第2話 魂だけの来訪者
気が付いた時、俺の意識は深いところから浮かび上がり、ふわふわと漂っていた。
まるで水中から湖面を見上げるように、空が揺らぎながら色を変えていく。
桃色から青、山吹色になり、紫が広がり——ひっきりなしに淡い色が溶け合い、揺らぎながら、視界に流れ込んでくる。
(ここは、どこだ……。まさか死んだのか?)
手を持ち上げようとするが動かない。目線も動かない、嚥下することもできない。
まるで、自分の体がなくなってしまったように。
(そうか、マティアスに突き飛ばされて、階段から落ちたのか。)
最後に見た情景が——マティアスの、この世の終わりを見たような表情が、思い浮かぶ。
あの二人の破滅は、もう確定したようなものだろう。それを見届けられないのは、少し残念だ。
(母上はショックだろうな。父上も、後継ぎを亡くすなんて、申し訳ないことをした……。)
次々に浮かんでくる、自分の死を悼んでくれそうな、親しい者たちの顔。
ああ、ルイスに借りた本も、まだ返していなかった。
(せめて、別れの言える最期なら良かったのに。)
申し訳なさが俺の内側を満たす。それに連れて、空の色が白い輝きに潰され——
「おーい、君、だいじょうぶー?」
不意に視界いっぱいに、少女の顔が広がった。
「うわ!?」
驚きと同時に発した声が、思いの外大きくて、自分で戸惑う。
その拍子に飛び起きたことで、俺は自分の身体を認識できた。
地面の上に座る感触、草を掴む手。
意識も鮮明になって、安堵の吐息を漏らした。
「ああ良かった。君、どんどん解けて消えちゃいそうに見えたからさぁ。落ち葉が燃えていくみたいに」
にっこり明るい表情を向けるのは、緩く波打つ真っ赤な髪の、十代半ばほどの少女。俺の妹と同じくらいの年頃に見える。
しかし、その背中には燃える炎のような赤と橙色、黄色の羽で構成された翼。華奢な体は簡易的な薄い布地の服を纏っているが、その脚は鉤爪のある鳥のもの。
その風貌は、明らかに人間ではなかった。
「気分はどう? 君の名前はなんていうの? 思い出せる?」
猛禽類のような脚を折り、俺と視線を合わせて尋ねてくる。矢継ぎ早に尋ねられるが、少女の異様な姿に驚愕している俺は、瞠目するばかりで言葉が出てこない。
しかし、彼女が気遣ってくれているのは伝わってくる。
「フ……フロリアン」
俺は気圧されながらも、なんとか声を絞り出した。
「フロリアン?」
少女は首を傾げて、フロリアンフロリアン、と確かめるように、口の中で俺の名前を転がす。
「うーん、長くて忘れちゃいそう。そうだ、フローって呼んでいい? うんうん、それがいい、良い響き!」
あっけらかんと少々失礼なことを言いいつつ、一人納得する彼女に、俺はただ頷くしかない。
「やった! よろしくフロー。あたしはピュリテよ」
「ピュリテ……君は一体……」
「何なんだ?」と聞こうとして、その質問の仕方はそれこそ失礼だ、と飲み込む。
しかし気にする様子もなく、ピュリテは小首を傾げて
「あたし? あたしはティーナ・アーナム」
聞き慣れない響きの言葉を告げる。
「ティーナ……なんだって?」
「アーナム! えーっと、君人間よね? 耳は丸いし羽もエラもないものね」
確かめるように背中を覗き込んだかと思うと、やおら耳を摘んできたピュリテの動きに、困惑しきって俺は固まる。
その指は発熱した子どものように熱い。
「ティーナ・アーナムは、人間の言葉では『火の精霊』って言うわね」
「火の精霊!? なら、ここは」
首を巡らせて辺りを見渡す。
空はやはり絶え間なく色を変え、木々は地面に根を下ろしているものばかりでなく、宙に浮かぶ若木が幾本も。
小島のような小さな岩場や滝、湖さえも、あちこちに浮かんでいる。
息を呑むほど現実離れした、夢のような景色。
俺のいた世界とはまるで違う世界が、そこにはあった。
「ここはもしかして、『精霊界』……とか?」
恐る恐るピュリテに視線を戻すと、彼女はにっこりと目元を綻ばせ、
「正解! その通りよ」
翼を羽ばたかせると、大きく弧を描いて宙を飛んでみせた。
「フローはね、たぶん魂だけの状態なのよ」
至極真面目に表情を引き締めたピュリテに、自分の置かれた状況を、彼女の知る範囲で説明を受ける。
時間が経つにつれて、人外の存在が目の前にいること、また見知らぬ世界にいる驚きも興奮も、また恐怖も何とか飲み込むことができてきた。
ピュリテが立てた人差し指の先で、ピリッと小さな炎が爆ぜる。
「あたしが見つけた時には輪郭から解けてきていて、今にも消えそうだったわ」
「石造りの階段から落ちて気を失ったんだ。まさか、その衝撃で魂が飛び出した、なんてことになってないよな?」
まさか、それが原因で死んだとは考えたくないが。
思わずため息が漏れる。俺の体は無事なのだろうか。
「さぁ、どうなんだろ? それに人間の魂がアル・ナムールに……えっと、『精霊界』にね、迷い込むなんて現象、あたしは初めて見るわ。でも、もしかしたら長なら知ってるかも」
「その長なら、俺を元の世界に戻るのを手伝ってくれるだろうか?」
一縷の望みに縋る俺に、ピュリテは肩をすくめた。
「それは話してみないと何ともねー。フローは自分の体に戻りたいんだよね?」
もちろんだ。力強く頷き応える。俺の無事を待っている人はいるのだから。
「じゃあ、あたしの住む集落にいる長に、会いに行ってみよう! 話はそれからだね!」
ピュリテの提案に希望を託し、俺たちは火の精霊の長を訪ねることにした。
なんでも、精霊は数百年で寿命が尽きるのが普通だが、それを超越して何千何万と歳月を生きる精霊が大精霊となり、長と呼ばれる存在となるそうだ。
ピュリテのような若い精霊は人間界に行くことはできないが、長たちは自由に人間界と精霊界を往来することができるらしい。
「そんなに長く生きている長なら、確かに前例を知っているかもしれないな……。ピュリテ、君たちの集落まで、よろしく頼むよ」
希望が見えたことで思わず弾んだ俺の声に、ピュリテは大きく頷いた。
精霊連歌:焔が灯す恋の歌 橙屋 葉 @minminmooon
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