第16話 新しい時代の仕立て屋

第十六章 新しい時代の仕立て屋


三年後。


ロンドンの街並みは、少しずつだが確かに変わり始めていた。


異端狩りが完全に消え去ったわけではない。それでも、かつてのような狂気じみた熱は収まりつつあった。セディック・クロウの告白は、多くの人々の心に大きな影響を与えていたのだ。


──本当に、魔女だったのか。


そんな問いが、人々の胸の奥に静かに芽生えていた。


女王アウレリア三世のもとで新しい法律が制定された。魔術の使用を一律に禁じるのではなく、実害があるかどうかで判断する。そして、確かな証拠もなく魔女として告発することを禁じる条例も作られた。


これらの改革は、緩やかながらも確実に効果を上げつつあった。


王宮の執務室。女王は窓辺に立ち、庭園で咲く秋の花々を見下ろしていた。午後の光は穏やかで、空気にも静けさが満ちている。


「陛下」


扉が開き、ローザリン・アシュフォードが現れた。


三年前と変わらぬ精悍な姿だが、その瞳にはどこか柔らかさが宿っていた。銀の鎖帷子はすでに彼女の身体の一部となっており、外からは見えないものの、確かにそこに存在していた。


「ローザリン」女王は微笑む。「今日の巡回はいかがでしたか?」


「特に問題はありません」

ローザリンは恭しく報告した。「街は平和です」


「そうですか」女王は小さく息を吐いた。「よかった」


ローザリンは女王の隣に並び、二人で窓の外へ視線を向けた。


「陛下」ローザリンが静かに口を開く。「あの時、私は……本当に正しい選択をしたのでしょうか」


「“あの時”というのは?」


「鎖帷子を纏い、時を巻き戻した時のことです」

ローザリンは自らの胸に手を当てた。「私は、陛下の運命を変えてしまった」


女王はローザリンの横顔を見つめた。


「後悔しているのですか?」


「いいえ」

ローザリンは即座に首を振った。「ただ、時折考えるのです。もし、あのまま私が何もせずにいたら……何が起きていたのだろう、と」


女王はしばし沈黙してから、ゆっくりと答えた。


「おそらく、国は混乱に陥っていたでしょう。後継者争いが起こり、セディック・クロウの組織が力を増していたかもしれません」


「では……」


「あなたは正しいことをしたのです」

女王は柔らかい声で言った。「私はあなたに心から感謝しています」


ローザリンの唇に微かな笑みが浮かんだ。


「ありがとうございます、陛下」


「ただ……あなたが背負ってきた重荷は、私には想像もつきません」


ローザリンは視線を外に戻した。


この三年間、彼女は数えきれないほどの暗殺を未然に防いできた。矢、刃物、毒、罠……どんな形であれ、女王の命を狙う者は絶えなかった。


しかしローザリンはすべてを防いだ。鎖帷子が、暗殺の気配を事前に告げてくれるからだ。


「重荷、ですか……」

ローザリンは静かに呟いた。「確かに、重い。でも」


女王の方へ向き直る。


「陛下と共に背負える重荷なら、私は耐えられます」


女王はそっとローザリンの手を取った。


「あなたは、私がもっとも大切に思う友人です」


「陛下……」


「いいえ」女王は小さく首を振った。「今は、一人の友として言わせてください。ローザリン、本当にありがとう」


二人はそっと微笑み合った。


その日の午後、ローザリンは久しぶりに一人で王宮を出た。


護衛も連れず、ただ街を歩く。危険が完全に消えたわけではない。それでも、彼女は恐れなかった。


街は賑わい、人々は笑い、子どもたちは走り回っている。


三年前とは、空気がまるで違っていた。かつて街を覆っていた緊張や憎悪は、確実に薄れつつあった。


ローザリンの足は、自然とある場所へ向かっていた。


――時計台。


そこから北へ五十歩、南へ三歩。


三年前と同じ道順を辿り、鉄の杖を三度鳴らし、合言葉を口にする。


霧のように道が開き、あの扉が姿を現した。


「……仕立て屋」


ローザリンは静かに扉を押し開けた。


中は、あの日と何も変わっていなかった。布地の山、整然と並んだ針と糸。そして窓辺に立つ青年――アーサー・グレイ。


「いらっしゃいませ」

アーサーは柔らかく微笑んだ。「ローザリン・アシュフォード様」


「久しぶりです」

ローザリンも微笑み返す。「お元気でしたか?」


「はい」アーサーは静かに頷いた。「あなたの方こそ、いかがお過ごしですか?」


「おかげさまで」

ローザリンはそっと胸に手を添えた。「鎖帷子は今も、私を守り続けてくれています」


「それは……よかった」


ローザリンは工房の内部をゆっくりと見渡した。


「今日は、お礼を言いに来ました」


「お礼を……?」


「あなたが作ってくれた鎖帷子のおかげで」

ローザリンは穏やかに微笑んだ。「女王陛下は今も無事で、国も徐々に良い方向へ向かっています」


アーサーは、その報せを噛み締めるように頷いた。


「それはつまり……あなたの願いが叶った、ということですね」


「はい」

ローザリンは静かに言った。「私の本当の願い──“女王陛下の重荷を共に背負うこと”。その願いは、叶いました」


「後悔は?」


「ありません」

ローザリンは揺るぎない声で答えた。「これは、私が選んだ道です」


アーサーの表情に、柔らかな温かさが宿った。


「では……紅茶でも淹れましょう。少し、お話でも」


「ありがとうございます」


アーサーは小さな炉にそっと火を入れ、やかんに水を満たした。棚から茶葉の缶を選び、丁寧に準備を進めていく。


湯が沸くまでのあいだ、二人は言葉を交わさずにいた。だがその沈黙には、ぎこちなさも重さもなかった。ただ静かで、心が落ち着く静寂だった。


やがて、紅茶の豊かな香りが工房に満ちた。


「セディック・クロウのこと……聞きましたか?」


ローザリンが口を開く。


「はい」アーサーは小さく頷いた。「彼は最期に、真実を語ったそうですね」


「ええ」

ローザリンは紅茶をひと口含んだ。「彼もまた、救いを求めていたのでしょう」


アーサーは少しだけ目を伏せる。


「そうです。彼の真の願いは――罪からの解放でした。そして、それは叶えられました」


「あなたが作った服によって」


「いいえ」

アーサーは緩やかに首を振った。「彼自身の選択が、願いを叶えたのです」


ローザリンは静かにアーサーを見つめた。


「あなたは……不思議な人ですね」


「よく言われます」アーサーは苦笑した。


「人の願いを叶えるというのは、時に残酷な結果をもたらす。それでも、あなたはその手を止めない」


「止める権利は、私にはありません」

アーサーは淡々と言った。


「では……あなた自身の願いは?」


ローザリンの問いに、アーサーはしばし沈黙する。


そして、正直な声音で答えた。


「分かりません。私は人の願いを見ることはできますが……自分の願いだけは見えないのです」


ローザリンの胸に、微かな切なさが去来した。


「それは……寂しくありませんか?」


アーサーは窓の外へ視線を向けた。通りを照らす光が、ゆるやかに揺れている。


「かもしれません。でも、それが私の役割なのだと思います」


ローザリンは、この若い仕立て屋が抱える孤独の深さを感じた。

他人の願いばかりを見続け、自分の願いを知らないまま生きる。それは、想像以上に過酷な道なのではないか。


「いつか」

ローザリンは柔らかく言った。


「あなたも、自分の願いに気づく日が来るはずです」


アーサーはゆるりと息を吸う。


「そうでしょうか」


「ええ。そしてその時は──誰かが、あなたの願いを叶えてくれるかもしれません」


アーサーは少し驚いたように目を瞬いた。

そののち、小さな笑みがこぼれた。


「それは……面白い考えですね」


二人は紅茶を楽しみながら、しばらく他愛ない会話を続けた。街のこと。女王のこと。そして、これから訪れる未来の話。


やがて、ローザリンは席を立ち上がる。


「そろそろ戻らなければ。陛下がご心配なさるでしょう」


「はい。お気をつけて」


アーサーは扉の前まで歩き、ローザリンを見送ろうとした。


扉に手をかけたローザリンは、ふと振り返る。


「アーサー・グレイ」


アーサーは目を上げた。


「もし、あなたが願いを持った時は……私に知らせてください」


「なぜですか?」


「私も」

ローザリンは優しい微笑みを浮かべた。

「あなたの願いを叶える手伝いがしたいからです」


アーサーの胸に、ふわりと温かいものが広がったように感じた。


「……ありがとうございます」


ローザリンは静かに頷き、工房を後にした。


アーサーは窓辺に立ち、去っていくローザリンの背中を見送った。

彼女は王宮へ向かって真っ直ぐ歩いていく。女王を守るために。


「願い……か」


アーサーは小さく呟いた。


自分の願い。それが何なのかは、まだ分からない。


だが──いつか、その意味を知る日が訪れるのだろうか。


その時、工房の裏口が開いた。


エルドラが姿を現す。孔雀の羽のセンスを優雅に携えて。


「また来客があったようだな」

エルドラは軽やかに言った。


「はい」

アーサーは微笑んだ。「ローザリン・アシュフォードが、お礼を言いに来ました」


「そうか」

エルドラも柔らかく笑む。「あの娘は、良い騎士だ」


「ええ」


エルドラはアーサーの隣に立ち、工房の外を静かに眺めた。


「お前は……これからも、この仕事を続けるつもりか?」

エルドラが問う。


「はい。それが、私の役割です」


「たとえ、辛くても?」


「たとえ、辛くても」


エルドラはアーサーの横顔を見つめる。


「お前は……強いな」


「いいえ」

アーサーは首を横に振った。「師匠がいてくれるから、です」


エルドラの目に、優しい色が広がった。


「私はいつまでも、お前のそばにいられるわけではない」


「分かっています」


「だが……お前が一人になっても、この仕事を続けられるか?」


アーサーは一瞬だけ考えた。そして、静かに答えた。


「分かりません。でも……続けるしかないのだと思います」


「なぜだ?」


アーサーは、遠くで揺れる灯りを見つめた。


「……人は、願い続けるからです」


エルドラは目を細め、大きく頷いた。


「その通りだ。人は決して願うことをやめない」


二人はしばらくの間、黙って街を眺めていた。


笑い、泣き、怒り、そして願う。

人々の思いは絶えず流れ、どこかで誰かが、今日もまた新しい願いを抱いている。


その願いはいつか、この工房に届く。


そしてアーサーは、その願いに耳を傾け、糸を紡ぎ、服を仕立てる。


それが、彼の役割だった。


「ところで」

エルドラがふと話題を変えた。「今夜は何を食べる?」


アーサーは少しだけ目を丸くした。


「師匠が……料理を?」


「馬鹿を言うな」

エルドラは愉快そうに笑う。「作るのはお前だ」


アーサーもつられて微笑んだ。


「承知しました。では、シチューでも作りましょうか」


「いいな。お前のシチューは絶品だ」


二人は工房の奥へ進み、そこにある小さな台所へと入った。


アーサーは慣れた手つきで野菜を切り、肉を煮込み、香草を加えていく。その動きは静かで丁寧で、まるで縫い物をしている時のように迷いがなかった。


エルドラはテーブルに座り、そんなアーサーを眺めながら言った。


「お前は本当に器用だな」


「師匠が教えてくださったからです」


「私が教えたのは魔術だけだ。料理は、お前が独学で覚えたものだろう?」

エルドラは軽く笑った。


「生きるために、必要でしたから」


しばらくして、鍋から良い香りが立ちのぼり始めた。完成したシチューは温かく、深い味わいがあった。


二人は向かい合って座り、食事を楽しんだ。


「……うまい」

エルドラは満足そうに言った。


「ありがとうございます」


食事を終え、エルドラは紅茶を飲みながら、ふと真剣な眼差しをアーサーに向けた。


「アーサー。お前は……幸せか?」


アーサーは紅茶の表面を見つめたまま、少し考える。


「幸せ……ですか」


「ああ。お前は人々の願いを叶え続けている。けれど、お前自身は……どうなんだ?」


アーサーはゆっくりと紅茶を置いた。


「……分かりません。幸せとは、何なのでしょうか?」


「それは、お前が決めることだよ」


アーサーは少し考え、逆に質問した。


「では、師匠は幸せですか?」


エルドラは少し驚いたように目を瞬かせ、それから穏やかな笑みを浮かべる。


「ああ。私は、幸せだよ」


「どうしてですか?」


「なぜなら」

エルドラはアーサーを優しく見つめた。「お前という弟子がいるからだ」


アーサーの胸に、じんわりと温かさが広がっていった。


「師匠……」


エルドラは遠い記憶を辿るように語り始めた。


「お前を拾った日のことを、今でも覚えているよ」


「はい」


「森の中で、小さな子供がお前は泣いていた。だが、その周りには無数の精霊が寄り添っていた」


「精霊たちが……僕を守ってくれていたのですね」


「ああ。あの時、私は確信した。この子は、特別な子だと」


アーサーは静かに聞き続けた。


「そして私は、お前を育てた。魔術を教え、仕立ての技も教えた」


「ありがとうございます」


「いや」

エルドラは首を横に振った。「礼を言うのは私の方だよ」


アーサーは目を瞬く。


「師匠……?」


「お前は、私の長い人生に意味を与えてくれた。千年を生き、多くを失ってきた私に……お前という存在を与えてくれた」


エルドラの目に、わずかに涙が浮かんだ。


アーサーはそっと師匠の手を取った。


「師匠。僕も同じです」


二人は静かに微笑み合い、心の奥でそっと感謝が響き合った。


その夜、アーサーは再び工房へ戻った。


作業台に座り、針を手に取る。

次の依頼に備え、布を選ぶ。深い青のシルク──夜空のような色だ。


「また、誰かが願いを抱いている……」


アーサーは小さく呟いた。


窓の外では満月が輝き、夜の街を白く照らしていた。人々は眠りについているが、心の奥に宿った願いは消えない。


愛を求める願い。富を求める願い。癒しを求める願い。

あるいは、救いを求める願い。


それらはいつか、精霊たちに導かれ、この工房へ流れ着く。


アーサーはその願いを受け取り、糸を紡ぎ、形に変えていく。


たとえ、自分の願いが見えなくても。


たとえ、孤独であっても。


──それが、彼の役割だった。


彼は針を刺し、一針、また一針と縫い進める。


規則正しい音が、静かな工房に響く。


人の願いは幾重にも絡み合い、この世に広がっていく。

仕立て屋は今日も静かに糸を紡ぎ続ける。


願いを聞き、糸を紡ぎ、服を縫い、願いを叶える。

それは、終わりのない営みだ。


人が生きる限り、願いは生まれ続ける。


そして彼は、それに応え続ける。


永遠に。


霧に包まれた外の通りを、誰かの影がこちらへ近づいてくる。


新しい願いをその胸に抱きながら。


アーサーは顔を上げた。


そして、微笑んだ。


「……いらっしゃいませ」


そっと扉を開く。


そこには、一人の若い女性が立っていた。


「お願いがあります……」

女性は震える声で言った。「願いを叶える服を、作ってください」


アーサーは、優しい声で応えた。


「お聞かせください。あなたの願いを」


女性は涙をこぼしながら、自らの願いを語り始めた。


アーサーは黙って耳を傾け、やがて深く頷く。


「承知しました」


また、新しい物語が始まる。


また、新しい願いが形を得る。


仕立て屋の仕事に、終わりはない。


だが、それでいい。


──人の願いを叶えること。


それこそが、アーサー・グレイの生きる意味だから。


月は静かに世界を照らし、

その光の下で、運命の糸は今日も紡がれ続ける。


人がいる限り、永遠に。

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糸と願いの仕立て屋 @kossori_013

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