ブロンズの少女
真白透夜@山羊座文学
僕と山田と少女像
山田は――目が見えなくなる前にあの絵画を細部まで覚えていよう――と言った。山田は、小説の中の少年だ。
僕にもいつかそんな日が来るのではないかと思っていた。山田は戦争により荒廃した地域にいるため、刻一刻と失われていく視力に抗う術はなく、失明する運命だった。一方、僕はそうなってもらわなくては困る運命にいた。弱々しくて寝込みがちだった僕に、周りは親切だった。病弱な僕が僕である。もし山田と同じように目が見えなくなれば、僕は誰かの「同情」という胸の痛みを受け取ることができる。そういう得体の知れないストーリーに僕は従わなくてはならず、その第一歩として僕は山田と共に日常を過ごした。山田は資産家の息子で、身の回りの世話をしてくれる使用人がいる。山田は毎日毎日何時間も一枚の絵を使用人に用意させ、じっと見るのだった。たとえば、美しい蓮池。天使と女。貧しい農民の姿。
残念ながら、僕の家にはそのような絵画なんてなかった。世界が見えなくなる前に、何を見たら良いのか。学校の図書館で画集を開いてみるものの、それはやはり何か違った。薄らと光を帯びたページに映る絵画は素晴らしいに違いないが、僕の闇に向かうスクリーンに写しとるには、ざらつきもにおいも温度も無かった。
僕は誰とも共有できない失望と僕の事情により小説のページを進めることができない持て余した時間を抱えながら、学校の帰り道をだらだらと歩いた。こんな田舎町には山田の眼球に焼きつけるに相応しいものなどない。あるのは今にも崩れそうな空き家や枯れた紫陽花、塗装が剥げたガードレールだ。
だが、ふと橋のたもとに差し掛かったとき、そこにブロンズ像が立っていたことに気付いた。おさげの少女が一輪の花を胸元に持ち、佇んでいる。少女らしいスカートや裸ではなくタンクトップに膨らみのあるズボンで、いかにも田舎の少女らしい服を着ていた。僕は、彼女を記憶することに決めた。彼女なら、山田にも負けないと思えた。
小さな鼻、くっと結ばれた口、遠くの山を見つめる目。服の裾はズボンに引き込まれ、生まれた皺が僕と彼女を結びつけた。少年らしくあれと望まれていることや、大人たちの計画に歯向かう気はなかった。諦めていたわけではなく、自由を手に入れたところで、それに匹敵する自分を得ていなかったからだ。山田はどうだったか。山田の失明はただの視力を失った生ではなく、死への一階段に過ぎないと思っていた。山田は、絵画を見て、自分を見て、死を見ていた。自由への入り口に絵画を選んだ山田は、もう大人ではあるまいか。では、僕は?
数日に渡り、目を閉じる度にブロンズの彼女を思い出すようにした。より正確に。口角の傾きから、溶け出したブロンズの具合に至るまで。暗闇の中に彼女との出会いを何度も再現した。彼女は一度たりとも僕を見ず、目の前の山を見つめていた。もしかして、山の向こうを見ていたのかもしれない。それを希望と呼んだり、未来と呼ぶのかもしれない。台座のプレートに書いてあったかもしれないが、読まなかった。山田は魂の連れ合いの意味を知っているのだろう。僕は知らなかった。それが僕と山田の違いだった。
あれから――僕は町を離れることになった。戦争のせいではなく、父の転勤で。本は段ボールのどこかにしまわれたまま無くしてしまい、僕が失明するような出来事もなく、あれほど苦労して覚えた少女の姿も日常で思い出すこともなかった。
そうして二十年の歳月が過ぎた。帰省という大人の行事をこなすようになり、何回目かでようやく彼女の存在を思い出した。当時のお礼を……と、不思議な気持ちが起こった。家族団欒の隙間を縫って橋へ向かった。
すでに夜になっていた。相変わらず街灯は少なく、住宅の灯りも弱々しい。ただ、昔に比べて新しい家が増えていた。クリーム色の外壁や鮮やかな藍色の屋根、真新しい砂利は、土地の臭気を浄化していて、夜空すら時代に合わせた清涼感を帯びていた。
橋に辿りついて、あの場所に立った。そこに、少女の像はなかった。確かにここだったはずなのに。
あれだけの像が無くなるものだろうか。辺りを見回し、橋の反対側まで行ってみたが、どこにも像はなかった。記憶違いだろうか。いや、この辺に似たような像など無い。ならば捏造? 山田の家にあったものを、勝手に本物だと認識したのだろうか。
結局、確かめることはしなかった。そこに像がなかったかと、聴き回ったりしない。知ったところで何にもならないから。故郷を出た僕に、彼女の行方を追う資格はない。
僕は少年時代から変わっていない。大人の殻を持たないまま、従順にもなり切れず、自由に生きる強さもない。盲目に憧れていた僕は目を瞑ることを覚えただけだ。そうして生きていることを、山田ならどう思うだろうか。
ふと、ブロンズの彼女は本当は生きていて、ただブロンズに塗り固められていただけだったのではないかと思いついた。――殉教。見るのをやめないという覚悟。山を、山の向こうを、今を、未来を一身に受け止めるという強い意志。
彼女はまばたきをしていたか。僕は見逃してしまったが。少しくらい、僕のことを覚えていてくれないか。大きな学校のカバンを背中で揺らしながら駆ける、至極臆病な少年の姿を。僕のことなど露も知らない、山田の代わりに。
了
ブロンズの少女 真白透夜@山羊座文学 @katokaikou
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