彫像の脱皮

perchin

彫像の脱皮

 シャンパングラスが触れ合う硬質な音が、ホテルのバンケットルームに響く。

 シズクは、口角を完璧な角度に釣り上げ、周囲に頷いてみせた。

 今日は彼女が主役だ。彼女の出版記念パーティーだった。

 首元には大粒のダイヤモンドが照明を反射して輝き、鮮やかな真紅のドレスは、彼女の立ち姿をより一層華やかに演出している。

「シズクさんの本、読みました。娘さんのことを乗り越えて、あんなに力強く活躍されていて……私たち女性の憧れです」

 ファンの女性が涙ぐみながら手を握り締める。シズクは、手入れの行き届いた指先でその手を包み返し、短く礼を言った。

 フラッシュが焚かれる。シズクはカメラに向かって微笑む。

「悲しみは、私を強くしてくれました」

 翌日のネットニュースの見出しになるであろう言葉を、彼女は淀みなく紡いだ。何かを決意するような凛とした表情を作る。彼女は自身の悲しみすら売り物にした。

 深夜二時。

 都心の高層マンションの一室。

 シズクは玄関の照明だけをつけ、リビングへの足を踏み入れる。

 床には、デリバリーの紙袋が置かれている。中身は、有名店の特上寿司。

 彼女はそれをダイニングテーブルの上に置く。袋を開けることはない。昨日届いたイタリアンの包みも、一昨日届いた中華の容器も、手付かずのままゴミ箱へ直行した。今日の寿司も、数時間後には同じ運命を辿ることになる。

 シズクは洗面所へ向かい、鏡の前に立つ。

 背中のファスナーに手を回し、ゆっくりと引き下ろす。衣擦れの音が、静寂な部屋に響く。

 真紅のドレスが床に落ちる。

 補正下着のホックを外す。

 鏡の中に映ったのは、時代の寵児たる作家ではない。

 浮き出た肋骨が、皮膚の下で鋭利な陰影を作っている。

 鎖骨はくぼみ、肩の関節は不自然に突き出していた。

 豊かに見えた胸元はパッドによる虚構で、実際は板のように平坦だ。

 太腿は、大人の腕ほどの太さしかなく、膝の骨だけが異様に大きく見える。

 重いダイヤモンドのネックレスを外すと、首筋には赤い圧迫痕が残っていた。首の筋肉が衰え、アクセサリーの重みさえ支えきれなくなっている証拠だった。

 彼女は裸のまま、リビングのソファに浅く腰掛ける。

 暗闇の中、スマートフォンのブルーライトだけが彼女の骸骨のような顔を照らす。

 SNSには、今日のパーティーでの彼女の写真が溢れている。

 《輝いている》《強い女性》《美のカリスマ》

 コメント欄をスクロールする指は、骨と皮だけで、節くれ立っている。

 シズクはスマートフォンを伏せ、サイドテーブルにあるフォトフレームを手に取った。

 五歳の誕生日に無邪気に笑う、もういない娘の写真。

 彼女は、骨張った指で写真のガラス面をなぞる。

 部屋には空調の音だけが流れている。

 やがて、フォトフレームのガラスの上に、水滴が落ちた。

 一つ、また一つ。

 彼女の呼吸音は聞こえない。嗚咽も漏らさない。表情筋さえ動かない。

 ただ、目からあふれ出た温かい液体が、頬骨の突き出た頬を伝い、フォトフレームに落ちていく。

 彼女は写真を胸に抱き、膝を抱えるようにして体を小さく丸めた。

 その背骨の一つ一つが、鋸の歯のように皮膚を押し上げている。

 テーブルの上では、誰も食べるはずのない寿司が、静かに乾燥を始めていた。

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