生を選べなかった私たち

あの山田

1-1

朝六時、机の上の付箋だけがまた増えていた。

昨夜、確かに全部剥がしたはずなのに、薄い色の紙が一枚だけ、しれっと背広みたいに積み重なっている。


軽い休憩がてら、トーストと紅茶を用意し、窓を開けた。

「ちょっと紅茶、濃かったな……」

そう呟いた声だけが、妙に寝起きの部屋に響いた。喉の奥が少し痛い。寝不足のせいだろう。


空は茜色に染まっている。受験までもう残り半年を切っているが、模試の結果は芳しくない。正確には第一志望に届くか怪しいというだけで、平均は上回っている。だが結局のところ、目標に届かなければ受験では敗北だ。敗戦処理のように四年間を過ごすだけである。


歯を磨きに一階へ降りると、両親がニュース番組を見ていた。

内容は、見なくてもだいたい分かる。誰が亡くなった、誰が逮捕された。政治家が、芸能人が……。

ここ最近、良いニュースを聞いた覚えがない。景気悪化、物価上昇、人員削減、企業の赤字。なぜか、そういう話題だけ耳に残る。


企業の応募枠が余りに足りなくて、一流大学を出てもアルバイトや家業に回る人が増えている――そんなニュースも見た。

私はたしかに、上位数%には勝てない。しかし上位10%には入っていると自負している。だが、それでは足りない。上位1、2%が定員枠を奪い合う “あの大学” には届かない。


学校に行く支度をする。リュックは今日も重かった。肩にかけた瞬間、わずかに沈む。

単語帳をめくりながら歩いていると、いつの間にか学校に着いていた。大学受験に真剣に取り組む者と、そうでない者の意識が日に日に離れていく。中学からの友人はもう受験を諦めたらしく、毎日ゲームセンターや公園で遊び惚けている。

――ある種、合理的なのかもしれない。

“あの大学” に入れなければ負け、その他は大学と呼ばれないような世の中なら、諦めた者が遊び尽くすのは、ある意味で正しい選択なのだろう。


時々、この競争がそもそも成立しているのか分からなくなる。

上位1、2%以外が負け組だというなら、それはもう競争ではなく線引きだ。“あの大学”に入っても大学内で競争し、就活でまた競争し、就職後も競合他社や社内で競争する。

勝ち続けた者が豊かになるのは当然だと思う。金メダルの代わりくらい、貰っていい。

だが私は、まだどこにも勝てていない。負けてもいないが、半年もすれば、自分の負けを抱えたまま “その他大学らしき場所” に行くのだろう。

就職難も、卒業するころには解決していてほしい――そんな他力本願を、最近はよく考える。


学校の教員たちも “あの大学” を基準に授業をしている。直接は言わないが、彼らも線引きをしているのが分かる。私はなんとか、なんとかしがみついているが、それでも厳しい。

諦めるつもりは一切ない。だが、自覚はしている。


この時代だからか、最近は専門学校に進む人が増えているらしい。

学業以外の競争にシフトしたのだ。

もし私に芸術や音楽、料理の才能があるなら、そっちを選んでいたかもしれない。もっとも、その才能を自覚できていたかどうかは怪しいが。


ただ、彼らも相当な賭けだ。

十年以上続けた勉強での競争を捨て、幼い頃からそれに専念してきた本物たちの世界に殴り込みに行くのだから。

……まあ、この就職難がいつ解決するかも分からない以上、私も大概ギャンブラーなのだろう。


 


昼頃になり、ようやく皆一息つく。だがペンだけは離さない。

ゼリーやサンドウィッチ、おにぎりを片手に、もう片方の手で問題を解き続ける。

私たちにとって休憩とは、栄養を摂り、凝り固まった首や肩を伸ばし、トイレに行くために立つ――ただそれだけだ。遊ぶでもなく、眠るでもない。

そんなことをすれば、何かが音を立てて崩れる気がする。誰に追い越されるか分からないし、負けたときの言い訳もなくなる。それを本能で理解している。


栄養補給を済ませ、ここからが折り返しだと自分に言い聞かせるように、ペンを握る手に少しだけ力を込める。


日が沈み、最後まで残っていた数人の同級生と一緒に学校を出る。

皆、私より賢い。

劣等感が喉の奥に張りついたまま、街灯の下を歩く。家に向かうこの帰り道だけが、一日の中で唯一まともな休憩時間だ。歩きながら勉強するには暗すぎるし、ずっと座っていた身体もようやく動く。


街灯の下でふと立ち止まる。

突然、涙が零れた。理由は分からない。喉の奥がひりつき、足は勝手に震え、呼吸だけが浅くなる。

街灯を背もたれにして座り込んだ。こんなことをしている時間はない、と何度も言い聞かせるが、身体が言うことを聞かない。上を向いても、街灯の光が空を奪い、星のひとつも見えない。


水筒の水を飲み干し、遠くの暗がりをただ眺めた。

意味があるとは思えないが、他にできることがなかった。


家に帰れば、夕食を食べながら暗記し、風呂でも暗記する。

最後に遊んだのがいつだったか思い出せない。それでも、やるべきことだけは分かっている。

頬を軽くはたき、目を覚ます。

今度こそ立ち上がり、私は家に向かって歩き出した。

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