乗れない電車

夏蜜

第1話

 壮介はひどく神経質な面持ちで、プラットホームの待合室に座っていた。ボストンバッグを懐に抱え、落ち着かなさそうに貧乏揺すりを繰り返す。

 無人駅である田舎の駅は閑散としており、正午を少し過ぎた待合室には他に利用客はいない。電車やバスを乗り継いて遥々やってきたはいいが、自分でも知らないうちに辺鄙な地まで来てしまい、先を急ぐ彼を不安にさせる。

「電車、まだかな……」

 そわそわと腕時計を見ながら、アルミドア越しに線路を窺う。辺りは朽葉色の山々に囲まれ、都会とは違い車両の走行音ひとつ聞こえてこない。掲示板の時刻表は色褪せており、もう何年も放置されていることを知らせている。

 時刻表が未だに正確ならば、電車はとうに来ているはずなのだが、壮介の気持ちとは裏腹に望みのものは一向に現れる様子はない。しかし、正確な時刻を尋ねる者もいないとなると、ひたすら待つしかなかった。


 そこへカラカラと地面を響かせる軽快な物音が近づいてきた。突然聞こえた人の気配に壮介は身構え、いっそう挙動不審になる。

 待合室を潜ってきたのは、小振りなキャリーケースを携えたひとりの女であった。柿色のボーラーハットを被り、手には臙脂色の皮手袋をはめ、真新しそうなトレンチコートをきっちりと着込んでいる彼女は、いかにも旅行客といった装いである。

 女は壮介と一席分置いてスチール椅子に腰を下ろした。ショートブーツを履いた脚を、やや斜めに壮介の方へ向ける。距離の近さに壮介は女を訝しみつつも、整った横顔をちらちらと盗み見ては、醸し出される妖しい雰囲気に魅了されるのだった。

 壮介の視線に気づいた女が、軽く会釈をしてきた。つられて、壮介も猫背の姿勢を保ったまま頭を下げる。もうじき三十を迎える壮介より、だいぶ落ち着いた風貌から歳上を思わせた。

「貴方も遠出ですか?」

 ボストンバッグを一瞥し、女は問いかけた。壮介は平静を装うように居住まいを正して「ええ」と短く答える。

 傍から見れば、だいぶ草臥れたスーツを着ているとはいえ、ごく一般的な会社員だと勘違いされても何もおかしくはない。壮介はボストンバッグを握り締め、「出張なもので。まったく嫌になりますよ」と、それらしい言葉を付け加えた。女が納得したふうに相槌を打ってくれたので、壮介はひとまず胸を撫で下ろす。

「私は久しぶりにキャリーケースをクローゼットから出して、あてのない長旅をしようって急に思い立ったんです。大事なものを詰めて、ね」

 女は楽しそうに笑い、キャリーケースの上部を撫でる。その手つきがあまりにも人に対する愛情表現に類似していたため、壮介は軽い違和感を覚えた。そのうえ、あてのない長旅という割には、せいぜい一拍旅するくらいの大きさである。

 壮介が奇妙に思っていると、木枯らしがドアをガタガタ言わせた。薄墨色の空がはめ殺し窓から垣間見え、冬の到来を感じさせる。なぜだかこの無人駅に取り残されたような、非現実的な感覚が壮介を襲い、居ても立ってもいられなくなって女に尋ねた。

「ところで、電車っていつ頃来るんでしたっけ」

 女は壁の掲示板に目を遣る。もう二十分は遅れていることになるが、女から返ってきたのは、やはり時刻表とは違う答えだった。

「あれは、五十分ずれているんですよ。しかも、これを乗り過ごしたら次はありませんの」

 壮介は訊いておいてよかったと安堵したが、なにぶん待ち時間が長い。そこへ女が、ふたりを隔てている空席に手を付いて、身を乗りだしてきた。不意に距離を縮められ、壮介はドキリと胸を高鳴らせる。

「少々子供じみておりますけど、しりとりでもしませんか」

「え、しりとりですか」

「はい。お時間までちょっとした遊びをどうでしょう」

 突拍子もないことを言いだすと思ったが、時間を潰すには丁度よいと考え、壮介は女の提案を受け取ることにした。

「いいですとも。ところで、最初は何にしますか」

「そうですねえ……では私から」

 女の「旅行」というワードを合図にしてしりとりを始めた。壮介は咄嗟に「漆塗り」と返す。すると女は「さっそく〝り〟被りですね」と口に手を当てて笑うので、壮介は気分がだいぶ楽になった。

「すみません、僕は漆塗りなんて詳しくもないのに、真っ先に思いついたのがそれで」

「いいんですよ、しりとりですから。最後に〝ん〟で終わらなければ何でも」

「あはは、そうですね」

「では続きを……」

 リズム、無線機、絆、ナルトと順調に進む。壮介は油断していた。自分の置かれている状況を忘れていたといってもよい。

「ナルトのト……。ああ、やっと思いついたわ。とうし」

「え?」

 壮介はたった今緊張がほぐれたばかりの体を瞬時に強張らせた。あまり聞きたくない単語であった。壮介はあえて反対の意味で確かめてみた。

「とうしって、あの凍えて死ぬほうの」

「いいえ、将来を見据えて投資する、のほうですわ。びっくりさせて御免なさいね」

「いやいや、別に」

「投資って、私には難しくてやったことがないのだけど、貴方みたいな誠実そうな人なら詳しく教えてくれそうね」

「いやあ、買いかぶりすぎですよ」

 バクバクとうるさい心臓をなんとか抑えようとする。凍死だろが投資だろが、本来ならどちらでも構わないことだ。ただのしりとりなのは分かっているが、どうしても過敏に反応してしまう。

「し、し、ですよね。ああ、そうだ。心理」

 また配慮もなく〝り〟で始まるものを相手に返し、壮介は慌てふためいた。これでは、まるで自分が負けまいとムキになっているみたいだ。それとも、動揺しているのを悟られるだろうか。

 女はそんな壮介の気持ちを余所に思案中である。

「じゃあ、リスク」

 壮介は言葉を詰まらせた。この握っているボストンバッグには、決して他人に触れられるわけにはいかないリスクを入れてあるのだ。女の優しげな目元に、悪意などは微塵も感じられない。それが余計にある種の恐怖を生むのだった。

「リス、リスですよ。私、声が小さくて聞こえなかったでしょう」

「あ、いや、はは」

「さきほどから顔色がよろしくありませが、大丈夫ですか」

 そろそろ誤魔化し笑いも限界にきていた。しかし、聞き間違いだとわかり、壮介はなんとか気を取り直してしりとりを再開させた。

「スズメ」

「めだか」

「紙」

「港」

「トビウオ」

 女は顎に指を添え、少しばかり考える仕草をする。その時間がやけに居心地が悪く、壮介が間を埋めるために発言しようとしたタイミングで女は口を開いた。

「……オウリョウ、とか」

「あ、あの、もう一度。僕も耳が悪くて」

「横領、ですわ。今朝の新聞に、生命保険会社の中堅社員が何人もの顧客を騙していたという記事を目にしまして。信用を利用して投資詐欺なんて、許せませんわ」

 壮介はいよいよ狼狽を隠せなくなった。ただのしりとりだというのに、女に勘繰られている気がしてならなかった。待合室はひんやりとしているが、額に汗が滲んでくる。ボストンバッグの中身を知られたら、一巻の終わりであった。

「横領、う、う……というと」

「ゆっくりで構いません。時間はまだありますから」

壮介は頭が真っ白になってしまい、簡単なワードすら見つけられなかった。それでも「海」という単語を絞りだすと、女からすぐに「道草」と返ってきた。

 もう続ける気力はなかった。壮介は「殺人」と、あまりにも不吉な言葉でしりとりを終えた。直後、驚いた顔をした女は身を引いて目を伏せた。壮介は謝罪したが、女は微動だにしない。

「あの、本当にごめんなさい。悪気はなかったんです」

女は項垂れた状態で首を横に振る。

「いいえ。確かに、その単語は〝ん〟で終わりますね。まるで人生をも終わらせるように」

 意味深な発言をされて間もなく、待ち望んでいた電車がプラットホームに停車する。女は無言で立ち上がり、キャリーケースを引いて待合室を出ていく。すかさず、壮介は後を追った。

「待って。待ってください。他に言いたいことがあるんじゃないですか」

開いた乗降口の前に佇む女は、振り返らずに告げた。

「私は人生を誤りましたが、貴方ならまだやり直せるでしょう。だって、しりとりのように最後を終わらせてはないのだから」

「何をおっしゃっているのか……」

「私は愛する人と、これから赦されない旅に出ます。もう引き返せません。ここでお別れです、さようなら」

 女が車内に乗りこむと、電車は壮介を置いて出発した。壮介は大金の入ったボストンバッグを足元に落とす。ここで初めて、自首という言葉が脳裏を過った。

 電車は冥い空の彼方へ遠ざかる。その後ろ姿を、壮介はただ茫然と見送っていた。





 

 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

乗れない電車 夏蜜 @N-nekoko

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ