青いボタン

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

青いボタン

九時になると、僕は席を立つ。

地下二階へ向かう階段は、会社のどこよりも冷えていて、足音だけがやけに響く。


最奥の小部屋。

薄暗い壁に、ひとつだけボタンが埋め込まれている。


くすんだ灰色。

少し緑が混じった鉄の色。

青さは一滴もない。


それでも会社のマニュアルには「青いボタン」と書かれている。


三年間、毎朝押してきた。

その意味は知らない。

押すことで何が変わるのかも知らない。


ただ、九時に押す——それだけだ。


指で押す。

カチッと乾いた音がして、淡い光が灯り、消える。


今日も、それで何かが変わったのかもしれない。

でも、その変化を僕は見たことがない。


***


昼休み、同僚が僕の弁当を覗いて言った。


「今日の卵焼き、青くて美味しそうですね」


僕は箸を止めた。


卵焼きは、どう見ても黄色だ。

焦げ目は薄い茶色。

不自然さはない。


「いや、青じゃなくない?」


「え? 青でしょ、明らかに。」


同僚は不思議そうに目を丸くした。


(黄色だけど……)


そんな違和感が胸に沈んだままだった。


***


翌朝も九時に押す。

階段を上がると、観葉植物が目に入った。


葉は、いつも通りの濃い緑だ。


「この木の赤、ほんと綺麗ですね」


すれ違った女性社員が言った。


「赤……? 緑でしょ」


「緑……?」

彼女は目をしばたかせ、「いや、赤でしょ。普通に」と続けた。


僕はそれ以上言わなかった。

見間違いをしているのは、もしかしたら僕かもしれない。


ただ、心のどこかが冷えていくような感覚があった。


***


色の呼び名のズレは、徐々に増えた。


青で作ったグラフを「黄色」と呼ぶ後輩。

緑色の表を「白い表」と言う先輩。


色そのものは変わっていない。

でも、人が呼ぶ名前だけが、合わなくなっていく。


***


週末、公園を散歩していると、白い犬が駆け寄ってきた。

幼いころからよく知っている犬だ。

散歩の時間も、飼い主のおばさんも、昔からずっと同じ。


「まぁ、久しぶり。会うと元気になるわねぇ」

飼い主のおばさんは笑い皺を深くしながら言った。


「今日もこの子の黄、きれいでしょ」


「黄……?」


僕は犬の背に手を置く。

毛は今日もやわらかく白い。

陽に透ける白さだった。


「白……じゃなかったでしたっけ?」


「白?」

おばさんは首をかしげ、スマホを取り出して画面を見せた。


そこには幼い頃の犬の写真があった。

写真の犬は、やっぱり白い。


ただ、写真のタイトルだけが

『生後三か月 黄の子犬』

と表示されていた。


「ほら、昔から“黄”だったでしょ」と、おばさんは当然の顔で言った。


僕は笑うこともできなかった。


(白いままなのに……どうして“黄”なんだ)


世界が変わったというより、言葉だけが別の場所へずれていくようだった。


***


夜、洗面台で自分の手を見つめた。


色は変わらない。

ただ、名前が少しだけ遠く感じる。


(これは……何色だっけ?)


そんな疑問がよぎるたび、胸がざわついた。


***


翌朝。

九時のアラームは鳴ったが、僕は立たなかった。


押せばいい。

押せば、また何かが上書きされる。


でも今日は押したくなかった。


主任が近づいてきて言った。


「後任の子が入ったから、今日から任せるよ。無理するな」


「……はい」


胸がなにかごそっと沈んだ。


***


夕方、どうしても気になって地下に向かった。


小窓から部屋をのぞくと、新人がボタンを押すところだった。


カチッ。

光る。

消える。


「これが青いボタンなんですね! 思ってたより地味な青だなぁ」


新人は楽しそうに言った。


ボタンは——どう見ても、灰色だ。


僕は呼吸が浅くなるのを感じた。


(……いや、これは……何色だ?)


見えているはずなのに、その「名前」がうまく結びつかない。


***


階段を上がる途中、手すりの金属を見つけた。


灰色。

でもその“灰”が、どんな色だったのか急に曖昧になった。


(あれ……?)


名前が、落ちていく。

色がすべり落ちるように消えていく。


***


席に戻ると、主任が声をかけてきた。


「次の定期点検、ちょっとだけ手伝ってくれる?」


僕は自然に微笑んだ。


「はい。じゃあ……あの青いボタン、押してきますね。」


言った瞬間、頭の中で思い浮かべた“灰色”のボタンと、口から出た“青”が、まったく合っていないことに気づいた。


あれ? 本当に、何色だったんだっけ。


目にはちゃんと色が見えているのに、その名前がうまく出てこない。

考えれば考えるほど、余計にわからなくなる。


ただ一つだけはっきりしていた。


もう、僕の中の“正しい色の呼び方”は、だいぶ前にどこかへ行ってしまったんだ。

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