第25話 情動配達人
Sadness運用プラン C の本番から、何日かが過ぎた。
正確に何日かは、ユイ自身も数えていなかった。
世界は、表向きほとんど何も変わっていないように見えた。
◇
《公式広報:共感訓練プログラムの試験実施について》
都市の情報端末には、そういう見出しが一度だけ流れた。
「一部エリアで情動揺れが観測されたが、
想定範囲内であり、安定化アルゴリズムの有効性が確認された」
「市民の皆さまは、通常どおりの生活を続けてください」
画面の端に、小さくそう書かれていた。
Calm層では、そのニュースに立ち止まる者はほとんどいない。
少し前に胸の中をかすめた、言葉にならない寂しさの理由を、
そこに結びつける人もいなかった。
LOW側では、「あの日、何かいつもと違った」という話が、
噂の形で数回往復しただけだった。
誰かが、「上も少しは揺れたらしい」と冗談めかして言う。
誰かが、「どうせログの話だろ」と肩をすくめる。
やがて、日常のざわめきに飲み込まれていく。
◇
ミラの名前が、公の記録に現れることはなかった。
《内部報告:不正情動取引組織の一部構成員を拘束》
《身元:黒塗り/転送先:更生施設内 特別区画》
そんな文字列が、情動保安局の内部ログの中にだけ残った。
地下では、彼女の椅子だけがぽっかり空いたままだった。
それでも、エモ屋たちは動きを止めない。
「ミラの在庫、どう回す?」
「ネットワークの一部は、こっちで引き継ぐ」
商人派の声が、路地の奥でいつものように飛び交う。
一方で、「感情は取り戻すものだ」と信じる解放派も、
小さな集会を続けていた。
ミラの不在は、どこか穴のように感じられるのに、
穴の形を確かめることは誰にも許されていない。
◇
情動保安局の内部では、別のログが積まれていた。
《Sadness運用プラン C:Phase1 特例運用 報告書》
《監視担当:SIG-07》
シグのコードが、何度か繰り返される。
「現場判断による配分調整は、
全体の暴動リスクを許容範囲に抑えつつ、
Calm層の共感パターンを有意に増加させた」
そう書かれた報告書は、一部で評価され、
別の一部で、慎重な目で見られた。
《内部タグ:SIG-07/観察対象(長期)》
シグのファイルの片隅に、
小さな注意書きが追加される。
仕事としての「優秀さ」と、
システムから見た「危うさ」が、
同じ行の中で並んでいた。
◇
サブルームを出る日。
中枢区画の廊下は、息が詰まるほど静かだった。
「……自由って感じじゃないな」
ユイは、思わずそんな言葉をこぼした。
白い光。
真っ直ぐな廊下。
レンは、その隣で無言のまま歩いている。
足取りは、施設に入ったときよりもずっとしっかりしていた。
「正式には、こうなっている」
シグが、前を歩きながら言った。
「Sadnessコア被験体の観察を、
中枢側から“都市全体”に移した、という扱いだ」
「形式上は『更生プログラム中の条件付き釈放』だ。
逃げたらすぐに、“収容区送り”にできるようになっている」
「観察、ね」
ユイは、苦笑する。
「地下で暮らしていても、バンドはつながっている。
お前のE-Indexも、レンのも、全部ここに上がる」
「じゃあ、檻の壁が透けただけじゃない」
「透けただけでも、出られる方向が増えた」
シグは、少しだけ振り返った。
「完全拘束にされるか、
“街の中で動きながら監視される”か」
「俺が上に出した案は、後者だ」
「都合のいい使い方をされるのは、ごめんなんだけど」
ユイは、レンの肩を軽く抱き寄せた。
「でも、いま文句を言ったら、ここから出られなくなる気がするから黙っておく」
「賢明だ」
シグの声に、わずかな皮肉が混じる。
「俺のバンドにも、今日のログは全部残る」
彼は、自分の手首を軽く叩いた。
「消される前に、できるだけコピーしておく」
「そんなことして、大丈夫なの」
「大丈夫じゃないから、“観察対象”になった」
あっさりとした言い方だった。
それでも、その一言に、
彼なりの覚悟の重さが滲んでいた。
出口の手前で、足が止まる。
自動ドアの向こう側には、
都市の薄い光が広がっていた。
「……レン」
ユイは、小声で呼んだ。
「出たい?」
レンは、何秒か考えてから、こくりと頷いた。
その動きは、自分の意思で決めたというよりは、
姉の表情を見て決めたような、小さな決意だった。
シグが、ドアの開閉センサーに認証を通す。
```
「行け」
```
扉が開いた。
冷たい空気が、一気に流れ込む。
ユイは、レンの手を握ったまま、一歩を踏み出した。
振り返ると、シグがそこに立っていた。
マスクの下の表情は、最後まで見えない。
けれど、その目だけは、ほんのわずかに柔らかかった。
「また、どこかで」
そう言うと、
彼はドアが閉まるのと同時に、姿を光の向こうに消した。
◇
地下に戻るのに、そう時間はかからなかった。
足が覚えているルート。
監視カメラの死角。
エレベータの乗り方。
変わっていないはずなのに、
見える景色はどこか違っていた。
「……もっとうるさい場所だと思ってた」
レンが小さく言った。
地下の路地には、いつもどおり
金属の軋む音や、誰かの笑い声、
カセットを確かめる電子音が渦巻いている。
ユイは、その雑音の向こうに、
都市の「宛先の地図」が重なって見えるような気がした。
上層。中層。下層。
ブロックごとのコード。
ここからあそこへ。
あそこからここへ。
Sadnessを、誰が誰に渡すのか。
今まではただ「あて先の数字」としか思っていなかった記号が、
急に生身の人間の顔と繋がるようになっていた。
◇
ミラがいつも座っていた簡素な椅子は、そのまま残されていた。
ただ、そこに座っているのは別のエモ屋だった。
「戻ったのか、ユイ」
彼は、軽く手を挙げた。
「ミラは?」
ユイが訊くと、
彼は肩をすくめる。
「さあな。上に行った、って話もあれば、
“さらに下”に沈められたって話もある」
「在庫とルートは?」
「半分は商人派が持っていった。
残り半分は、まだ宙ぶらりんだ」
エモ屋は、視線をユイの腰のバッグに落とした。
「お前がどう使うかで、
この先、だいぶ変わるかもしれないな」
ミラのやり方を、そのまま真似する気はなかった。
感情を兵器として売る在り方は、
もう二度と選びたくないと、ユイは思っていた。
「……買う人、選ぶから」
ユイは短く言った。
「泣きたがってるのに泣けない人には、少しだけ濃いのを」
「誰かの痛みを全然想像しないやつには、
ちょっときついやつを」
「ミラみたいに、“誰でもいいから高く売る”のはもうやらない」
エモ屋は、おもしろそうに目を細めた。
「商売としては、効率が悪いな」
「知ってる」
ユイは、肩をすくめた。
「でも、そうしないと、
ほんとに誰かを壊すことになりそうで」
「ふん」
彼は、鼻で笑った。
「なら好きに配れ。
お前の運び方のログも、そのうち誰かが利用するだろうさ」
嫌な言い方だったけれど、
どこか真実でもある気がした。
ユイは、それでも構わないと自分に言い聞かせる。
どうせ、何をしてもログは残る。
なら、そのログごと、自分の選択として引き受けるしかない。
◇
地下の外れにある小さな部屋が、
今のユイとレンの居場所になった。
天井の低い空間。
古いマットレスが二枚。
端に、情動カセットを入れておく透明ケースが積まれている。
その夜、ユイは、持ち帰った少数のSadnessカセットを
ひとつずつ手で触りながら、宛先コードを整理していた。
「姉ちゃん」
ふいに、レンが声をかけてきた。
小さなテーブルのところで、
彼は何かをじっと見つめていた。
ユイが近づくと、
それは、昔レンが持っていた小さなガラス片だった。
角の丸くなった、青いガラス。
拾いものの、安物の欠片。
「まだ、持ってたんだ」
ユイは思わず笑った。
「これ、好きだったよね」
レンは、うんとも、ううんとも言わない。
ただ、ガラスを掌の上で転がしている。
光が反射して、白い天井に
淡い青い模様をつくった。
その光景を見ているうちに、
ユイの胸の奥で、何かが静かにきしんだ。
レンの目の端に、
きらりと何かが滲んだ。
ユイの体が、一瞬だけ固まる。
涙は、違反だ。
グレイを飲んで、抑えなきゃいけないものだ。
身体に染みついた条件反射が、
そう叫びかける。
でも、その涙は、
痛みに押し潰された叫びではなかった。
誰かが踏まれた瞬間の悲鳴でもない。
懐かしさと、安堵と、
わずかな寂しさが混ざった、小さな水の粒だった。
「……レン」
ユイは、そっとその肩に手を置いた。
「泣いていい」
囁くように言う。
「ここでは、少なくとも」
バンドのランプが、ゆっくりと揺れる。
《E-Index:微増(Sadness/他者痛覚)》
その数値の端に、
見慣れないタグが一瞬だけノイズのように浮かんだ。
《New Pattern:pre_Anger(理不尽刺激への反応準備)》
すぐに、OSはそれを「未分類」として扱い直す。
```
《タグ整理:未分類情動/保留》
```
レンは、ただ静かに涙をこぼした。
ガラス片の上に落ちた水滴が、
小さな虹を作る。
ユイは、それを見ていた。
違反アラートは鳴らない。
バンドは、家庭内で起きる一時的な情動揺れとして、
閾値の少し手前で記録だけを残した。
中枢で見た悲しみの波よりもずっと、
弱くて、個人的で、壊れやすい涙だった。
その脆さが、愛おしかった。
◇
翌日。
ユイは、カセットの伝票を並べていた。
地下の作業台の上に、
白い紙片がいくつも散らばる。
ブロックコード。
層記号。
情動タイプ。
「これは Calm の C-14 に」
「これは Low の、あの子」
「これは Mid の、あの店の店主」
頭の中で、「宛先の顔」と「必要な感情」を照らし合わせる。
Sadnessだけじゃない。
少しだけ軽い、安堵混じりの寂しさ。
気づかないふりをしてきた後悔。
それらを、少しずつ詰め合わせていく。
一枚だけ、印字の薄い伝票が紛れていた。
「……?」
ユイは、それを指先でつまみ上げた。
コード欄には、
数字のゼロと、簡易記号だけが印字されている。
宛先欄には、何も書かれていなかった。
「0番地」
思わず、声に出していた。
あの朝、ポストの奥で見つけた封筒と同じ文字。
それは、物流倉庫の片隅にある、何もない“場所”のことだ。マニュアルに赤字で『配達禁止』と書かれていた、封鎖された空白の宛先。
「まだ、残ってたんだ」
誰が、ここに紛れ込ませたのかは分からない。
ミラかもしれないし、
別のエモ屋かもしれない。
あるいは、OSそのものが遊びで吐き出した「不良品」なのかもしれない。
0番地には、何を届けるべきなのか。
悲しみなのか。
怒りなのか。
それとも、まったく別の何かなのか。
ユイ自身にも、答えはなかった。
少なくとも今は、
何かを投げ込んでいい場所には思えない。
彼女は、その伝票を今日のバッグには入れなかった。
代わりに、薄いノートの間にそっと挟む。
「……また今度」
小さく呟く。
宛先待ちの荷物として、
胸の近くに置いておくことにした。
今はまだ、決められない宛先。
でも、いつかきっと、
何かを届けなければならなくなる場所。
◇
路地に出ると、
地下と地上の境目から、薄い光が差し込んでいた。
オイルの匂いと、埃の匂い。
誰かが笑う声。
誰かがこっそり泣いている気配。
全部が、かつてより少しだけ、
色を持って聞こえる。
ユイは、配達バッグの紐を握り直した。
「今日も、行ってくる」
振り返ると、レンが扉のところで手を振っていた。
バンドのランプは、穏やかに光っている。
「夕方までには戻る。
何かあったら、あのエモ屋のところに」
レンは、こくんと頷いた。
扉が閉まる。
ユイは、路地に一人残された。
上に続く階段の先には、
あのCalm層の冷たい光がある。
その下には、
LOWとMidのごちゃ混ぜの空気が渦巻いている。
その全部が、
彼女にとっての「配達ルート」になった。
「悲しみは、たぶん武器にもなる」
ユイは、心の中で呟いた。
「でも、本当に誰かを救うのは、
どこにどう届けるかを考え続けることだ」
「私は、ただの運び屋じゃない」
「宛先を選ぶ」
それが間違っていたら、
その責任ごと抱えていく。
そう決めた。
バッグの中で、カセットが小さく鳴った気がした。
ユイは、一段目の階段に足をかけた。
情動を配りに行く。
誰かを壊さないために。
誰かを、ようやく人間に戻すために。
◇
都市OSは、静かにログを更新していた。
《Emotion OS:Sadness/その他未分類情動パターンの並列学習を継続》
《補足:未分類情動シード(pre_Anger等)を観測/長期追跡フラグ付与》
《人間オペレータ Y-*** の配達行動ログは、監視対象として保存》
それは、彼女の決意の証拠であると同時に、
次の時代の燃料でもあった。
OSは、それらを区別しない。
ただ数字として積み上げる。
路地の上には、
灰色の空が広がっていた。
そこへ向かって、ユイの足音が、
一定のリズムで遠ざかっていく。
都市は静かだった。
けれど、その静けさの奥で、
小さな波が、確かに行き交い始めていた。
EMOTION CONTROL ACT ―その涙は違法です― 鳥のこころ @ggg004
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