3話 出て行くのは、どっち?
──その日、私は、こっそり「ひとり暮らし ワンルーム 相場」で検索していた。
「ふうん、相変わらずえぐいな、家賃」
スマホ画面の数字をスクロールしながら、小さく息を吐く。
(やっぱり、出て行くなら実家に戻るしかないか)
大学からは遠くなる。
終電も気にしなきゃいけなくなるし、サークルも控えないといけない。
それでも、ここに居続けるよりは──と、さっきまでは思っていた。
「なに、それ」
背後から、ひょいとのぞき込む影があらわれるまでは。
「ちょっ、見ないで!」
慌ててスマホを裏返したけれど、遅かったらしい。
「今、『ワンルーム 相場』って読めた」
「気のせい」
「で?」
いつもより少し低い声で問い詰められて、私はソファベッドの上で固まった。
夕飯の洗い物を終えたところだった。
テレビはつけていない。
キッチンの明かりだけがついている、少し暗い部屋。
「……いや、その。もし、ね。将来的に、ひとり暮らししたくなったら、いくらくらい必要なのかなっていう、単なる興味で」
「へー」
悠真は、明らかに信じていない目で私を見る。
「ここに住んでるやつが言う台詞じゃないよな、それ」
「いいでしょ別に。いつまでもルームシェアってわけにもいかないし」
「“いつまでも”って、まだ数日目だろ」
するどいツッコミに、言葉が詰まる。
たしかに、それもそうだ。
でもこの数日で、十分わかったこともある。
──この部屋は、居心地がよすぎる。
生活リズムもだいたい一緒で、キッチンの動線も、お互い邪魔にならない。
気を抜けば、昔みたいに、「友達」としての距離感で笑っていられる。
だけど、ソファの端っこに座れば、あのキスの感触が、勝手によみがえってくるし。
ベッドの縁に腰をかければ、“もう少しで落ちる橋の手前”みたいな感覚を、簡単に思い出してしまう。
(これ以上ここにいたら、絶対、私、この人に恋とかしちゃうじゃん)
──もうしてるくせに、と頭のどこかが冷静にツッコんでくるのは無視した。
「……別に、出て行くなんて言ってないじゃん」
「じゃあ、言う?」
「言わない」
くいくい、と問答が続いて、しまいには、ため息が出た。
「ごめん。たぶん、私の方が限界近いだけ」
ぽつりと漏らした本音に、悠真の眉がぴくりと動く。
「限界?」
「うるさいもん、この部屋。静かなくせに。
シャワーの音とか、歯ブラシの音とか、そういうの全部、こっちに届くじゃん。生活音、丸聞こえで」
「ルームシェアってそういうもんじゃん」
「そうなんだけど」
それだけじゃない。
「……悠真を見るたびに、『あー、この人、ついこの前まで別の人が好きだったんだな』とか。『その人とキスしてたんだろうな』とか。勝手に想像して、勝手に疲れる」
言葉にしてしまったら、ぐさりと自分に刺さった。
「で、そこに上乗せで“練習キス”とかして。なんかもう、ぐちゃぐちゃで。ルームシェアとしても、友達としても、ちゃんとやれてる気がしない」
黙って聞いていた悠真は、しばらく目を閉じて、それからゆっくり息を吐いた。
「……それは、こっちのセリフでもあるけどな」
「え?」
「お前見るたびに、『あー、この人、俺の練習相手してくれたんだよな』とか。『昨日、“怖い”って言ってたくせに、今普通の顔してるな』とか。だいぶ疲れる」
そこ、疲れてたんだ。
思っていたのと違う方向から返ってきて、拍子抜けする。
「そもそもさ」
悠真は、テーブルの上にあった自分のスマホをとると、ロックを外して、私の方に画面を向けた。
メッセージアプリが開かれて、一番上にあの名前が見える。
元カノの名前。
そこに、彼の指が触れた。
「見とけよ」
そう言って、ためらいなく「ブロック」のボタンを押す。
さらに、アルバムアプリを開いて、「お気に入り」に入っていた二人の写真を、一括で削除した。
「……」
思わず、息を呑む。
「ちゃんと終わらせるって、こういうことだろ」
悠真は、あっけらかんと言う。
「未練、ゼロってわけじゃない。長く付き合ってたから、癖みたいなもんは残ると思うしさ。でも、それと“これから誰と一緒にいたいか”は別問題だから」
「誰と、一緒にいたいの?」
ほとんど反射的に聞いてしまってから、しまった、と思う。
(いやそれ、自分で訊く?)
だけど悠真は、少しも迷わなかった。
「今は、遥」
即答だった。
喉の奥が、きゅっと詰まる。
「ルームシェア相手として、とかじゃなくて?」
「それも込みだけど。“彼女”候補としてって意味で」
「……簡単に、そういうこと言わないでよ」
「簡単じゃねえよ」
むっとしたような声で返される。
「練習とか言いながら、お前とキスしてから、正直、頭の中そればっかだし。さっき、首とか触ったときも、やばかったし」
「言わなくていい」
顔が一気に熱くなる。
「でも、“やばいから出て行くわ”って言われんのも、さすがに違うだろ」
悠真は、ソファベッドの端に腰を下ろして、
私のスマホをひょいと取り上げた。
さっきまで開いていた物件サイトを、少しスクロールしてから、ふっと笑う。
「出て行くの、どっちなんだろうな、これ」
「は?」
「もし遥が本当に出ていくなら、俺、多分、“一緒に行く”って言うと思う」
「……はあ?」
耳を疑った。
「だってさ、この部屋、元カノの影残ってるの、正直こっちも微妙だし。失恋の続きみたいな場所のままにしとくの、なんか嫌じゃん」
(“失恋の続きみたいな部屋”って、私が心の中で勝手に呼んでたんだけど)
思わず、心の中でツッコミを入れる。
「それより、今は“遥のそば”の方がいいし。ルームシェア終わらせたいならさ、“ここを解約して、二人で新しい部屋借りる”って方向にしたくない?」
「何その、ちゃっかりしたプラン」
「現実的だろ?」
へらっと笑って、悠真は続ける。
「親には、“大学の友達と同居します”って言えばいいし。名目上は今と変わらない。でも中身は、“彼女と一緒に住んでます”になる」
「ちょっと待って。いつ私が彼女になったの」
思わず素でツッコむ。
悠真は、少しだけ真面目な顔になった。
「なってほしいって、今から言う」
さらっと言われて、心臓が跳ねる。
「……こういうのってさ」
彼は、スマホをテーブルに戻して、両手を膝に置いた。
「もっと、ちゃんとしたとこで言うべきなんだろうなって、頭では思う。オシャレな店行って、夜景とか見ながらさ」
「自覚あるんだ」
「でも、俺、今ここでしか言えねえわ」
笑いながら、視線がぶつかる。
「遥。ルームシェアやめて、俺と付き合ってください」
シンプルで、逃げ場のない言葉。
私の頭の中で、いくつもの注意書きがぐるぐる回り始める。
(大学の友達との同棲って、現実的にあり?親は?お金は?別れたらどうするの?今の関係が壊れたら?)
でも、その全部の上から、彼の声が、重ねて落ちてきた。
「怖いなら、それも込みで一緒に考えたい。
“怖いからやめる”じゃなくて、“怖いけど、それでも一緒にいたいかどうか”で決めてほしい」
ああもう、ずるい。
そんな言い方、ずるい。
「……ずるい」
「よく言われる」
「誉めてない」
「知ってる」
くすっと笑うその顔を見た瞬間、ふっと肩の力が抜けた。
(ああ、そうか)
この人といるとき、私はいつも、こんな感じで笑ってきたんだった。
友達としても。
長い付き合いの相手としても。
それが今度は、“彼氏”としてに、すり替わるだけだ。
もちろん、簡単じゃない。
すべてがうまくいく保証なんて、どこにもない。
でも。
「……実家への説明、手伝ってくれる?」
「もちろん。電話の練習くらいなら、なんぼでも付き合う」
即答に、思わず吹き出す。
「じゃあさ」
一度、深呼吸をした。
「ルームシェア、やめる」
「おう」
一瞬、彼の肩がびくっと跳ねる。
「代わりに──」
そこで、少しだけ言葉を溜めてから、続けた。
「悠真と付き合って、“一緒に住む”ことにする」
自分で言っておいて、顔が熱で爆発しそうになる。
でも、言ってしまった。
悠真の目が、一瞬だけ見開かれて、すぐに、嬉しいのを隠しきれないみたいな笑い方に変わる。
「……マジで言ってる?」
「冗談で言える内容じゃないでしょ、これ」
「いや、そうだけど。聞き間違いかもしれないから、もう一回」
「やだ」
即答したら、「ケチ」と呟きながら、彼は私の方へ身を乗り出してきた。
ソファベッドが、きしっと小さな音を立てる。
「じゃあ、付き合い始めてから最初の仕事していい?」
「なにそれ」
首をかしげた瞬間、顎をそっと持ち上げられた。
「彼氏として、ちゃんとキスする」
囁き終わるのとほとんど同時に、唇が重なる。
あの時の“練習のキス”とは違う。
暴走しかけた夜の温度とも、少し違う。
最初は浅く触れるだけのキスだったのに、
離れかけるたびに、すぐまた追いかけるみたいに重ねられて、だんだん息の仕方がわからなくなっていく。
「……っ、ゆう、ま……」
名前を呼んだら、間に落ちた声ごと、口の中に拾われたみたいだった。
軽くかみ合った前歯の隙間から、ぬるい息が流れ込んでくる。
唇の端をなぞるように、舌先がかすかに触れて、すぐ離れて──もう一度、やわらかく押し広げられる。
「ん……っ」
聞いたことのない自分の声が、喉からこぼれて、慌てて彼のパーカーの裾を掴んだ。
逃げたいわけじゃないのに、どこにも逃げ場がない、みたいな感覚。
腰のあたりに回された腕が、きゅっと力をこめて引き寄せてくる。
気づけば、ソファの真ん中に座っていたはずの身体が、いつの間にか、ほとんど悠真の胸に貼りついていた。
「……苦しかったら言えよ」
一度、唇を離してそう囁かれて、乱れた息のまま、思わず首を横に振る。
「や、嫌じゃない……から」
それを合図みたいに、再び口づけが落ちてくる。
さっきより深く、ゆっくり。
舌と舌がふわっと触れ合って、背中の方へ、ぞくりとしたものが走った。
Tシャツ越しに、背中をなでる手のひらが動く。
服の皺を伸ばすみたいに、肩甲骨のあたりをなぞられて、そのたびに、息に小さな震えが混じる。
「……遥、力入りすぎ」
笑いながら、腰に回された片方の手が、ソファの上に置いた私の指をそっとほどいて、絡めとった。
指先まで包まれて、ようやく少し、身体の力が抜ける。
そのまま、ゆっくり背もたれ側へ押されていって、視界の端に、ベッドの縁がちらりと見えた。
(また、ここまで来ちゃった)
頭のどこかが冷静にそう呟くのに、心臓の音だけが、バカみたいにうるさい。
「……ゆ、悠真。ここ、ソファだよ」
ようやく絞り出した声に、彼は額をこつんと合わせて、笑った。
「知ってる。ソファの端っこ。ベッドの真ん中までは、まだ行かない」
「まだって言うな」
即座にツッコんだのに、「“まだ”だからいいんだろ」と、耳元で低く囁かれる。
耳たぶにかすかに触れた息に、びくっと肩が跳ねた。
「……そういうとこ、ずるい」
「さっき誉めてないって言われたやつな」
くすっと笑いながら、彼は最後にもう一度だけ、短くキスを落とした。
さっきまでよりも、少しだけ優しくて、でも、はっきりと熱を残していくキス。
唇が離れても、額と額は、そのまま触れ合っていた。
「……こういうの、毎日でもしたい」
「知るか」
反射的にそう返したけれど、胸のどこかで、「毎日でもいいよ」と先に答えている自分がいる。
「じゃあ、とりあえず」
悠真は、ゆっくりソファから立ち上がって、
部屋をぐるりと見回した。
「この部屋、ルームシェアのスタート地点から、“同棲のスタート地点”に格上げだな」
「なにそれ」
「大事なこと」
得意げに言ってから、ふと、少しだけ表情を曇らせる。
「元カノの影とか、嫌な記憶とかさ。そういうの、まだちょっと残ってるかもしれないけど……」
そこで言葉を切って、彼は首筋をかきながら笑った。
「いつか、全部上書きできたらいいなって思う。ここで、遥とのやつで」
その言葉に、思わず肩の力が抜ける。
「じゃあ、名前変えよ」
「名前?」
「この部屋の、イメージ。私の中ではさ、ずっと“失恋の続きみたいな部屋”って感じだったから」
ソファベッドの上で膝を抱えながら、私はゆっくりと言葉を選ぶ。
「それ、今日からもうちょいマシな名前にする」
「たとえば?」
「“元カノにフラれた友達を見張るつもりで始めたルームシェアが、気づいたらその本人と彼氏として暮らしてる部屋”とか」
悠真が、一瞬きょとんとしてから、嬉しそうに目を細めた。
「長ぇな」
「文系だから」
「理系でも長ぇわ」
笑い合いながら、同じソファの上で、気づけば身体が自然と寄っていた。
肩と肩が触れて、さっきまでくっついていた唇の感触が、まだじんわり残っている。
──私の中で「失恋の続きみたいな部屋」だと思っていたここは、今夜から、「彼氏と暮らす部屋」になる。
出て行くのは、過去の恋だけ。
ここに残るのは、ソファの端っこと、ベッドの真ん中を、これから一緒に埋めていく、私たち二人だ。
[完]
──
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長編『君のとなりで、恋をする』第1部全26話完結しました。よかったらこちらもどうぞ。
第1話https://kakuyomu.jp/works/7667601419967024270/episodes/7667601419969598965
失恋した男友達と、ルームシェア始めました 森谷るい @rui_moriya
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