第36話 「クロエの覚悟」


「クロエ、力不足でごめん。俺なんかじゃ、他に良い手が思い浮かばなかった」


苦しげに息を荒げるクロエは、すでに死を覚悟していた。

バッカスの《血の制約》が、身体の奥から心臓を握りつぶすように命令を強(し)いている。


「今から君に、俺の血を流し込む」

「ハァ……ハァ……何を言って……」

「俺の“王の血”なら、バッカスの血よりも絶対に強い。

出来るかは分からないけど、上位の血で、下位の支配を塗り潰す。

バッカスの制約を上書きするんだ」


クロエの瞳が大きく揺れた。


「それによって、クロエが血に耐え切れずに死ぬかもしれない。耐えれても、完全な吸血鬼に……」


俺は息を飲み、喉がひりつくほど真剣に言葉を絞り出した。


「それでも、命懸けで試してみる?」


クロエは苦痛に震えながら、それでも微笑んだ。

涙が滲んだ顔なのに、迷いだけは一つもなかった。


「えへへ……どんな結末になっても受け入れます。ノアさんを信じてます」


その言葉を聞いて、強く頷き合う。


クロエは白い首筋をさらした。

月光に濡れた肌が薄く汗ばんでいて、妙に艶(あで)やかだ。

俺の牙は吸血鬼らしく鋭いが、生きた相手に噛みつくのは初めてだ。

まして、牙の穴から直接血を流し込むなんてやったことはない。


心臓が跳ねる。鼓動が大きすぎてうるさい。

それでも、覚悟を決めた。


そっとクロエの首元へ顔をうずめる。

彼女の呼吸が耳に触れ、肌が熱を帯びる。


牙を深く突き立てた瞬間――


「……あっ……」


吐息とも悲鳴ともつかない声が漏れ、クロエの身体がびくりと震えた。

俺は必死に意識を集中しながら、自分の血を流し込んでいく。


クロエは苦しげに俺にしがみついてきた。


(俺の血よ……絶対にクロエを殺すな。吸血鬼にもするな。

彼女は人間として生きるんだ)


強く、強く念じ続ける。


(とはいえ、どのくらい注げばいいんだ……? 全然わかんないぞ!)


気持ち多く入れすぎてる気もする。

でも、バッカスの“血の制約”を上書きできない量じゃ意味が無い。


「ノアさん……も、もう……限界……許して……」


クロエの頬は真っ赤に染まり、呼吸は震えている。

その瞳からは、一筋の涙が零れていた。


「ご、ごめん! ほんとに適量がわからなくて……!」

「ハァ……ッ……ハァ……」


ぐったりと俺に寄りかかるクロエ。

こんな時なのに、意図せず煽情的な雰囲気を醸し出す彼女に、居たたまれなさを感じ罪悪感を抱く。


「これが、ノアさんの血……凄い。どんどん馴染んで……力が溢れてくる」

「だ、大丈夫そう?」


クロエの呼吸が段々と落ち着いていく。

あの苦しそうな様子は、すでにない。


「はい。もう……バッカスの“血の制約”なんて感じません。

とにかく、身体中を凄い力が巡ってて……熱いです」


とりあえず、上書きには成功したようだ。

胸の奥が一気に軽くなる。


「良かった……じゃあ、あとは俺に任せて休んでて」


クロエが無事なら、二対一でも問題ない。

今度は、心置きなく戦える。


だがクロエは首を横に振る。


「いえ、私も戦います。バッカスは……私が抑えますので。ノアさんはジェイムズを」

「でも――」

「大丈夫です。多分じゃなく、今なら負けません」


クロエが細い腕で力こぶを作る。

力こぶは出ていないが、自信は溢れている。

たしかに、今の彼女を包む紅いオーラは、今までとは比べ物にならないほど濃い。

正直、あのジェイムズすら超えている。


元はC~Bランクの程度の力だったが、もはや別物だ。

本当に強くなったようだ。バッカス相手なら、十分戦えるだろう。


「……わかった。ちょうどいい。クロエ自身で、バッカスを倒すんだ。

過去をすべて断ち切っておいで」

「……はいっ!!」


クロエの瞳から怯(おび)えは完全に消えていた。

そこにあるのは、人としての誇りと真っ直ぐな強さ。


こうして彼女は、過去を清算するために戦いへと踏み出した。




◇◆◇




分厚い氷のドームが立ち上がり、ノアとクロエを包み込んだあと、ジェイムズは微動だにせず様子を見ていた。氷魔法など聞いたことはない。だがノアが常識外れの力を秘めているのは、まごうことなき事実。

そういう攻撃方法もあるのだと考えて行動するだけのこと。

ノアに対する警戒心を、さらに数段跳ね上げた。


一方、バッカスは、その剛腕で氷を砕こうと勇み出た。

いかに分厚い氷だろうが、彼の力をもってすれば容易く壊せるだろう。

しかし、ジェイムズは手を伸ばして制した。


罠の可能性がよぎったのだ。

あのバッカスの眷属の女が、ノアに取り入っていたのは僥倖(ぎょうこう)だった。

おかげで、揺さぶりをかけながら立ち回れている。

バッカスが先にやられてしまえば、その優位がなくなりかねない。

迂闊には前に出したくない。

ジェイムズは極めて慎重な男だった。状況を読む目は確かだ。


後方のカトレアたちは、依然として動く素振りすらない。

なら、魔法が自然とほどけるのを待つだけでいい。

魔法は維持にも魔力を消費する。これだけの魔法なのだ、そう長くはもたないはず。


逃げ場はどこにもない。獲物はすでに掌中。

ジェイムズはそう判断した。


そして、今――案の定、氷がひび割れ、粉雪のように砕け散った。


白いスノーダストが舞い、視界が徐々に晴れていく。

そこに立つ二つの影を見た瞬間、空気の濃度が変わった。


ノアの手には、血と氷で形づくられた異様な刀身。

クロエは黒鋼剣に真紅のオーラを纏わせ、静かに構えている。


ふわりと風が流れ、血の匂いが重く広がった。

二人から漂う濃密な圧。


ジェイムズは、判断が致命的に誤っていたと悟った。


(……やられた。まさか、さらなる血を与え、自らの眷属と化したというのか!?)


こんな“成り損ない”の女が耐えられるはずなどない。

だが事実、先ほどまで苦しみに呻いていたはずの女から、明確な“王の血”が溢れている。


ジェイムズの顔色が変わった。


「バッカス!! あの女を始末しろッ!」


怒号が飛ぶ。

バッカスもまた、本能で自分の《血の制約》が消えていることを悟っていた。


「ふ、ふざけやがって……! てめぇは俺様の所有物だろうがああッ!!」


怒りの咆哮とともに、両腕に血のガントレットが形成される。

血が沸騰するような、獣じみた殺気。


(有り得ねぇ! 俺様の血を与えて眷属にしたんだぞ。

それを上書きされただと!?)


何よりバッカスが許せないのは、今まで怯え震えていた女が反抗的な眼を向けてくること。

王の血を分け与えられようと、自分の方が格上の事実は揺るがないと思っているのだ。


「私はもう、あなたなんかの所有物じゃない。私の主はノアさんです!」


その一言が、さらに火に油を注ぐことになる。


クロエは一歩踏み出し、黒鋼剣を握り直した。

ノアが血を纏わせた状態のこの愛刀まで貸し与えてくれたのだ。

その刃にまとった真紅が、まるで炎の尾のように揺れる。


次の瞬間、クロエは音を裂いてバッカスへ飛び込んだ。

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半人半魔の吸血鬼 ~無双しながら異世界ライフ~ @riachann

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