21.忉李と白雅

 そして、迎えた宴の日。広間には琴の音がかすかに流れ、香炉の白煙がゆるりと漂っていた。燭台の炎が金色に揺れ、今宵だけの華やぎを作り出している。


 子供ながらに盛装した忉李は、いつもの武官服よりも煌びやかな慶事用の武官服を纏った景葵をお供に、御簾越しに宴席を眺めていた。


 そして、最前列に目を遣り、そこに座る二人の客人の姿を見て、思わず感嘆の息を漏らした。二人の周りだけ、灯火の色が少し明るく見えるほどだった。


「うわぁ……」


 今宵の白雅の装いは、桃色を中心とした淡い色調で全体をまとめ、明るい紫を差し色にしている。白雅の白い髪と赤い瞳をさらに引き立てていた。装飾品は控えめに、紅玉と黄玉を幾つかあしらった簪を挿している。白雅が小さく身じろぎするたび、簪にあしらわれた紅玉がチリ、と細い音を立てた。


 対して紫闇は、緑を基調として色の濃淡で変化をつけ、黒を差し色にしている。紫闇の黒い髪と褐色の肌によく似合っていた。装飾品は真珠が中心で、ところどころに紅玉が見え隠れする。席に腰をおろした紫闇の肩先に、真珠がひっそりと光を宿していた。

 少々ジャラジャラし過ぎている感も否めないが、それもまた似合っているので忉李は良しとした。


 宴が始まって、ぞくぞくと忉李に挨拶をしにくる重臣たちを相手にしながら、忉李はずっと白雅を気にしていた。無意識に膝の上で指先を組んだり離したりしてしまう。


 白雅の席の周りには、いつの間にか人垣ができ始めていた。白雅と紫闇の許には、武官たちが代わる代わる引っ切りなしに訪れていたのだ。


 眼下の白雅は慣れない格好のせいか、いつもよりしおらしく見えた。あれでは武官たちに絡まれたら困るだろう──忉李は落ち着かない気持ちで何度も視線を送った。


 一方で、白雅は懲りずに飲み比べに来る武官たちに辟易していた。酔いの回った武官が盃を差し出してきたり、肩を叩いて勧めてきたりと、ひと息つく暇もない。だが、今日だけは飲むつもりはなかった。


 そう告げると、飲み比べに来た武官たちはスゴスゴと引きさがったが、厄介なことに、紫闇に絡む連中が出てきた。紫闇はそう酒に強いほうではない。


 紫闇は盃を指先で軽く回しながら、なにか企むように口元だけで笑った。心配する白雅に、紫闇はパチッと片目を瞑って見せる。


 なにかする気だ。白雅はそう思ったが、慎ましく沈黙を守った。だが視線だけはそっと紫闇の盃の減り具合を追っていた。



 そして、賑やかなひとときは流れ、やがて、宴もたけなわになった頃、ふと視線を巡らせると、賑わう人波の向こうに白雅の姿が見当たらない。不思議と胸に小さな穴が開いたような感覚が走った。


 宴の前に約束した場所で先に待っているのだろう。忉李も景葵に行き先を告げると、一人でこっそりと宴の席を抜け出したのだった。


 庭院に降りると、青い草の香りや花々の香りが風に乗ってふわりと忉李の鼻先をくすぐった。遠くで虫の声が細く響き、宴の喧騒が嘘のように静まり返っていた。


 約束した場所は、この先にある。庭院の奥まったところには小さな東屋がポツンとあった。


「白雅?」


 小さく声をかけると、同じく小さな声が返事をした。


「こっちだ、忉李」


 見れば、東屋の陰に隠れるようにして白雅がいた。灯りに背を向けた白雅の横顔は半ば影に沈み、どこか疲れたようにも見えた。


「白雅、酒は……」

「大丈夫、飲んでない」


 忉李と約束したからな。そう言って白雅は笑う。笑みを返しかけて、はたと忉李は思い至った。


「璙王は?」

「ここ」


 白雅は左の二の腕を示した。衣装の下の目立たないところに埋もれているらしい。二人きりではないと知って、忉李はややムッとしたが、竜神に文句を言うわけにもいかないので、ぐっと我慢した。


「それにしても、綺麗な場所だな、ここ。花のいい香りもするし。王宮にこんなところがあるなんて知らなかったよ」

「そうだろう? 僕のお気に入りの場所なんだ」


 自分の気に入りの場所を白雅に褒められて、忉李は嬉しくなる。東屋にある椅子に、白雅を誘った。


「それで……どうしたんだ? 忉李。いつになく改まって『話がある』なんて言うから、驚いたぞ」

「あとで言う……それよりも、白雅。その着飾った姿を、もっと僕によく見せてくれ」


 白雅は盛大に固まった。忉李からそんなことを言われるとは。何故だろう。柄にもなくドキドキしてしまう。忉李は上から下まで白雅を興味深そうに眺めると、嬉しそうに笑った。


「綺麗だ、白雅」


 言葉にできない想いが一瞬だけ空気に滲み、二人のあいだに静かな間が生まれた。


「あ……ありがと……」


 白雅は頬に熱がのぼるのを自覚し、視線を逸らした。今が夜で良かった。もし明るかったなら、真っ赤になった自分はさぞや恥ずかしい思いをしていたことだろう。


「あのな、忉李。どうしたんだ? 今日は……」

「白雅、覚えているか? 蜃気楼の中で僕が母上に会ったことを」


 やや強引に言葉を遮られて、白雅は困惑したが、忉李の問いに答えを返した。


「あぁ、覚えている。とても綺麗な女性だったな……亡くなったのか?」


 白雅の控えめな問いに、忉李は頷いた。


「僕がまだもっと幼い頃にな。綺麗で、優しい人だった。温かくて、傍にいるだけで安心できるような人だ」

「うん。そんな感じだ」

「紫闇から聞いたのだが、あの蜃気楼は幻術で、その人の記憶を反映して一番望むものを見せるらしい。だから、白雅に赤鴉が見えたのはなんとなくわかるんだ。ずっと捜していたんだしな。だが、どうして僕は母上を見たのだろう。最近、そのことばかり考える」


 忉李の言葉に、白雅は少しだけ寂しげな笑みを浮かべた。わずかに胸元へ手を添える。赤鴉の名が出ると、今も息が詰まるようだった。


「それは仕方がないと思うぞ。忉李くらいの年齢だと、まだ母親が恋しい年頃だろう。それとも、母親を思い出すような切っ掛けでもあったのか?」

「僕は、それが白雅と出会ったからではないか、と思っている」

「!」


 白雅は驚いた。忉李の母親はたおやかで儚げな印象の女性だった。白雅とは似ても似つかない。


「白雅は母上とは違う。でも……綺麗で、優しくて、温かくて、そばにいると安心する。なんというか……似ているんだ。そう感じていた。だから、白雅のことが気になったのかもしれない」


 忉李はわずかにうつむくと、訥々と言葉を続けた。


「最初は、白雅が気になるのは母上に似ているからだと思っていた。だから、手放したくない、失いたくないのだと。だが、母上の幻覚と会って、白雅の瞳を見て目が覚めて、今では違うとはっきりわかる。あれは、きっと僕の甘えたい心の表れだったのだろう。母上は、母上で、白雅は、白雅だ」


 顔をあげて、忉李は白雅を見つめた。幼い頬を紅潮させて、だが、それでも忉李は毅然として告げた。


「僕は、白雅が好きだ。母親のようでも、友人としてでもなく、一人の女性として白雅が好きなんだ」

「!?」


 風が梢を揺らす。白雅は言葉を失い、ただ忉李の真剣な瞳を見返すしかなかった。


——そんなふうに自分を見ていたのか


 そう思った次の瞬間には、忉李は一度だけ深く息を吸った。忉李の小さな肩が、吹き抜ける夜風に震えた。だが、それは寒さではなかった。


「僕は、白雅とずっと一緒にいたい。白雅、僕と結婚してくれ」

「──!」


 ザァッと一陣の風が東屋の中を吹き抜けた。白雅はあまりの衝撃に声が出ない。だが、忉李は真剣に白雅を見つめている。冗談では、ないのだ。なにか、なにか言わなければ。


 白雅はほんの少しだけ瞑目すると、目を開いて、忉李に向かって柔らかく微笑んだ。


「ありがとな、忉李。忉李の気持ち、凄く嬉しいよ。だけど、ごめんな。私は──」

「すでに竜神のもの。そうだろう?」


 忉李が笑って答える。白雅は目を見開いた。


「忉李?」

「景葵からすべて聞いた。竜神とともに生きると決めたそうだな。それが対価だと。僕だってそこまで馬鹿じゃない。すぐに気づいた。それは、竜神に嫁ぐことに等しいのだと」

「!」


 その通りだった。白雅とともに生きる竜神は人間に利用されることをよしとしない。ましてや相手が一国の元首ともなればなおさらのことだ。


 白雅は竜神を人間の私利私欲から守る『盾』にならなければならなかった。それは、白雅の残りの人生をすべて竜神に捧げること、つまり、事実上、竜神の妻になることを意味した。


「知っていたのなら、どうして……」

「あぁ、知っていた。それでも、僕は自分の想いを白雅に伝えたかった。白雅に知っていてほしかった。僕は白雅が本当に大好きなんだということを」

「忉李……」


 それだけ告げると、忉李はクルリと白雅に背を向けた。


「付き合わせて悪かったな、白雅。だが、お陰ですっきりした。やはり溜め込むのはいろいろとよくない」


 その小さな背中が、どこか泣いているような気がして、白雅は思わず手を伸ばして、忉李を後ろから強く抱きしめた。その身体は驚くほど軽く、けれど必死になにかをこらえている温もりがあった。忉李が困惑の声をあげる。


「白雅?」

「ありがとな、忉李。お前はきっといい男になるよ。いい男で、いい王になる。私が保証してやる。私も忉李のこと、大好きだよ。だから……どうか、幸せに……」

「……あぁ。いい男になって、白雅を見返してやる。そのときになって後悔するなよ?」


 忉李を離して、白雅は笑った。


「そうだな。そして、きっと私が嫉妬するような綺麗で優しい奥さんを見つけて、幸せな家庭を築くんだ」

「あぁ」

「その光景を、また、見に来てもいいか?」

「もちろんだ。お前たちならいつでも歓迎する。また来い。必ずな」


 忉李と白雅はそこで別れた。忉李が東屋から立ち去るのを見送ったあとで、白雅は椅子にもたれるように座った。


 忉李が白雅を恋い慕っていたのをようやく実感として理解したのか、白雅は静かに息を震わせた。その表情には、気づかなかった自分への戸惑いが滲んでいた。


 東屋の奥で風が渦を巻くように揺れ、竜神の気配が白雅の背を撫でた。白雅の胸に残る痛みを感じ取ったのか、竜神はかすかにざわめいた。


『……後悔したか?』


 どこか揺らいだような竜神の声がする。白雅は笑った。


「まさか……ただ、自分には目の前にあるものすら、なにも見えていなかったのだと思い知らされただけだ。璙王のせいじゃない」


 この期に及んで穏やかに笑う白雅に、竜神は焦れた。


『何故、白雅は我を責めぬ。お前のせいで大切なものが自分から離れていくと、何故、我を恨まぬ?』

「それは──」


 静寂を裂くように、砂利を踏む足音が近づいた。


「白雅」


 竜神の疑問に答えようとしたとき、白雅は名前を呼ばれた。景葵だった。竜神が気配を潜めたのがわかった。場を譲ってくれたのだ。


「景葵、忉李の傍にいなくていいのか?」

「殿下なら太子宮にお送りした。俺は、紫闇から言われて……」

「……ちなみに、なんと?」

「白雅のことだ、しばらくその場に残っているだろうから、会って話をして来い、と」


 うん。紫闇の読みはバッチリである。現に白雅は東屋に残っていた。景葵は目を伏せると、白雅に問うた。


「殿下から、求婚されたか?」


 その横顔は、忠誠と個人の想いの狭間で揺れる影を落としていた。


「あぁ。格好よかったぞ。思わずぐっときた。忉李はいい男になるな」


 朗らかに笑う白雅に、景葵は迷いながら心情を吐露した。


「俺は……どうしたらいいのかわからなくなった」


 白雅を真正面から見られないように、景葵はわずかに視線を逸らした。


「殿下とお前には幸せになってもらいたい。だが、その一方で、神の末裔である王家に『白い子供』の血を入れるわけにはいかない、と考えている自分がいるんだ」

「その通りだ。お前は間違っていないよ、景葵」

「……すまない、白雅」


 白雅はカラカラと笑った。


「心配しなくても、忉李はちゃんとわかっている。大きくなって、恋をして、素敵な奥さんを見つけるさ。そういえば、景葵ももうお年頃だろ? 結婚はしないのか?」


 からかうように景葵の顔を覗き込むと、景葵は心なしか、ムッとしたような表情になった。


「今は、そのつもりはない。俺には殿下への忠誠心があればいい」


 真面目な景葵に、白雅は苦笑した。


「そうか。お前も結構いい男なのに、もったいないな。まぁいい。お前がいれば、忉李は安心だ。頼むよ、景葵」

「あぁ。お前も元気でな。白雅」



 景葵が立ち去ったあと、竜神の呆れたような声が聞こえてきた。


『そなたはとことん鈍いのだな』

「……どういう意味だ?」

『いや、いい。自分で気づくがよい』

「?」


 しきりに首をかしげる白雅が、景葵の想いに気づくことはなさそうだ。竜神は大きなため息をついた。


 夜風が東屋の簾をそっと揺らし、二人の見えない感情だけがそこに残った。

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