錨を下ろしたいヒト

古 散太

錨を下ろしたいヒト

 船は、大海原でただ停船していたら、潮の流れによって流されてしまう。それを防ぐために船は錨を下ろす。錨の重さによって、潮の流れにも負けず、停船した場所から動くことはない。

 できることではないが、ヒトも錨を下ろしたがる生き物だ。

 人生という大海原の真ん中で、漂っているような気になり、どこにでもいいし、どんなものでもいいから、錨、あるいはその用途に合うものを下ろしたくなる。

 その根っこにあるものはいつも恐怖からくる不安だ。

 何も決まっていない、決めたところでそのようになるかどうかわからない未来に対して、恐怖を感じる。明日のぼくは無事なんだろうか、明日のぼくは生きているだろうか、明日のぼくは今と同じような生活をしているだろうかなどなど、先行きの見えない未来に向けて、自分にとって都合の悪い未来を想像して恐怖を感じる。その恐怖が、「今・ここ」に存在する自分を不安で包んでしまう。

 未来は誰にもわからない。一秒後、頭上に隕石が降ってくるかもしれない。未来のすべてが自分の想像できる範囲のこととは限らない。予言者の言葉が一〇〇パーセント現実になっているわけでもない。それなのに、自分の未来はよろしくないと勝手に考えて、恐怖し、不安に陥っている。それが現実であり、事実だ。

 この世に不安というモノは存在しない。例えば、真っ暗な部屋でロウソクが一本、灯っているとしよう。この光景をどう受け止めるかだ。

 不気味に見えて恐怖や不安を感じるかもしれない。単なる停電を連想するかもしれない。停電から自然災害を想像するかもしれない。あるいは瞑想していると考えるヒトもいるかもしれない。ただロウソクの明かりが好きなヒトかもしれない。

 ひとつの状況の受け取りかたは、ヒトそれぞれだ。その受け取りかたによって生み出される感情もまたヒトそれぞれだ。その中に恐怖と不安がある。つまり、そもそも存在しているものではなく、そのヒトが自分の中から生みだした感情でしかないということになる。

 想像してしまった不安のために、「今・ここ」という貴重な人生の一瞬を、その不安を取り除くための準備に費やしているのが現代を生きるヒトたちだ。「今・ここ」での体験こそが人生を積み上げていくのに、不安の中で生きていて幸せになれるわけもないのは、誰が見ても明白ではないだろうか。


 不安は自我意識で創られる。

 ヒトは自我意識によって生かされている。なので、自分の身を守ることを最優先に考えるように出来ている。そのため、未来に対して不確定要素があればそこに危険を感じてしまう。その危険を感じている部分こそが、恐怖であり不安だ。

 しかしどうだろう。現代社会、とくに日本で生きていて、野生動物のように危険を感じながら生きている人がどれほどいるだろうか。

 危険と隣り合わせな生きかたをしているヒトはしょうがないが、普通に生きているヒトであれば、深夜にコンビニに行くこともあるだろうし、不安を感じることなく道を歩いているのではないだろうか。

 それには「慣れ」というものがある。いつものコンビへのルートとか、いつも歩いている道、ということであれば、これまでの体験上、何事も起こっていないからこれからも起こらないという思い込みだ。実際にそんな理屈は通用しないが、そのヒトの中ではそれでオーケーが出てしまう。

 そんな理屈や根拠のないことでも、しがみつくように思いこんで、自分は安全だと信じたいのが人間だ。

 ヒトが不安になるのは、安心や安全であるという確固としたものが無いからで、その部分が保障されれば一気に不安は解消される。しかし未来のことは誰にもわからない。当たり前だが、安心なのか、安全なのかという問いに答えられる者はいない。

 そのため、自分の中でギリギリであっても、なんとか納得できるものを保障として信じようとする。もちろんその保障に実体はない。そう信じたい、そうであってほしいという自分の願望があるだけだ。

 固定できる何かがあることで、ヒトは不確定要素だらけの不安からすこしでも解放される。この思い込みこそが「錨」である。

 残念ながら、その「錨」は完全なる幻想である。何の根拠もなければ質量もない。いわば発泡スチロールで出来た錨。船であればあっという間にどこへとも知れず流されてしまうだろう。

 ヒトは「今・ここ」を生きている。それ以外に生きている時も場所も存在しない。そして「今・ここ」の積み重ねが人生である。

 未来が良いものかそうではないのかなど、誰にもわからない。予想してもそのとおりになるとはかぎらない。だとすれば、自分の意志で「今・ここ」を生き、それを積み重ねつつ、自分の望む人生に舵を切ることが、幸せな人生ではないだろうか。

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