が合図になったように、薄く灯っていた式場の明かりが落ちて、まるで演劇の開幕を告げるような重低音が響いた。気がつくと壇上にスポットライトが照らされスーツ姿の男がマイクを持って立っている。彼が告げる。新郎新婦の入場を。スポットライトが移動し今度は式場の入り口が照らされた。扉が開き白いスーツを着た男が背筋を伸ばして入場する。式場の端にある私たちの席からは彼の顔はよく見えない。司会の男が新郎の名前を読み上げる。そう言えば彼の名前を私は知らなかった。招待状にも挨拶文にも書いてあったはずなのにどうしてだろうか。

 新郎が壇上に上がると再びスポットライトが入り口に移動した。扉が開き今度はウエディングドレスを纏った女が初老の男と並んで立っている。その真っ赤なドレス姿を見た私は胸中で「まったく」と呟いた。

 どうして彼女は気がついたのだろうか。しかし考えてみればヒントはいくつかあったのかもしれない。彼女も私と同様にここへ一人で来ていた。つまり会社や大学ではなくもっと古い知人だったのだろう。そして彼女も私に対して同じことを考えたはずだ。「ああ、この人はきっと古い知人なのだろう」と。仮に私たち二人が新郎新婦にとって同じ年頃を過ごした知人だったとして、私と彼女は紛れもなく初対面だ。そこまで考えれば彼女は私があの真っ赤なドレスを着た女の知人だということに気がつくだろう。そして先ほどの私の話。もしかしたら彼女も私と同じような境遇だったのかもしれないと考えることは、まったくの想像の飛躍だろうか。


 歩き出す二人。移動するスポットライトが眩しくて目を細める。

 あの日も体育館は暗くてギャラリーから不器用な手つきで照らされた照明が私たちの頭上を掠めていた。壁掛け時計を見ると時刻は十三時十五分。次のプログラムまでまだ十五分ほどあった。騒々しい体育館を見まわす。震災の影響で急遽市民ホールから体育館での開催となった合唱コンクールは、準備不足による段取りの悪さすらどこか非日常を装飾するスパイスとなり心地の良い混沌を生み出していた。毎日のように新聞やニュースで更新される死亡者や行方不明者の数もあの頃の私たちにはどこか他人事で、風に乗って届いた微かな不安に浮足を立てていた。

 早めに放送席についた私は次のアナウンス内容に目を通す。そこへ彼女がやってきて隣に座る。照明に照らされ仄かな熱量を持った埃や粒子が私たちを包み込んでいた。


「ねえ、お母さんがウエディングドレスを作ってるって本当?

 なら私の結婚式は○○のお母さんに仕立ててもらいたいな。

 

 え? まだ先の話だって?

 じゃあ今から予約させてよ。


 どんなドレスがいいって?

 そうだな。


 東京タワーみたいに真っ赤なドレスがいい」



 式が終わり二次会へ向かう人々を横目に私は一人で歩いていた。後ろから声を掛けられて振り返ると彼女がいた。結局あの後、彼女とはほとんど会話をせずに式は終わった。式のあいだ彼女はずっと右耳に手を当てて何かを考えていた。

「二次会へは行かないの?」

 私が聞くと彼女は首を振った。

「行ったところで知り合いなんていないわ」

「じゃあこの後二人で飲み直すってのは?」

 彼女は意外そうに瞬きしてから、肩をすくめて言った。

「それも今日はやめとくわ」

「そうか。じゃあ残念だけどこれで失礼するよ」

 私が歩いて行こうとすると「ねえ」と引き止められた。

「まだ何か?」

 彼女はまた右耳に手を当てながら、ゆっくりと言った。

「私は思うんだけど。きっと私たちはどこまでも一人なのよ。繋がっているように見えていても、心の奥の泉のような場所では結局孤独からは逃れられない。だからね。もしあなたの右手にまだ物差しが握られていたとしてもそんなに急いで捨ててしまわなくてもいいんじゃないかしら。きっとそれはあなた自身を測る物差しでもあるから。

 ……それだけよ」

 そう言い残して彼女は雑踏の街並みに消えていった。


 あれから数年が経ったが、私と彼女の関係は奇妙なことにまだ続いている。彼女は昨年結婚したし、私にも今はガールフレンドがいる。それでも偶に、二人で会って食事をして珈琲を飲む。私の右手にまだ「水準」の物差しが握られているのか、それはわからない。ただ、彼女との時間を過ごしているとふと思うことがある。私はきっとこの瞬間のことをこれから先もずっと忘れることはないだろうと。そしてそれは忘れ難い痕となって私という物差しにメモリを刻んでいるのだと。

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