エンドロールの手前で

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

エンドロールの手前で

 胸の奥が、ゆっくり沈んでいく。

 呼吸の形がぼやけ、音が遠のく。

 自分の身体が、自分から離れていくような感覚。


 ああ、こんなふうに終わるのか。

 らしいと言えば、らしいな。

 肝心な場面ほど、俺はいつも遅れてばかりだった。


 暗闇の奥で、薄い光が立ち上がる。

 目を開けた覚えはないのに、 スクリーンがゆっくり浮かび上がる。


 そこに映ったのは、彼女だった。


 ……一番見たくないのに、 一番見たかった顔。


 彼女には彼氏がいた。

 真面目で、誠実で、俺なんかよりずっと立派な人間。

 なのに、弱いところだけは俺に預けてきた。


 俺は「たまたま聞いた」みたいな顔で受け取り、 彼女は「たまたま話した」みたいな顔で話した。

 本当はどっちも嘘なんだけどな。


 ***


 ある日の昼下がりの廊下。

 俺は、彼女を避けるように少し早足で通り過ぎようとした。


 挨拶もしない。

 視線も合わせない。

 気づかないふりだけは、やたら上手い。


 ほんとうは、気づいていたくせに。


 彼女は立ち止まったまま、何も言わなかった。

 追ってくる素振りもない。

 けれど、空気だけがこちらに向いた気がした。


 その静かな瞬間に、淡い文字が重なる。


 ——「あなたが少し遠ざかるたび、

   わたしの気持ちはあなたを探していた」


 俺は振り返らない。

 見たら終わる。

 でも、見なくても分かった。


 あのとき、視線でも声でもなく、心だけが寄ってきていた。


 ***


 非常階段。

 手すりを握って、泣きそうにしている彼女。

 その隣で、俺は壁にもたれたまま視線を逸らす。


 慰めれば寄ってきてしまう気がして、寄られれば自分がどうなるか分からなくて、だから雑に言う。


「泣くなって」


 ほんとうは、もっと言いたかったのに。


 あの小さな呼吸に重なるように、文字が滲む。


 ——「優しいあなたは近すぎて、

  冷たいあなたは、触れられないほど遠かった」


 そこに立っていた俺は、近すぎることも、遠すぎることも、どちらもやってしまっていた。


 正解を、一度も掴めなかった。


 ***


 既読を付けたまま返せなかった夜。

 スマホを伏せて、天井を見た。


 面倒だからじゃない。

 冷たくしたいわけでもない。


 彼女の返事の“期待”を見るのが、怖かった。


 別の日には、「寝ろ」とか「気にすんな」とか、反射のように雑な一言を送った。


 救うためじゃない。

 自分の呼吸を整えるためだった。


 けれど、画面には淡い文字が浮かぶ。


 ——「あなたの沈黙で傷つき、

   あなたの雑な一言で救われた」


 ***


 駅のホーム。

 夕方のアナウンスがゆっくり響く。


 彼女は彼氏と通話を終えたあと、ふと視線を宙に揺らした。


 ほんの一瞬。

 誰にも分からないくらいの、小さな揺れ。


 そこに淡い文字が重なる。


 ——「正しい場所にいようとするほど、あなたを思い出した」


 あの瞬間のことを、俺は気づかないふりでやり過ごした。


 気づけば戻れないし、気づかなくても、どこにも行けなかった。


 ***


 最後の映像。

 彼女が少し寂しそうに笑っていた日。


 薄い文字が落ちてくる。


 ——「わたしは、あなたに助けられてばかりだった」


 でも、彼女はずっと、自分のほうが『助けられていた側』だと思っていた。


 胸の奥がゆっくり軋んだ。


 助けた覚えなんてない。

 逃げた記憶のほうが多い。

 触れそうで触れず、踏み込めそうで踏み込めず、そういう日ばかりだった。


 その“思い込み”が、どうしようもなく優しくて、痛かった。


 ***


 光が弱まり、視界がぼやける。

 世界が遠ざかり、身体の境界がゆるんでいく。


 最後に残ったのは、ずっと飲み込んでいた言葉だけだった。


 言えば壊れると思っていた。

 言ったら全部変わる気がしていた。

 だから、生きている間は絶対に言えなかった。


 でも、もう終わるなら。


 喉が震え、一度も形にできなかった本音が、ようやく滲んだ。


 


「……救われてたのは、俺の方だよ。」


  それさえ、言うのがやっとだった。


 胸の奥が、すこしだけ軽くなった気がした。


 光がゆっくり消えていく。


 本音は、いつも最後にしか追いつかない。

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