この家は静かすぎる

侘山 寂(Wabiyama Sabi)

この家は静かすぎる

 玄関が開いて、娘が帰ってきた。


「ただいま。」


「おかえり。」


 娘の髪がふわっと揺れ、その端で何かが一瞬反射したように見えた。

 父の周囲だけは空気が動かず、本棚のほこりひとつ揺れない。


「今日、賞状もらったの。」


 娘は紙を広げる。

 紙の角がふわりと浮き、淡い風が指先をくすぐった。


「すごい。」


 父の声はいつも通りだった。

 その静けさが、娘の胸の奥に小さな違和感を落とした。


 ***


 放課後、友達の家。


「見て、昨日買ってもらったの!」


 友達がゲーム機を掲げると、部屋のカーテンが揺れ、その揺れの縁が薄く明るく見えた気がした。


 友達の母親が笑って言う。

「喜んでるときは、だいたいこうなるのよ。風が入ってくるみたいでね。」


「……いいな。」と娘。


 家では、部屋がこんなふうに揺れたり、何かがきらめいたように見えたりすることはほとんどない。


 友達が軽く言った。

「ねえ、昨日さ、町のほうで風すごかったよね。」


 母親がうなずく。

「ニュースでもやってたわよ。木が何本か倒れたって。」


 娘は笑いながらも、胸の奥がひやりと冷えた。


 ***


 夕食時。


 テレビをつけるとニュースが流れ始めた。


『本日未明、広い範囲で突風が観測され——』

『“光の線のようなものを見た”という通報も、多数——』


 画面に映る街の夜景の一部が、霞んだように細く明るんだ気がした。

 娘は箸を止める。

 父は静かに味噌汁をすくっている。


 娘はぽつりと言った。


「外ばっかり騒がしいのに……うちは何にも変わらないよね。」


 父が視線だけこちらに寄こす。

 娘は慌てて笑った。


「いや、別に。なんでもない。」


 そのごまかした笑顔が、子どもっぽくて、少しだけ痛かった。


 ***


 卒業式の日。


「お父さん、こっち。」


 娘が手を振る。

 笑った瞬間、校庭に軽い風が起き、風の流れの中で空気がきらっと揺れたように見えた。


 父はただ静かに立っているだけだった。

 彼の周囲の空気はまったく動かなかった。


「卒業したよ。」


「……ああ。」


 娘の声には、ほんの少し期待が混じっていた。


「ねえ……今日くらい、もっと……なんか言ってよ。」


 父は口を開きかけたが、風も霧も何も起きない。


「よかったな。」


「……それだけ?」


 娘の声が震えた。

 足元に薄い霧がほどけ、その外側がうっすら明るくなった気がした。

 すぐに消えた。


 父の周囲だけは、不自然なほど静かだった。

 霧は寄らず、空気は動かなかった。


「私ね……お父さんの前だと、いつもひとりで喜んでるみたいで、なんか……変なの。」


 父は沈黙した。


 娘の胸のどこかが決壊した。


「ほんとに……何も感じてないみたい。」


 涙が落ち、霧がふわりと広がった。

 その縁が淡く揺らめいた気がした。


 父の影はひとつも動かなかった。


「もういい。」


 娘は友達の輪へ走っていく。

 風がその背を押し、何かがそこで瞬いた気がして、すぐに消えた。


 父の周りには、やはり何も起きなかった。


 ***


 翌朝。


「……行ってきます。」


 娘は振り返らなかった。

 声が昨日より少し遠い。


「行ってらっしゃい。」


 外では、昨夜の強い風の名残りなのか、電線だけがわずかに揺れていた。

 木々は静かで、何がどうしてそうなっているのかは分からない。


 でもまあ、このあたりはいつもこんなものだし——

 娘はそんなふうに思いながら靴を履いた。


 父が触れた取っ手は何も起こさない。

 ただ、娘が昨夜触れたときの名残りなのか、金属の表面がほんの一瞬だけ明るんだように見えて、すぐに消えた。


 父の周囲は静かだった。

 朝の淡い光だけが道路に落ちていた。

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