22.新たな旅へ

 忉李と景葵に別れを告げ、玉蓮の王宮を辞した白雅と紫闇は、御者の席に二人で座り、馬車を走らせた。中には誰も乗っていないので、少しは遠慮なしに走ることができる。


 まだ王宮の喧騒が背後にかすかに残り、門を離れるほどに風が冷たく澄んでいく。遠くで鳥の声がひとつ響き、旅の始まりを告げた。


「へぇ、ボウヤがずいぶんと成長したもんだねぇ。やるじゃない」

「あぁ。なんだか感慨深かったな」

「……ちなみに景葵は?」

「景葵? アイツなら、忉李をよろしく、あぁ、お前も元気でな、って感じで帰っていったぞ」


 紫闇はガクッとした。手綱を持ったまま、額に手を当てて天を仰いだ。どうにも不器用な景葵に、呆れる気持ちとかすかな愛しさがないまぜになる。


 幼い主が頑張ったというのに、大の大人がなにをやっているのやら。だが、それが景葵なりの想い方なのだろう。


「アンタ、やるじゃない。赤鴉といい、ボウヤといい、モテモテね、白雅」

「そういう紫闇はどうなんだよ。私はてっきり、紫闇は赤鴉のことが……」

「あー、はいはい、やめやめ。アタシの好きな男の話なんてどうでもいいじゃない。それより、ボウヤのこれからのほうがよっぽど大事さ。残念ながら年下には興味ないんだけどね」


 白雅は胡乱気に目を眇めた。


「嘘つけ。子供と女の子大好きじゃないか。てっきり、そっちの趣味もあるのかと……」

「やーねー。あれは純粋に母性本能よ、母性本能。まぁ、十八のお子様にはまだわからないかしらねー」

「お子様言うな!」


 賑やかに旅は続いていく。馬車は夕陽を切り裂くように走り、金色の光が二人の笑顔にちらちらと揺れた。疲れたら、交替で御者を代わって馬車の中で休んだ。


 紫闇がふっとあくびをして馬車の中に引っ込むと、途端に周囲は静かになった。残されたのは、馬の吐息と車輪の規則的な軋みだけだった。昼の喧噪が遠ざかり、世界がゆっくりと一人分の静けさに収束していく。


 夕陽は西へ傾き、馬車の影が長く伸びる。車輪が土道を軋みながら進み、一定の揺れが白雅の身体に心地よかった。


 白雅は手綱を握りながら、そっと腕輪へ視線を落とした。指先で触れると、金属の冷たさの奥にわずかな鼓動のような気配が宿っていた。腕輪になっている竜神に静かに話しかける。


「そうだ、璙王。ひとつ決めたことがあるんだが」

『なんだ』

「これからは、短縮して『璙(リョウ)』って呼んでいいか? というか、そう呼ぶからな」

『は?』


 呆気に取られる竜神に、白雅はケロリとして言った。


「いや、だって『璙王』って名前、いかにも『竜王』っぽいじゃないか。それに長いし」

『最後のが本音だろう』

「いいじゃないか。どうせ私しか呼ばないだろうし。特別に親しい間柄っぽくてよくないか?」

『そなたがそう言うのであれば……許してやらんでもない』


 竜神の言い方が可笑しくて、白雅はくつくつと笑った。


「素直じゃないなー。まぁ、そういうところも可愛いよな!」

『……我に向かって可愛いなどと抜かしたのは、そなたが初めてだ』


 その声は刺々しいようでいて、どこか戸惑いが混じっている。長い孤独が急に温められたときの、慣れない反応だった。


「世の中にはいろんな人間がいるってことだよ。それに、言うほど人間に深く関わっていないだろ?」

『そうかもしれぬ』


 白雅に出会ってから、竜神は考えるのだ。もしかしたら、自分は人間の本質を知ろうとしていなかっただけではないか、と。


 確かに、自分は恐れていた。人の邪悪な面を。だが、人には善良な面もあるのだ。それは、白雅を始めとする、これまで出会った人間たちが示していた。紫闇、赤鴉、忉李、景葵、然り。


「長い間、人の悪い心を知りすぎたせいで悪神になったとか言われていたけど、ただ単に寂しかったんだよな? それに、裏切られたような気がして悔しくもあったんだよな? だから、対価を差し出せとか言い出したんだろ?」

『……うるさい』

「またまた。ちゃんとわかっているからな」

『ふん……』


 本当に素直じゃない。


「あのな、璙」

『なんだ』

「前に言っていた、質問の答えだ。何故、私が璙を恨まないのかって? それは筋違いというものだろう。璙は私の願いを叶えてくれた。だから、私も対価を差し出す。これは私自身の感謝の気持ちであって、渋々なんかじゃない。璙はそれだけのことを私にしてくれたんだよ」

『……そうか』


 返答に一瞬間があった。


「そうだよ。だからさ……璙が気にする必要なんて、本当はどこにもないんだ。それに、本当に大切なものってさ、誰かに奪われたりしないんだよ。自分の心の奥にあるものだから……ほら、こうして今も温かいだろ?」


 白雅は胸に手を当てた。胸の奥に、夕風がそっと通り抜けていく。手のひらの下で脈打つ鼓動は、確かに今ここにある命であり、これまで積み重ねてきた時間そのものだった。


『心の、奥?』

「あぁ。誰かと一緒に過ごして、嬉しかったり、楽しかったり、幸せだったりした大切な記憶はなくならないだろ? それを思えば、心はこんなに温かい。寂しいときや落ち込んだときはそれを思い出せば、また頑張れる。『思い出』ってそういうものだと思う」

『思い出、か……』


 その声は、どこか遠くを見つめるように揺れていた。


「璙にもあるだろ? そういう大切な思い出ってヤツ」

『……ある。砂のように薄れてしまった昔の記憶だがな』


 その声音には、長い年月の中で誰にも触れられなかった孤独の影がわずかに滲んでいた。


「思い出せないくらい古い記憶しかないなら、一緒に新しい思い出を増やしていこう。一緒に旅をして、綺麗な景色を見て、美味しいもの、はちょっと無理か。珍しい品もいろいろあるだろうし。楽しい思い出を作っていかないか?」


 風が一度強く吹き抜け、夕暮れの色を少しだけ濃くした。


『それは……ずいぶんと幸せな夢だな』


 少しだけ、戸惑ったような竜神の声。幸せに手を伸ばすのをためらってしまう気持ちは、白雅にもよくわかる。


「だから言ったじゃないか。一緒に、いろんな夢を見ようって」

『……そうだったな』

「これからの私の人生、全部、璙のものなんだろ? だったら、一緒に幸せを見つけよう。そうしたら、私がいなくなったあとだって、璙はきっと寂しくなんかない。幸せな思い出がたくさんあれば、また前に進んでいけるだろ?」


 その言葉は、竜神の胸のどこか古い場所に、静かに落ちていった。


 夕風が馬車を撫で、木々がざわめく。まるで竜神の胸の内が、外の世界にそのまま波紋となって広がるかのようだった。


 人には寿命というものがある。一緒に歩いていけば、いつかは竜神と白雅の道は分かたれる時が来る。だが、それでも白雅は前に進めと言うのである。


 竜神を待つ未来に白雅がいないのは、寂しい。だが、それまでは──。


 白雅はそっと手綱を引き、前を見据えた。馬の耳がぴんと立ち、静かな決意に応えるように地面を力強く踏みしめた。


「行こう、璙。新しい景色が待ってる」


 夕陽の中、馬車はゆっくりと──しかし確かに、未来へ向かって走り続ける。


 竜神はその温もりを胸の奥深くに沈めながら、確かにそこに芽生えた光を手放すまいとそっと抱きしめた。

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白華流離奇譚・紫苑の園編 風花(かざはな) @kazahana_ricca

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