第一章 不良少女と夏休み(3)

 大学を人生の夏休みだという人がいる。

 では大学生の夏休みは一体何なのだろう。

 夏休みの中の夏休み? 夢の中の夢のような? いったいどれほど至極の怠惰が待っているのだろうか。もちろん期待に胸を膨らませなんてしなかったけれど、夏休みという言葉にはそこはかとない魅惑的な魔力があるような気がしていた。

 私は自分の人生を延長戦だと思っている。この先の人生の展望なんて無いし、いつ死んだって多分後悔はしない。だから、仮に何かどうしようもない状況で自分の命を差し出さなければいけない、そんな機会が訪れたとしても、きっと私は仕方がないと納得するだろう。

 けれど、それはそれとして私にも好きなことや嫌いなことはある。特に嫌いなことはいっぱいある。本当にいっぱいある。そして数少ない好きなことの一つが本を読むことだった。特に少し昔の時代を舞台にした大衆小説が好きだった。

 私は大学生の夏休みが至極の怠惰と聞いた時から決めていたのだ。大学の図書館で限界まで本を借りて一日中ベッドの上で読書に耽る怠惰な毎日を送ると。

 しかし、夏休みが始まって約二週間。何故か私は毎日欠かさず朝から晩までアルバイト先の喫茶店に勤務していた。夏休み前に借りた十冊の本はまだ一冊も読み終えていない。聞いていた話と違うではないか……。


「白川さん本当にありがとう。また来週もよろしくね」


 店長に見送られて事務所の裏口から店の外に出ると、辺りはもうすっかり暗くなっていて、見上げる夏の夜空には一番星が瞬いていた。

 裏通りから店の脇を通って駅前の大通りに出る。

 世間では昨日からお盆休みに入ったようで、街行く人々の表情や服装からもどこか弛緩した空気を感じる。振り返って店の中を見ると、私に気が付いた店長が笑顔で手を振ってきた。私は軽く会釈をする。

 店長が私に気を遣っているのには理由がある。それは私が夏休みの間ほとんどの日のシフトを出しているからだ。平時でも人員が不足気味なのに、お盆周りになると主婦や学生が帰省するため本格的に人手不足に陥るのが私のアルバイト先だった。店長からしたら私がへそを曲げて仕事をばっくれでもしたら堪ったものじゃない。実際に無理にシフトを入れられて飛んだバイトの子もいた。

 もちろんシフトを提出したのは自分自身だから文句を言う筋合いではないのだけど、まさか本当に提出した分ほぼすべての日に入れられるとは思っていなかった。大学の学費は先輩から借りた二百万と自分の貯蓄から出しているが、日々の生活費はまた別で稼がなければいけない。だから時間のある夏休み中にある程度まとまった額を稼げることはありがたい。ただそれでも、限度ってものがある。十四連勤なんてちょっとしたブラック企業のサラリーマンのようだ。

 私は小さなため息をついて帰路についた。

 毎日通っているせいで見慣れた街灯と店の並び。流行りの曲を大音量で流すカラオケ店や店先に特売品を並べるドラックストア。駅に向かう人波に逆らってしばらく歩みを進めると大学のキャンパスが見えてくる。電車賃を節約するためにバイト先の最寄り駅ではなく、定期の使える地下鉄まで歩くことにしているのだ。

 アルバイト先を大学の近くで選んだのは講義の帰りに寄ることができるからだけど、講義のない夏休みでもわざわざ電車に乗って通わなければいけないのは少し面倒だった。それに以前の仕事に比べれば時給も安い。以前なら一晩で稼げた額が今では三日かかる。とは言え、もう前の仕事に戻るわけにもいかない。それは先輩との約束だった。先輩はもういないけれど、学費の半分を出して貰っているからには(別に頼んだわけではないけれど)約束を反故にするわけにはいかない。

 もちろん、いまのバイト先に不満があるわけではない。コンビニやファミレスに比べれば時給もいいし、まかないも出る。ずっと立ち仕事だから足は疲れるけれど、マニュアル通りに働けば簡単な仕事だ。

 きっとこれが普通なんだ……。


 考え事をしながら歩いていると気が付けば大学の前まで来ていた。

 夏季休暇の間でも大学は解放されており構内には照明がついていたが、流石に普段と比べて人の数は少ない。講義のない日の大学がどんな雰囲気なのか興味はあったけれど、中に入ってみようという気にはなれなかった。部活か、あるいはサークルにでも入っていれば夏休みの間に大学に行くこともあるのかもしれないけれど、いまの私には講義のない日の大学に用事はない。

「サークルか……」

 そう言えば彼女にサークルに誘われたのもちょうどこの場所だった。

 黒いキャミソールワンピースを着た肌の白い女。

 私はふと彼女があのガラス張りの自動ドアから出てきた時のことを思いだした。二週間も前のことなのに何故か昨日のことのように感じる。彼女は夏休みをどんな風に過ごしているのだろうか。普通の大学生のように友人と旅行に行ったり、恋人と花火を見に行ったり、あるいはサークルの活動があるかもしれない。あとは、何がある?

 いや、そもそも普通の大学生って何だ……。

 もしあの日、私が彼女の誘いを受けていたら私は今ごろ何をしていただろうか?

 少し考えてみたけれど、何も想像することができなかった。

「わたしは何をしているんだろう……」

 自分に問いかけるように私は呟いた。

 ちょうどその時、大学入り口の自動ドアが開き、中から数人の男女が楽しそうに談笑しながら外に出てきた。

 私は自分の独り言が聞かれたかもしれないと少し緊張したけれど、彼らは私には目もくれず横を通り過ぎて向かいの国道の信号を渡って行った。

 後には一人立ち尽くす私だけが残される。

 彼らが去って少ししてから何かがおかしいと思った。

 何だろう?

 考えていると、ふと近くの掲示板のポスターが目に入った。

 ああ、そうか。

「浴衣……、着ていたな」

 目に入ったポスターには夜の街を行く大きなお神輿の写真が載っていた。

 どうやらこの近所で夏祭りがあるらしい。彼らはきっとそこへ向かったのだろう。

 時間を確認するとまだ十九時半を少し回ったころだった。

 私は駅に向かっていた足を曲げて、彼らが渡って行った信号の方へ向けた。


 夏祭りなんていつぶりだろうか。

 私がまだ小学生の頃に妹と一緒に祖母に連れられてよく近所の八幡宮のお祭りに行ったいた記憶はある。私はりんご飴が、妹はチョコバナナが好きで、決まって祖母は私たちにりんご飴とチョコバナナを買ってくれた。中学に上がった年に祖母が他界してからはたぶん一度も行っていない。

 古い記憶に思いを馳せながら歩いた。

 夏の夜は日中に溜め込んだ熱気が地面から沸き上がり蒸し暑い。Tシャツの首元には汗が滲んで湿っている。タイトなジーパンは中で蒸れて少し窮屈だ。バイトの日は飾り気のないTシャツとジーパンで家を出ることが多いが、いまは開放的なスカートが恋しい。

 国道沿いを少し進んで路地を曲がると、道はすぐに閑静な住宅街の中に入っていった。もちろん、この辺りに来るのは初めてだけれど方向感覚には自信がある。ポスターの端に載っていた地図は頭に入れてきた。この先を少し進んだところにある神社がお祭りの会場だ。何度か住宅街の細い路地を曲がり小さな公園の角を過ぎると。

「ここね……」

 目の前にはひらけた三叉路が広がっていた。

 三叉路の一角には人だかりができていて、賑やかな笑い声と屋台の温かい明かりが夜闇に浮かび上がっている。

 焼きそば、たこ焼き、綿あめ、チョコバナナ、りんご飴。

 大きな鳥居の先に続く小径の両脇には様々な屋台が並び、空腹を刺激する美味しそうな匂いを辺りにばらまいていた。

 それほど規模が大きいお祭りというわけではないけれど、それなりに賑わっていたし人も多かった。家族連れから中高生くらいの制服を着た子たちもいれば、先ほど私が見かけたような大学生らしき集団もいた。よく見ると屋台の中にはうちの大学のTシャツを着て焼きそばやたこ焼きを焼いている人たちもいて、もしかしたらボランティアで参加しているのかもしれない。

 私は屋台に群がる人の間を縫うように小径を奥に進んた。

 小径の先には長い石段があり、きっと境内は石段を上った先にあるのだろう。石段の上の方から流れてくる祭囃子を聞きながら私はゆっくりと階段を上っていった。

 どれくらいの段数があっただろうか。途中で数えるのをやめてしまったけれど三十段は超えていたはずだ。それに石段の中腹では腰を下ろして休憩する人たちや、石段を駆け上がったり飛び降りたりして遊ぶ子供たちもいて上まで辿り着くのに時間が掛かった。

「よっと」

 ようやく上り切って顔を上げると境内は想像以上に広かった。拝殿まで続く真っ直ぐな参道の両脇にはやはり屋台が並び、他にもいくつかの野営テントが並んで休憩所を作っていた。奥の駐車場の方では、戻ってきたのか、あるいはこれから街に繰り出すのかわからないけれど、大きなお神輿の近くに法被姿の男衆が集まっているのが見える。

 住宅街のど真ん中にこんなにひらけた場所があったなんて……。

 しばらくの間、賑やかなお祭りの様子をぼうっと眺めていたけれど、せっかく来たのだから何かお祭りらしいものでも食べていこうと思い近くの屋台に目を向けた。

 やはり一番初めに目に付いたのは、氷の上に並べられた真っ赤で大きなりんご飴だった。

 お会計をしている女性の後ろに並んで順番を待つ。

 前の女性が大きなりんご飴を受け取って振り返り私はハッとする。

 涼しげな黒いワンピースから伸びる細くて白い手足。ウルフカットの黒髪から覗く両目は手に握られた真っ赤なりんご飴に釘付けで、いまにもかぶりつきそうな口からは綺麗な八重歯が見えていた。

「あっ……」

「え……」

 あまりにも不意打ちで言葉が出なかったけれど、それは彼女も同じだった。口を動かそうとしているのはわかるのだが、声にはならない。

 とは言え、屋台の店前で立ち止まっているわけにもいかないので私は一旦考えることをやめてりんご飴を買うことにした。彼女は私がりんご飴を買っているところを何か言いたそうな顔で見ていた。

 りんご飴を買うと、私たちは示し合わせたわけでもなく参道を外れベンチのある休憩所の方へ歩いた。

「そう言えばさ、あなたの名前知らないんだけど」

 はじめに切り出したのは彼女の方だった。

「白川ユリ」

「へえ、ユリね。私は硝子。黒森硝子。これからもよろしくね、ユリ」

 思いがけないところで自己紹介が始まって、終わった。

 そしていきなり呼び捨て……。

「これからもって、どういう意味よ……」

「別にいいじゃない。こんな偶然あんまり無いよ。たまたま同じお祭りに来ていて同じ屋台でりんご飴を買った。やっぱり私たち気が合うんだよ」

 彼女はりんご飴に表面の飴をパリッと割りながら食べておいしそうに微笑んだ。

 私もつられてりんご飴の表面を軽く舐めた。

 ヒンヤリした舌ざわりの飴は甘くて少し酸っぱくて、懐かしい味がした。

「おいしい」

 思わずそう呟いた。

 私の反応が可笑しかったのか、彼女はくすくす笑うと自分の艶やかな黒髪に手櫛をかけて言う。

「ねえ、少し座らない」

 私たちは近くの空いているベンチに腰を下ろした。


 夏の夜の吸いこまれそうなほど高い空には銀の砂をばらまいたように星々が瞬いている。社務所の近くのテントの下では、既に半分くらい出来上がっている法被姿の男衆が酒盛りを始めていた。

「不思議だな……」

「えっ?」

 急にそんなことを言いだした彼女は、夏の夜空と祭りの明かりのちょうど中間の何もないところを眺めていた。

「私さ、ちょうどユリのことを考えていたんだよ」

「新手の口説き文句かしら?」

「どうだろうね。でもあの日からずっとユリのことが頭から離れなかった」

 彼女は真顔で言っている。

「冗談でしょ……」

「ほんとだよ。あの人は今ごろ何をしているんだろうって。そしたらこんな場所で出会えた。私の後ろにユリが立っていた時には心臓が飛び出るかと思ったよ」

 彼女は自分の胸に手を当てて舞台女優みたいに大袈裟なジェスチャーをした。

 馬鹿げている。

 と思ったけれど、思い返せば私だってつい先ほど彼女のことを考えていた。もちろん、偶然だ。

 私が黙っていると彼女はそれ以上のその話を続けようとはしなかった。話題を変えるようにりんご飴を小さく齧ると「なんでこんな所に来たの?」と私に訊いた。

「なんとなく、かな」

 話が広がらなくて申し訳ないけれど、本当に大した理由は無いのだから仕方がない。ほとんど衝動的だったのだ。別に家に帰ってもやることはない。借りてきた本も読みたいけど明日は一日休みだから充分時間はある。もしかしたら二週間の連勤明けで少し気持ちが舞い上がっていたのかもしれない。考えれば理由はたくさん思いつくけれど、どれも動機としては薄い。

「それより、あなたは」

 彼女が口を尖らせる。

「……じゃなくて、えっと」

「硝子。硝子って呼んでよ」

「じゃあ。……硝子はどうしてここに?」

 名前を呼ばれていたく満足そうに肯いた硝子は、サンダルをぶら下げた素足をバタバタさせて「まあちょっとね」と意味ありげに呟いた。

 それから彼女はサンダルを軽く放るように足から離した。放り出されたサンダルは二、三度砂利の上を転がって表向きで止まった。

「あ、晴れだ。ねえ、ほら見てよ!」

 硝子は子供のような声を出してはしゃいだ。

 しかし、次の瞬間には別人のように静かになった。

 彼女は軽くため息をついてから言った。

「少しね。嫌なことがあったの」

「嫌なこと?」

「うん。昨日まで実家に帰っていたんだけど。まあそこで色々と……」

「へえ……」

 と相づちを打つが、正直に言えば彼女の家の話なんて私はこれっぽっちも興味はなかった。それを察してかはわからないけれど、彼女は嫌なことの詳細までは話さなかった。

「とにかく、それで今日は気晴らしに遊びに来てたってわけ」

「気は晴れたの?」

 私が訊くと彼女は肩をすくめた。

「ユリに会えたからもうどうでもいいかな」

 冗談めかしてそんなことを言うと、彼女は立ち上がって転がっていたサンダルを拾って足を通した。

 振り返って彼女が言う。

「ねえ、ラムネ、買わない?」

 ラムネ?

「ええ、まあいいけど」

「じゃあちょっと待っててよ。いま買ってくるから」

 そう言って彼女は屋台の人込みの方へ歩いて行った。

 一人残された私はベンチに座ったまま夜空を眺めながらりんご飴を舐めた。

 ——黒森硝子。

 もう二度と関わることはないと思っていたが、まさかこんなにも早くに再会することになるとは……。本当になんて偶然だろう。今日、私がまっすぐ家に帰っていたら彼女と出会うことなんてなかった。たぶん、もうこれから一生会うことはなかった気がする。

 実家か……。

 硝子は実家に帰っていたと言った。地方から出て来ている学生が夏休みに実家に帰るのは当たり前のことなのかもしれない。私にもそういう場所が昔はあった。けれどそこは帰るべき場所ではなくて、私にとってはそこは戦場だった。そして憎しみなんて感情すらもとっくに消え失せたころ。もうそこは私とは無関係の場所になっていた。あの人たちはもう私とは赤の他人になっていた。

 だから私にはもう実家なんてない。


「遅いな……」

 硝子は中々戻ってこなかった。

 しばらくすると家族連れの四人が私の正面のベンチに座った。

 父親と母親。そして小学生くらいの姉とまだ未就学児の弟。ちょうどあの子と私の歳の差くらいだ。綿あめでべとべとになった弟の手を姉が拭いてあげている。その光景をぼうっと見ていたせいで私は硝子の声に気が付かなった。

「——ねえってば!」

 大きな声にびっくりして顔を上げると、ラムネ瓶を二本持った硝子が横に立っていた。

「ごめんなさい。ぼうっとしていた」

 硝子は私の視線の先にその姉弟を見つけて「近所の子かな」と呟いた。

「ねえ、ユリって兄弟はいるの?」

 一瞬言葉に詰まった。

「いないわ」

 そう答えた私に「そっか」と相づちを打つと、彼女は夜空を見上げて言った。

「私は兄がいるの。とびっきり優秀で自慢の兄がね。ちょうどあの姉弟と同じくらいの歳の差でね。いまは東京の良い企業で働いている」

「お兄さん、好きなの?」

「まあね。ブラコンって言われても正直否定はできないかな」

「いいね。そういうの」

 私がそう言うと、彼女は微妙に肯いて笑った。

 奇妙な屈託が私たちの間をさまよい、無言の時間が生まれた。

「はい。これ」

 硝子からラムネ瓶を受け取る。

「ねえ、ラムネってどうやって開けるの?」

 硝子はラムネ瓶を底から覗き込むようにして言った。

「えっとね。確か……」

 思えば私もラムネを開けたことなんてなかった。けれどなんとなく開けたかの覚えはあった。きっとどこかで知ったのだろう。不確かな記憶を頼りに瓶のラベルを剥がして、先端から玉押し用の部品を取り外して瓶の口に押し当てる。

「えい」

 勢いよくビー玉が瓶の中に押し出されると、少ししてから中の炭酸がじわっと溢れてきた。溢れるラムネを手で押さえようとしたせいで私の手はべとべとになった。

「こういうものなんだよ。たぶん……」

 不信そうな目で見ていた硝子に私は言った。

 カランと瓶の中でビー玉が転がる音がする。いや、ラムネに使われているのはビー玉じゃなくて、A玉と呼ばれる規格内のガラス玉だと聞いたこともあるが本当なのだろうか。

「えい!」

 硝子の瓶からは私よりもたくさんラムネが溢れていた。ジーパンのポケットや手荷物の中にハンカチがないか探したけれど、残念ながら今日は持ち合わせていなかった。

 ラムネはもうほとんど炭酸が抜けていて軽いしゅわしゅわとした感覚が口に残るだけの甘い飲み物だったけれど、どこか夏祭りの味がするような気がした。それが具体的にどんな味かなんてもちろん説明することはできない。

 ラムネを半分くらい空けると硝子はぽつりと呟いた。

「なんだかとっても不思議な感じ」

 私は目だけを向けて硝子が続けるのを待った。

「いまこの時間って本当に私の人生なのかなって思うことがある。私たちの人生ってさ、たぶん川みたいなもので一本の流れの中で繋がっているんだよ。でもいまの私はきっと何処にも繋がっていない。過去にも未来にも接続していない。そんな気がする。わかる?」

 そう言って硝子は私の方を見た。

「わからないわ。でもなんだか自由過ぎて怖くなる時はある」

「大学は人生の夏休み、か……。人はあらゆる自由を許されたとき、自らの不可解な限定とその不自由さに気づくであろう。人間は永遠に自由では有り得ない」

「堕落論?」

 硝子は肯く。

「そう。よくわかったね」

「ちょうど前期の講義で坂口安吾をやったから」

 硝子は瓶に残っていたラムネを一気に飲み干してベンチを立った。

「つまりさ、どうせいつかは終わるんだからいまを楽しめばいいんだよ。この時間だけは堕ちて堕ちて、堕落すればいい。それが大学生の特権じゃない?」

 堕落論の論旨はそういうことじゃない気がするけど……。

 でも硝子の言った繋がっていない感覚というのは、あるいは私がいまの生活を人生の延長戦と考えているのと近しいのかもしれない。でも、それならどうして彼女は大学に入ったのだろうか。彼女は何を求めているのだろうか。

 ……いや、そんなことを知ってどうする。

 私も残りのラムネを飲んでベンチを立った。

「そろそろ帰るわ」

 もう十分お祭りも堪能できた。案外こういうのも悪くはない。

「残念。もう少しお話したかったけど。ねえ、また会える?」

「まあ、同じ大学にいるわけだからたまにはすれ違うかもしれない」

「そういうことじゃなくてさ」

 硝子は私の手を取って自分の胸の辺りまで持ってきた。ラムネで濡れた彼女の手は少しベタベタしていた。でもたぶんそれは私も同じだろう。

 硝子は私の目をじっと見た。

「ねえ、私たち……」

 しかし、硝子の声は怒号のような大きな男の声で遮られた。


「おい! お前たち!」


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フツカヨイ 安槻由宇 @yu_azuki

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