20.王太子の帰還

 白雅と紫闇は再び客として玉蓮の王宮に迎え入れられた。湯浴み、衣服、髪、すべて侍女の手で整えられた。湯殿には白檀の香がほのかに満ち、灯された燈籠が水面に揺れる光を落としていた。唇に紅まで差されそうになったときは、さすがに辞退した。


「なんか……慣れないねぇ、こういうの」

「だよな」


 紫闇と二人でコソコソと会話をする。小声で囁き合う二人は、思わず肩を寄せ合うようにして周囲を気にした。


 以前とは違い、間を置かずに景葵がやってきた。王の許へと先導される。景葵の足音は妙に早く、忙しなさが滲んでいた。白雅はどこか緊張しているような景葵に尋ねた。


「景葵、どうかしたのか?」

「いや……陛下にお会いすればわかる」

「?」


 御簾の前には色とりどりの礼服が並び、場の空気は張りつめた水面のように静まり返っていた。


 以前と同じ御簾越しでの対面。以前と違うのは、周りに重臣たちがズラリと控えていることだった。炉橘王の傍には当然のごとく千梨も控えている。


 景葵、白雅、紫闇は跪いて頭を垂れた。


「王太子の近衛隊長・景葵、そして、武人・白雅と呪術師・紫闇よ。面をあげよ。此度の王太子の病を治す旅、実に御苦労であった。よくぞ王太子を守り抜き、我が許まで導いてくれた」


 炉橘王の言葉に驚いたのは白雅と紫闇ばかりではなかった。同じ御簾の中で、忉李が一番動揺していた。忉李は思わず膝の上で拳を握りしめ、その肩が小さく震えた。


「ち……父上、ご存じだったのですか!?」

「うむ。実は、少し前に韋煌国の紅煇王より親書が届いてな……」


 その親書は深紅の封蝋で閉じられ、開かれた端には香木の淡い香りがまだ残っていた。


 親書には、旅の顛末と一行が無事であることが記されていた。加えて、今は韋煌国の賓客として丁重に遇されているという。


 しかし──湯治中のはずの王太子が旅に出て白雅と合流していた──その事実だけで充分に驚愕だったが、さらに忉李の病がすでに完治したこと、初の外交も見事にこなしたことまで書き添えられていた。


 さらに紅煇王は、忉李の勇気と優しさを高く評価し、『無謀は承知のうえでの行動ゆえ、どうか咎めないでほしい』と温かな筆致で結んでいた。


「それにより、我々は王太子らが帰還するまで様子を見ようという結論に達し、今に至る、というわけだ」


 炉橘王の言葉に、忉李はあんぐりと顎を落とした。紅煇王は素知らぬ顔をしていながら、裏では父へ忉李の行状を知らせていたらしい。

 一見、忉李を庇っているように見える。忉李は紅煇王のしたたかさを痛感した。


 忉李は父の言葉を聞くうちに、紅煇王の意図を察した。その親書は、あくまで白雅と紫闇を守るためのものだ──そう読める筆致だった。


 王太子誘拐の嫌疑は、状況次第では死罪もあり得る。その危険を避けるため、紅煇王はあえて『無謀は承知のうえ』と書き添えたのだ。


「父上、すべての責はこの私にあります。どうか、景葵や白雅、紫闇を咎めないでください」


 必死に懇願する忉李とは裏腹に、炉橘王は不思議そうに首をかしげた。


「うん? 咎め立てする気はないぞ。こうしてそなたは無事に戻ってきたことだしな。しかも、病まで治って」


 その言葉に、重臣たちの間に安堵とも驚きともつかぬざわめきが静かに走った。


 いっそ拍子抜けするほどにケロリとした父親に、忉李は呆気に取られた。父はこれほどあっさりと事を受け止める人物だっただろうかと、忉李は内心で戸惑いを覚えた。


 実際には、内心激しく動揺していたが、王として表に出さなかっただけである。紅煇王への信頼も炉橘王の中では安心材料になっていた。


「それでだ。それぞれに褒美を取らそうと思う。望みを申してみよ」


 ここにきて三人は面食らった。褒美が欲しくて旅に出たわけではない。白雅と景葵は忉李の病が治ればそれで良かったし、紫闇は白雅に頼られたのが嬉しくて力になれればそれで充分だったのだ。


 おそるおそる景葵がその旨を奏上すると、炉橘王は目を瞠った。


「なんと……褒美は要らぬと申すか」


 炉橘王はしばし口を閉ざし、軽く眉根を寄せた。


「ふむ、困った。では、この恩にどう報いればよいのか、教えてはくれぬか?」


 炉橘王の言葉に、景葵が声をあげた。


「畏れながら申し上げます、陛下。この景葵、終生を忉李王太子殿下の近衛として、殿下の傍近くでお仕えしたく存じます。お許しいただけますでしょうか」


 白雅と紫闇は意外そうに目を見交わしたが、すぐに納得したように視線を落とした。


 景葵の言葉に、炉橘王は満足そうに頷いた。


「許す。他にはないか?」


 白雅は考えた末に口を開いた。


「では、畏れながら、竜神のことについて申し上げます。竜神は我が望みを叶えたあと、旅に出ました。したがって今後、かの霊王山へと赴いたとしても、竜神はおりませぬ。それ故、かの聖域が心ない者たちに荒らされることのなきよう、この話は陛下と殿下、そして重臣の方々の胸の裡にお留め置きくださいませ」


 その名が出た瞬間、謁見の間の空気がわずかに冷えたような気さえした。


 この言葉に、炉橘王は大層驚いたようだった。


「なんと、竜神は旅に出たと申すか。真か? 王太子よ」


 御簾の奥で衣擦れの音がした。驚きに身じろぎしたのだろう。


「はい。私が治癒の痛みに気を失い、次に目を覚ましたとき、すでに竜神の長大な姿は見当たりませんでした」

「そうか、残念であるな。実在したのならば、我らが世を是非、言祝いでもらえればと思うておったのだが……」


 残念そうな炉橘王だったが、本当にただそれだけのようだったので、白雅は安心した。


「お言葉ですが、父上。伝承によれば、この島自体が竜神の祝福を受けた地とされております。もしそうならば、この島に王朝を構えることを許されている我らが世は、すでに竜神の祝福を受けているも同然であるとは考えられませぬか?」


 忉李の言葉に、炉橘王は大いに喜んだ。


「うむ、王太子の言う通りであるな。それは重畳。では、この場にいる皆に命ずる。竜神のことは我らが胸のうちに留めよ。他言することは許さぬ。もし、禁を破り、竜神の怒りに触れたならば、余が代わって厳罰をくだそうぞ」


 厳かな宣告に、重臣たちの背筋が一斉に伸びた。


「すべて御意のままに」


 謁見の間には、一斉に頭を垂れる重臣たちの姿が整然と並んだ。



 その場はそれでお開きとなり、後日改めて、王太子の無事の帰還と病の快癒への祝賀の席を設けるとのことだったので、白雅と紫闇は与えられた室に戻ることにした。


 謁見の間を辞したとき、白雅はようやく背筋のこわばりが解けるのを感じた。その瞬間、白雅は自分がどれほど強く肩に力を入れていたのかを知った。紫闇も同じらしく、香木の匂いがほのかに漂う室で、紫闇は畳に崩れ落ちた。


「はぁー、疲れたわぁ……」

「紫闇はこういうのに慣れていないからな。それにしても、本当に良かったのか? 褒美、貰わなくて」

「いいのよ。少々もったいないけどね。褒美が欲しくて人助けやってるんじゃないわ。そりゃあ、仕事を依頼されれば、当然、法外な依頼料をふんだくってやるけどさ。アタシ、決めてんのよ。もし白雅と赤鴉がアタシを頼ってきたら、無償で力を貸そうって。なんていったって『家族』だからねぇ」


 その言葉に、白雅の頬がわずかに緩んだ。彼女自身は否定するかもしれないが、紫闇にこう言われるのが、嬉しくないはずがなかった。


「良いこと言うな、紫闇」

「当たり前でしょう? アタシの可愛い娘。だから、困ったときや疲れたときは遠慮しないの。ちゃんと甘えなさいな」

「あぁ、そうする」


 祝賀の席まで王宮に滞在することを許された白雅と紫闇は、韋煌国から連れてきた馬の世話をしながら、次の旅の予定を練っていた。


 手入れされた毛並みは陽を受けて柔らかく光り、賢い瞳は白雅の動きを静かに追っていた。


「温泉地巡りもいいよなー」

「アンタ、またそれ? それよりも美味しい食べ物探しの旅のほうが……」

「だって、それだと璙王が食べられないだろ? 温泉地ってたいていが景勝地だし、綺麗な景色は目に優しいぞ?」


 はぁ、と紫闇は深いため息をついた。竜神に支払った対価のために悲しい思いをしたばかりだというのに、白雅はまるで変わらなかった。


「そんなの、上から見慣れているんじゃないの?」

「下からの景色はまた違うかもしれないだろ? おっし、綺麗になった。しっかし良い馬だなー」


 紫闇は紅煇王の顔を思い浮かべながら言った。


「……アイツ、絶対、白雅のために良い馬選んで付けたわよね。長旅にも耐えてくれたし。愛されてるわねぇ」


 白雅はじとっと紫闇を睨めつけた。


「それは嫌味か、紫闇」

「ううん、単純にそう思っただけ」


 紫闇はにっこりと完璧に整った笑みを浮かべた。この笑みを浮かべている紫闇に白雅が口で勝った例がない。


「わかったよ。だったら温泉地で綺麗な風景と美味しい食べ物を探そう」

「ちょっと、なんでそうなるのよ」


 厩舎に、二人の小競り合いが心地よく響いた。二人が小声でぎゃーすか言い合いをしていると、背後に人の気配を感じた。気配はまるで風のように静かで、足音ひとつ響かせなかった。


 白雅と紫闇は同時に振り向いた。


「……悪い、驚かせたか」


 気配の主は景葵だった。


「景葵、気配を絶って後ろから近づくのはよせ。反射的に瞬殺しないでいる自信がない」

「さらっと怖いことを言うな、白雅。二人とも、殿下がお呼びだ」

「忉李が?」


 そういえば、近衛ではなくなったため、ここ最近は紫闇と一緒にいてばかりで、忉李や景葵には会いに行っていなかった。いったいなんの用だろう。


 三人の足音だけが石畳に軽く響き、その静けさがかえって胸をざわつかせた。


「忉李」


 太子宮に顔を出すと、忉李は至っていつも通りだった。


「来たか、白雅、紫闇。まぁ、座れ」


 忉李に促されて二人が座ると、忉李がバサッと布の塊を手渡した。布は深紅、瑠璃、翡翠と、どれも鮮やかな光沢を放っている。


「なんだこれ?」

「布地の色見本だな。宴席ではお前たちも主役の一人だ。よって、それ相応の衣装を仕立てさせる」

「はぁ? 一度しか着ないのになにをもったいないことを言っているんだ」

「あら、いいわねぇ。この国の衣装、ちょっと気になってたのよ」


 白雅と紫闇は顔を見合わせた。見事に二人の反応が分かれていたからである。


「なにを言っている、紫闇」

「アラ、嫌とは言わせないわよ、白雅。さもないと、あーんなことや、こーんなことまで、二人にバラしちゃうから」


 紫闇が口にしようとした途端、白雅は慌てて彼女の口を塞いだ。


「わかった! 言うな……!」


 紫闇がなにを握っているのかわかっているだけに、白雅は逆らう気力をなくした。


 紫闇の話の内容が気になる忉李だったが、これで大人しく白雅も衣装を仕立てさせてくれそうなので話を先に進めた。


「僕と景葵の衣装はもう決まった。残るはお前たち二人だけだ。別室に仕立屋とお針子を待機させておくから、お前たちはさっさと湯浴みをしてこい」

「えー?」


 着飾るのは好きじゃない。鏡に映る自分の姿に、どうしても違和感を覚えてしまうから。それは、戦場しか知らない人間が美しく飾られることに対する強烈な違和感であった。しかし。


「ほら、人を待たせちゃ駄目でしょう? さっさと湯浴みに行くわよ」


 紫闇に引きずられていった白雅を見送りながら、景葵はため息をついた。


「こういうときに紫闇がいると心強いですね、殿下」

「まったくだ。白雅はこうでもしないと絶対に女性の衣装は着てくれないからな。いい機会だ」


 たまには美しく着飾った白雅を見てみたい。忉李はそう考えていたのだった。



 一方で、強制的に湯浴みに連行された白雅は、紫闇と侍女たちの手でこれでもかというほど磨き立てられて、女官服姿で仕立屋とお針子たちの前に引き出された。


 されるがままの白雅の肌は、湯気に負けぬほど火照っていたが、本人はどうにも落ち着かなかった。並んだ反物は、淡雪色から深い瑠璃まで、光を受けてゆらりと色を変えていた。


「ほう、『白い子供』とは珍しいことですな。それに、お二人揃ってお美しくていらっしゃる」


 仕立屋の世辞を聞き流して、紫闇はお針子たちに笑顔を向けると、白雅を前に押し出した。


「お世辞はいいから、この子を綺麗にしてやっておくれよ。もちろんアタシもね」

「はい、お任せください!」


 異国の美女に笑顔を向けられたお針子たちは頬を上気させて頷くと、さっそく衝立の裏で二人の採寸に取り掛かった。衝立の向こうでは、布の擦れる音と軽やかな足音が絶え間なく動き回っていた。


 採寸が終わると次は色合わせである。次々と顔の横に布を当てられた。肌に触れる絹の冷たさに、白雅はわずかに肩を強張らせた。


「お色はなにがよろしいでしょうか? 白雅様は淡いお色の物が実によくお似合いになりますわ。濃いお色をひとつ差し色にすると、全体がぐっと締まりますわね」

「紫闇様ははっきりとしたお色がきっとお似合いですわ」


 きゃあきゃあと騒ぐお針子たちに、白雅はため息をついてひと言だけ告げた。


「……任せる」


 そう言った瞬間、針子たちの目が輝いたのを見て、白雅は内心で観念した。ここまで囲まれては、逃げ道など最初からない。戦場では怯まない彼女でも、この手の相手には到底勝ち目がないらしい。


 やがて、仮縫いをした衣を纏わせ、髪を簡単に結いあげたあたりから、お針子たちの目の色が変わってきた。予定にない薄化粧まで施すと、白雅を衝立から押し出した。


 白雅が衝立の外へ押し出された瞬間、空気が張りつめ、誰かが息を呑む気配がした。そのあとで、針子たちの歓声が弾けた。


「とってもお美しいですわ!」


 いい仕事した、とばかりに白雅の美しさと自分たちの腕をここぞとばかりに褒め称えるお針子たち。


「ほらね。アンタは磨けば光るって言ったでしょう? いつも綺麗にしておきなさいよ」


 同じく仮縫い中の衣を身に纏った紫闇は、このうえなく機嫌が良かった。白雅を見つめるその瞳は、どこか誇らしげですらある。


「装飾品はどういたしましょうか? 白雅様は瞳のお色に合わせて紅玉や黄玉なんかがよろしいと思いますわ」

「紫闇様は他に青玉や藍玉、それに翠玉や真珠なんかもよろしいかと」


 宝石箱の中で、紅玉や翠玉が灯火を受けて細かく瞬いた。

 またもや、あれこれと色合わせが始まった。白雅は、戦のあとよりも深いため息をひとつこぼした。ようやく解放されたときには日が暮れそうになっていた。


「では、出来上がりを楽しみにお待ちくださいませ!」


 そう言って、仕立屋とお針子たちは上機嫌で退室していったのだった。

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