第8話 2023年春、再生の港
エピローグ:
横浜大桟橋国際客船ターミナル。
春の柔らかい陽光が、海面に眩しく反射していた。
岸壁には、一艘の巨大な客船が静かに停泊している。
船体は真新しい塗料で輝き、舷側には金色の文字が誇らしげに記されていた。
『オリエンタル・ドリーム号』
ターミナルを見上げる広場に、佐藤恵子と中原健太郎の姿があった。
「ずいぶん、きれいになったわね」
恵子は、あの悪夢の船を見上げながら、穏やかに口にした。
「ああ。まるで何もなかったみたいに」
健太郎が答える。
彼らの関係は、あの危機を乗り越える中で、確固たるものになっていた。
今は、二人の左手の薬指に、細いプラチナの輪が光っている。
【再び船へ向かう動機】
健太郎は、恵子の手を握りしめながら言った。
「初めて予約した時、君は『日常から完全に離れて、何もしない贅沢を味わいたい』って言った。
あの時の旅は地獄になったけど、僕たちはあの時、できなかった『何もしない贅沢』を、今度こそこの船で実現しなくちゃならない」
恵子は頷いた。
それは、トラウマを克服するための挑戦でもあり、失われた過去の喜びを取り戻すための、二人にとっての「再出発の儀式」でもあった。
【それぞれの道】
彼らの背後には、あの時、船の感染制御の失敗を恐れた者たちの、それぞれの人生があった。
神崎 拓海医師は、パンデミックを通じて日本の感染制御分野の第一人者として多忙を極めていた。
彼は今も、あの船での経験が、その後襲来した巨大な波への「最初の訓練」であったと確信している。
アダム・パーカーは、あの告発後に会社を辞め、現在、国際的なクルーズ船乗員の労働環境改善を訴えるNPOで活動している。
彼の勇気ある行動は、業界全体の労働安全基準を見直すきっかけの一つとなった。
そして、藤木 誠。
彼は結局、本社の庇護下を離れ、小さな地域貢献団体で再出発していた。
彼は今でも、毎朝出勤前に、船が停泊する横浜港の沖を遠くから眺める。
彼にとって『オリエンタル・ドリーム号』は、組織の倫理に敗北した自身の良心を刻んだ、巨大な記念碑だった。
【記憶と希望】
健太郎は、手すりに肘をつき、妻となった恵子を見た。
「あの時、君が送ってくれたメッセージ。『ねぇ、今日はちょっと寒いね』。あれは、僕にとっての合図だったよ。君が寒さに震えている間、僕は外から恵子に火を灯さなきゃいけない、ってね」
恵子は、くすっと笑った。
「あの船は、『楽園の監獄』だった。
でも、そこで私たちは、命よりも大事なものを得た。
それは、自分たちが、お互いにとってどれだけ大切な存在かを知るということ」
彼女は、健太郎の手を握りしめた。
埠頭には、これから乗船する新しい乗客たちが、期待に満ちた顔でチケットを手にしている。
彼らは、あの三年前の悪夢を知らない、あるいは忘れようとしている。
「どうする? 乗るかい?」
健太郎が尋ねた。
恵子は一瞬、船の白い船体を凝視した。
それは、恐怖の記憶であり、同時に希望の象徴でもあった。
「ええ、乗りましょう。私たちはもう、あの時の私たちじゃないもの」
二人は、連れ立ってターミナルのゲートへと歩き出した。
巨大な船は、まるで過去の非礼を詫びるかのように、その鋼鉄の躯を低く静かに横たえ、彼らの帰還を待っていた。
『オリエンタル・ドリーム号』は、過去の記憶を乗せて、再び大海原へと向かう。
それは、苦難を乗り越え、それでも旅を続ける、人類の希望を乗せた船のように見えた。
[完]
この物語は、過去に発生した出来事から着想を得て構成されたフィクションであり、登場する人物名、団体名、客船名などはすべて架空のものです。実在の個人、団体、事件とは一切関係ありません。
楽園の監獄 沢 一人 @s-hitori
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