『完璧な新人類』は、赤い砂漠で最初の過ちを犯す
三角海域
『完璧な新人類』は、赤い砂漠で最初の過ちを犯す
火星の荒涼とした大地に、巨大なガラスのドームが鎮座している。その内部は、異様なほどの静寂に包まれていた。
数百あまりの新人類が、そこで暮らしている。かつて地球の科学者たちが遺伝子を操作し、あらゆる非効率を排除した末に作り上げた、「ホモ・マルティア」と呼ばれる存在たちだ。
火星の薄い大気に耐えられるよう設計された肺。低温に適応した循環器系。彼らは地球人類よりも遥かに優れた身体を持っている。
ただし、それでもなお完璧ではない。ドームの外に出れば、三時間ほどは活動できるが、それを超えると体内の酸素変換機能が限界を迎える。
彼らは会話をしない。表情も動かさない。まるで精密な機械のように、集団として"最も合理的な動き"だけを選び取って行動する。そこには争いも誤解もなく、無駄な時間は一秒たりとも存在しない。
「見事な眺めだ」
スピーカーから、出資者であり、この小さな世界の所有者である富豪の声が響いた。彼は地球の安全な場所から、毎日のようにモニター越しにこの光景を眺めている。
「言葉という不完全な通信手段を捨て、個という悩みからも自由になった姿だ。これこそ人類の理想だ。君もそう思うだろう?」
「ええ」
私は短く答えた。人間関係の疲れに押しつぶされてここへ来た私には、その静けさは確かに心地よかった。
だが、心の奥の方に靄がある。それは一体なんなのか。
その日、モニターにエラーが表示された。ここへ来てからはじめてのことだ。
識別番号「一〇八」。その個体が、群れの規則正しい動きから外れた。
一〇八は赤い砂の上にしゃがみ込み、指先で地面をなぞり始めた。描かれたのは、不格好な"渦"の模様だった。
その瞬間、ドーム内の空気が一変した。
他の個体たちが一斉に足を止めたのだ。一〇八の行動が、彼らの共有意識に小さなひびを入れたらしい。完璧な調和に、一瞬のずれが生まれた。
「効率が低下した」
富豪の冷たい声がスピーカーから響く。
「その個体は不良品だ。すぐに処分しろ」
私は処分コマンドに指を伸ばしたが、その手を止めた。一〇八は渦を描き続けている。
「待ってください。彼女は何か〈表現〉しようとしているのではないでしょうか?」
「彼女?」
富豪が呆れたような声をだす。
「それは"個体"であって"部品"だ。性別による役割などという非効率は排除してある」
「ですが、彼女は何かを表現しようとしているように見えます」
「生存に役立たない行動は、すべてバグだ。論理的に考えたまえ」
富豪は続ける。
「このプロジェクトの元主任科学者は、我々を『虐殺者』と呼んだそうだな」
私の手が震えた。
「彼は最後まで、この計画に反対していた」
富豪の声は淡々としている。
「人類が何千年もかけて積み上げてきたすべてを捨て去るのは、文化の虐殺に等しい、と。彼はそう言って研究所を去った」
「……はい」
「だが私は彼の考えに賛同できない。彼は人類の現状を嘆いていた。私もそうだ。しかし彼は嘆くだけで何もしなかった。一方、私は行動した。人類という種をアップデートしようとした。どちらが正しいと思う?」
答えられなかった。
「一日かけてじっくり考えてみるといい」
通信は一方的に切られた。
翌朝、ドーム内の様子を見てみると、ガラス壁の前に一〇八が立っていた。まっすぐに外を見つめている。その瞳に宿っているのは、強烈な〈知りたい〉という渇望だった。
彼女は外の砂漠を指差した。致命的な大気が漂う未知の世界を、見てみたいと訴えるように。
「何を迷う必要がある」
突然、スピーカーから声が響いた。
「完璧な世界がたった一度の過ちで崩壊してしまうのなら、我々がすべきことはひとつしかないだろう」
私は処理用スイッチに手をかける。これを押せば、一〇八の細胞は破壊され、絶命する。
だが、そのことに対する疑問が胸をよぎった。
変わらないこと。失敗しないこと。それは安定かもしれない。
だが、そのことを生きていると言えるのだろうか。
「オーナー、あなたの考えは誤っているのかもしれません」
「何だと?」
「彼女は進んで過ちを犯そうとしているのです。リスクを負ってでも、利益にならないことをしようとしている」
「過ちは正しさを生みはしないだろう」
「他者が定めた正しさを、人は正しさとは呼ばない。それは支配です」
私はゲートの開閉ボタンを押した。
空気音とともにエアロックが開き、一〇八は赤い砂漠へと踏み出した。
その瞬間、ドーム内のすべての個体が動きを止めた。全員の視線が、彼女の背中に注がれる。
今までひとつだった意識が、ばらばらに分かれ始めるのが分かった。
それぞれの瞳に、初めて独立した思考が宿る。
静寂は破られた。
一〇八は赤い砂漠を歩き続けた。一歩、また一歩。彼女は自分の身体の限界を知らない。三時間後には呼吸が苦しくなり、四時間後には意識が遠のくことを。
二時間が経過した頃、彼女の動きがわずかに鈍くなった。体内の酸素変換効率が低下し始めたのだ。それでも彼女は立ち止まらない。地平線の向こうに何があるのか、その目で確かめたいという衝動だけが、彼女を突き動かしていた。
そして、それからさらに数十分後。
一〇八は、ゆっくりと振り返った。
遠くに見えるガラスのドーム。そこへ戻れば、苦しさは消える。それを本能が告げていた。
彼女は静かに歩き出した。ドームへ向かって。誰に強制されたわけでもなく。
モニター越しに、私はその姿を見つめていた。
「見ろ」
富豪の声が響く。
「結局、戻ってきた。自由など幻想だ。生物は生存本能という檻から逃れられない」
「いいえ」
私は答えた。
「彼女は戻ることを"選んだ"んです」
「同じことだ」
「違います」
私は画面を見つめた。ドームに戻った一〇八は、他の個体たちに囲まれていた。彼らは何かを確かめるように彼女に触れた。
「彼女は外の世界を見た。そして限界を知った上で、それでも生きることを選んだ。それは本能に従ったのではなく、自ら選択したんです」
これから彼らの間には、意見の対立も生まれるだろう。誤解も、争いも、孤独も避けられない。
しばらくの沈黙の後、富豪の声が響いた。今度は、どこか愉快そうな響きを帯びていた。
「君は本気で、彼らの『選択』などというものを信じているのか?」
「はい」
「ならば、賭けをしよう」
富豪はこう続けた。
「意志を持った共同体がどうなるか、君も知っているはずだ。彼らは争い、憎しみ合い、やがて崩壊する。地球の歴史が何度もそれを証明してきた。この共同体も例外ではない。いや、彼らは遺伝子レベルで強化された存在だ。憎悪もまた、普通の人間より遥かに効率的に発展するかもしれない」
「それは……」
「君が正しければ、彼らは調和を保てる。選択の自由と共同体の安定を両立できる。だが私が正しければ、彼らは自滅する。どちらが正しいか、君自身の目で確かめたまえ」
「どういう意味ですか」
「君を迎えに来る予定だった宇宙船は、もう来ない。プロジェクトを失敗に終わらせた責任は、この共同体の行く末を見届けることで果たしてもらう」
なるほど。これが死刑宣告というものか。
「君が生きるための物資は、現存する分で三ヶ月は持つ計算だ」
事務的な声だった。感情など欠片もない。
「それ以降の補給プランは白紙だ。プロジェクトは本日付で凍結、君との雇用契約もこの通信をもって終了となる」
「……新人類も見捨てるのですか?」
「損切りだ。不良在庫を抱える趣味はない」
ノイズさえ残さず、通信は途絶えた。
私は窓の外を見た。一〇八が、他の個体たちと何かを、おそらく外の世界のことを共有しようとしている。不器用に、ぎこちなく。それでも必死に。
膝から力が抜けそうになった。だが、次の瞬間、妙な感覚が胸に広がった。
恐怖でも絶望でもない。安堵に近い何かだった。
私は宇宙服に身を包み、居住区のドアを開けた。旧人類の身体は脆弱だ。ドーム内の気圧と酸素濃度は新人類に最適化されている。つまり、私には足りない。
エアロックを通過し、ドームの中へと足を踏み入れた。
新人類たちが、静かに道を開ける。彼らは素肌のまま、この環境で呼吸している。私は重い装備に守られて、ようやく同じ空間に立てる。
その対比が、妙に滑稽だった。
私は一〇八の前に立ち、手を差し出した。
握手という概念を、彼らはまだ知らない。一〇八は無表情のまま私の顔を見つめ、それから視線を私の手元へ落とした。
彼女は、ためらいがちに手を伸ばす。赤い砂に汚れた指先が、私の分厚いグローブに触れた。
モニター越しに見たときは陶器の人形のように見えた指が、今は小刻みに震えているのが分かる。酸素不足か、あるいは恐怖か。その震えが、隔絶された素材越しに私の掌へと伝わってきた。
ガラスの向こうでは、太陽が沈もうとしている。これから長く、凍えるような夜が来るだろう。
争いも起きるかもしれない。後悔に苛まれる日も来るかもしれない。
それでも、私は握った手に力を込めた。
彼女もまた、私の手を握り返した。
なにが正解かなんて、誰にも分からない。
非効率で不揃いな足跡が、これから赤い砂漠に刻まれていく。
『完璧な新人類』は、赤い砂漠で最初の過ちを犯す 三角海域 @sankakukaiiki
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