2話 ソファの端っこと、ベッドの真ん中


──ルームシェア二日目の朝。



「……起きろ、遥。遅刻する」



ぼんやりする視界に、見慣れた顔が近すぎる距離で入ってきて、私は思わず布団を頭までかぶった。



「近い近い。顔、近い」


「いつもなら電話で起こしてただろ。物理バージョンだと思え」


「新サービスいらない」



ソファベッドの上で丸くなりながら文句を言うと、悠真はあきれたように笑って、カーテンをシャッと開けた。


刺すような朝日が、狭い部屋を一気に暴く。


ソファベッド、ローテーブル、シングルベッド。


昨夜キスをしたテーブルは、そのままの位置にあって、見ないふりをしているのは、互いにきっと同じだ。



(昨日のこと、夢ってことにできないかな)



そんな願いは、眠気と一緒にどこかへ消えた。



「ほら、シャワー先に浴びていいよ。俺は後で」


「じゃあ、ありがたく」



脱衣所代わりの狭いスペースに入り、カーテンを引いて、シャワーの蛇口をひねる。


壁一枚向こうで、悠真が動く気配がする。


歯を磨く音。


マグカップをテーブルに置く硬い音。


換気扇の、小さな唸り。



(……生活音、近すぎ)



今までも、何度か彼の家に泊まったことはある。


でもそれは「終電逃したから」みたいな、あくまで一時避難で、ここまでがっつり“共同生活”という感じではなかった。


シャワーを浴びて、鏡の前でタオルドライをしていると、カーテン越しに、悠真の声がした。



「遥、シャンプー足りなかったら言えよ」


「うん、大丈夫」


「つーかさ……」



一拍置いて、少し照れたような声音になる。



「昨日のこと、あんまり気にすんなよ」


(出た)


「気にしてないし」



即答した私に、薄いカーテンの向こうで、くくっと笑う気配がした。



「即答すんな。ちょっとは迷え」


「迷ったけど、気にしてないってことにする。練習だったし」


「……ああ、そうだったな。練習」



その言い方が、なんだか喉の奥に引っかかる。


シャワーの音にまぎれて、自分のため息だけがこぼれた。





大学からの帰り道、最寄り駅に着くころには、すっかり空がオレンジに染まっていた。



「今日、サークル来ないんだって?」



同じサークルの後輩にそう言われて、私はようやく悠真の予定を思い出す。



(あ、今日、元カノと会うって言ってた──)



朝、バタバタしているときに、「夜、ちょっと出かける」とだけ聞かされていた。


行き先は言わなかったけど、どこへ行くのかを想像するのは簡単だった。



(ちゃんと終わらせるために、会うべきなのかなって──)



昨日の言葉が、そのままよみがえる。



「遥、今日どうする? 飲みいく?」


「ごめん、今日はまっすぐ帰る。引っ越しの片づけ残ってて」



笑ってごまかしながら断って、私は一人で改札を抜けた。


ホームから見える方向に、あの部屋のあるマンションの影が、黒い箱みたいに並んでいる。





部屋に着いたときには、すでに日がすっかり落ちていた。



「……ただいま」



暗い玄関に声を落としても、返事はなかった。



「そりゃそうか」



靴を脱ぎながら、苦笑する。


リビングの電気をつけると、朝出てきたときのままのテーブルがそこにあった。


マグカップのあと。


開きっぱなしの参考書。


ソファの上に、悠真のパーカーが投げ出してある。



(まだ、話してるのかな)



元カノと。


どんな顔で。


何を、話しているんだろう。


ソファベッドに腰を下ろして、テレビもつけずにぼんやりしていると、静かなはずの部屋が、必要以上にうるさく感じた。


冷蔵庫のモーター音。


廊下を歩く人の足音。


外から聞こえる、犬の鳴き声。



「……っはあ」



思わず、大きくため息が漏れる。



(何やってんの、私)



別に、待っててほしいなんて言われてない。


勝手にソワソワして、勝手に落ち着かなくなってるだけ。


スマホを取り出して、タイムラインをなんとなくスクロールする。


どうでもいい動画ばかり流れてきて、頭に入ってこない。



(帰ってこなかったら、どうしよう)



そんな考えがよぎって、慌てて打ち消す。



(いやいや。さすがにそれはない。ないけど)



指が勝手に動いて、メッセージアプリを開いていた。


まだ外?


打とうとして、途中で消す。



(なにこれ。彼女か)


「……違うし」



声に出して否定するけれど、胸のモヤモヤは晴れない。


もう一度、メッセージ画面を開いて、今度はちゃんと文字を打つ。



〈夕飯どうするの〉



送信ボタンに指を乗せて、そこでまた止まった。



「……やめた」



スマホをソファに投げ出す。



(帰ってくるのが当然、みたいな顔をして待ってるのも、なんか違う)



私たちは、まだ“友達”で、“ルームシェアの同居人”で。


昨日のキスだって、ただの「練習」で。


そう決めたのは、私だ。


そのはずなのに。


玄関の方を、何度も何度も見てしまう。


時計の針が、やけに遅く進む。


二十一時。


二十二時。


二十三時。



「……遅くない?」



さすがに不安になってきたころ、ようやく、鍵の回る音がした。


ガチャ、とドアが開く。



「ただい──」


「遅い」



思ったよりきつい声が出て、自分で少し驚いた。



「あー……やっぱ、起きてたか」


「起きてるに決まってるでしょ。この部屋に、ベッドひとつとソファひとつしかないの、忘れた?」



悠真は、靴を脱ぎながら苦笑した。


シャツの襟が、少しだけ乱れている。


いつもより整った髪。


薄い香水の匂い。


胸の奥が、じくじくと痛んだ。



「ごめん、連絡しようと思ったんだけど、タイミング逃してさ」


「ふうん。タイミング、ね」



どうしても、棘のある言い方になってしまう。



「ちゃんと話せた?」


「……ああ」



靴をそろえて、悠真はゆっくり顔を上げた。



「終わったよ」


「終わったって?」


「別れ話、ちゃんと。今度こそ」



その言葉に、ほんの少しだけホッとしてしまう自分がいる。



「向こうもさ、新しいところで頑張りたいって言ってたし。俺も、いつまでもしがみついてんのダサいなって思って。……で、飲みに行ってた」


「二人で?」


「いや、途中で向こうの友達も合流して、最後ほぼ飲み会」


「そっか」



安堵と、別の種類のざらつきが、混ざって喉にひっかかる。


「心配した?」


「あんまり」


「うそつけ」


「ちょっとだけ」



正直に言ったら、悠真はふっと笑った。



「悪かったな。……ありがと」


「何が」


「心配してくれたの。そういうの、ちょっと効いた」



そう言って、ふいに視線を外される。



「……なにそれ。効いたって」


「いや、なんでも」



曖昧に笑って、悠真はキッチンの方へ行こうとした。


その袖を、咄嗟に掴んでしまう。



「ちょっと待って」



自分でもびっくりするくらい、強い力で。


振り返った彼の目が、少しだけ見開かれた。



「な、に」


「……なんか、嫌だった」



ようやく出てきた言葉は、呆れるほど子どもっぽい。



「なにが」


「わかんない。わかんないけど。今日、ずっとそわそわしてて、帰ってこないかもって一瞬思って。なんか、それが、すごく嫌で」


彼女でもないくせに。


女友達のポジションのくせに。


「それで、練習キスなんて持ちかけた自分もアホだなって思って。もしさ、あっちとやり直すってなってたら、私、どうしてたんだろうとか」



言いながら、喉の奥が熱くなる。



(あー。やばい。泣きそう)



悠真は、黙って私を見ていた。


廊下の照明が、彼の影を長く落とす。


しばらくして、ぽつりと言う。



「……今日な」


「ん」


「別れ話してるとき、一瞬だけ、昨日のこと思い出した」



昨日の、キス。



「どうしようもない話してるのにさ。遥の顔が、ふっと浮かんできて、めちゃくちゃ自己嫌悪した」


「……それ、私に言う必要ある?」


「ある」



迷いなく言い切られて、言葉が詰まる。



「で、その瞬間に思った。ああ、俺、ちゃんと終わらせないと、遥にキスできねえなって」


「……は?」



よくわからない理屈に、思わず間の抜けた声が出る。



「昨日のは、いいわけ。練習。でも今日からは、そうじゃない。ちゃんと終わったから。ちゃんと終わらせたから」



そこで言葉を切って、悠真は一歩、近づいてきた。


ソファの背もたれが、じわっと背中に押しつけられる。



「ちょっと座れ」



言われるがまま腰を下ろすと、彼は目の前にしゃがみこんで、視線を合わせてきた。



「遥、今日、泣きそう?」


「泣いてない」


「じゃあ、泣く前に」



静かに伸びてきた手が、頬にふれる。


指先が、耳の後ろの髪をそっと払う。


くすぐったくて、そこだけ熱くなる。



「……練習の続き、じゃないやつ。してもいい?」



真っ直ぐな目で聞かれて、喉がごくりと鳴った。



「……い、今さらダメって言ったら?」


「多分、ちょっとだけ無理する」


「ちょっとだけってなに」



文句を言いかけた口元に、柔らかいものが落ちてきて、そのまま塞がれた。


昨日のキスとは、最初から違った。


勢いよく奪うわけじゃないのに、唇を重ねられた瞬間、背中を電気が走ったみたいにびくっとする。



「……っ」



息が漏れた隙間に、彼の息が入り込んでくる。


唇を押しつけられて、少しだけ角度を変えられて、離れそうになるたび、追いかけるように重ねられた。


逃げ場を失ったみたいで、テーブルクロスを掴むみたいに、ソファの端をぎゅっと握る。


それでも、押し返せなかった。


顎をそっと持ち上げられて、ほんの少し開いた隙間に、彼の舌先がかすかに触れる。



「……っ、や、ちょっと」



聞いたことのない自分の声が、喉から零れ落ちた。


その声に、悠真の指先がぴくっと震える。


それでも、キスは止まらない。


浅く触れるだけだった感触が、確かめるみたいに、ゆっくりと深くなっていく。


胸の奥が熱くて、頭の中が真っ白になっていく。


気がつけば、ソファの背にもたれていたはずの身体が、いつの間にか、下へ、下へと押し倒されていた。



「……っ、悠真」



名前を呼べば、重なっていた影が少しだけ離れて、すぐまた首筋のあたりに落ちてくる。



「ここ、弱い?」



低い声と一緒に、あごのラインから首筋にかけて、ちいさなキスがいくつも落ちてきて、思わず肩が跳ねた。


Tシャツの裾をつままれて、指先が、布越しに腰のあたりをなぞっていく。


くすぐったいのと、恥ずかしいのと、それから、よくわからない熱さが、一度に押し寄せる。



(ダメだ、これ以上は……)



頭ではわかってるのに、身体が動かない。


ソファの端っこに置いていたはずの足が、じりじりと後ろへ押されて、次の瞬間、背中に固い縁の感触があたった。


ベッドの端。



「……待って」



ようやく絞り出した声に、悠真の動きが、一瞬だけ止まる。



「嫌?」


「嫌じゃない。……怖い」



正直に言ったら、彼は少しだけ目を見開いて、それからふっと息を吐いた。



「……そっか」



私の腰にかかっていた手が、そっと力を抜いていく。


代わりに、おでこに軽いキスがひとつ。



「ごめん。ちょっと、走りすぎた」



額をくっつけられて、近すぎる距離で、彼の息がかかる。


さっきまでの強引さが嘘みたいに、ゆっくりと、髪を撫でる手つきに変わった。



「今日はここまで」



首筋に、名残惜しそうなキスがひとつ落ちる。



「ちゃんとやり直したいからさ。せめて、『ルームシェア相手』じゃなくて、『彼氏』名乗れるようになってから、その先、触らせろよ」



囁くみたいな声が、耳のすぐそばで落ちてくる。


心臓の音が、彼に聞こえてしまいそうで、思わず胸のあたりを押さえた。



「……そんなの、聞いてない」


「今、言った」



ずるい、と思う。


ずるいけど、嫌じゃない。


むしろ、どうしようもなく、うれしかった。


ベッドの縁とソファの境目。


その真ん中あたりで、私たちはしばらく、額を寄せ合ったまま、動けずにいた。



──失恋のとなりで始まったルームシェアは、ソファの端っこから、ベッドの真ん中へ、もう少しで踏み出しそうなところで、ぎりぎり踏みとどまっている。


まだ、「彼氏」とは呼べない場所で。



──







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