三〇七番

六塔掌月

本文

部屋を出た。牢に向かった。途中で無について考えた。


私は持ってきた食事のトレイを差し出し口を通じて囚人に与えた。チキンパティのサンドイッチにクリームグレービーとポテト。囚人の男がそれらをむさぼり食うとトレイの上は無になった。無、と私が言うと男はうなずいて「事物は胃空間いくうかんに転移し、あとには無が残った」と言った。


「胃空間」私は首をかしげた。


「胃の内部のことさ」男が答えた。


「なるほど」


男は死刑を待つ身だった。私とは仲がいい。


我々は鉄格子越しに話をした。


死ぬってどんな感じなのかしらと私がたずねると、男は答える代わりに何らかの物語を語りだした。


「シオリは生きる価値のない女の子だった。誰からも嫌われているし、勉強はできないし、何をさせても要領が悪い。九歳で、日本に住んでいた。


あるときシオリは祖母から三つの飴玉あめだまをもらった。輝くような美しい包装につつまれた飴玉だ。きっとおいしいに違いないとシオリは思った。


一つ目を食べようとしたところで妹に出くわした。幼い妹は飴玉をほしがったのでシオリは仕方なくそれを与えた。


シオリが家から出て公園のブランコに乗り、二つ目を食べようとしたところで友達に出くわした。シオリは彼女のことが好きだったので飴玉を与えた。その友達はシオリのことが好きではなかったが飴玉には興味があったので、受け取ってから去っていった。


シオリが残った最後の飴玉を食べようとして包装をほどいたところで、地面の水たまりがそれをほしがった。水たまりの奇妙な引力によってシオリは飴玉を手から逃し、地面に落としてしまった。にごった水と泥の集積が飴玉をほおばった。シオリは涙ぐんだ」


以上だ、と男は言った。わけのわからない物語だと私は思った。私の問いへの返答になっていないし、語ることによって一体何を伝えたいのかわからない。


私がそう言うと男は答えた。


「物語に意味はいらないんだ。物語は乗り物で、それに乗ってドライブをすることが肝心なんだ。目的地はどこでもいい」


私は黙って首を横にふり、からになったトレイを持って牢の前から立ち去った。


私の名はスージー。二十五歳の女だ。この監獄かんごく配膳はいぜんや清掃などの雑役ざつえきをこなして金をもらっている。


私は配膳車を押して他の牢までいき、トレイを取り出して囚人しゅうじんに与えた。それをくりかえす。しばらく時間が経過したら今度は空になった配膳車を押して、囚人からトレイを集めてまわった。


囚人たちはみな礼儀正しかった。彼らは微笑ほほえんでトレイを受け取り、また返した。彼らは狭い独房の中で静かに座禅を組んだり、本を読んだり、軽い運動をしていたりした。囚人たちはまるでそう運命づけられていたから犯罪を犯しただけという感じがした。ルーレットをまわした。出た数字の分だけコマを進めた。着いたマスに「強盗せよ」と指示が書いてあったからその通りにした。そう言わんばかりだった。


私は配膳室に戻る。


そこにいた職員から伝言を受けて、私は所長室へ向かった。


所長は大きなデスクについていた。デスクは黒く塗装とそうされたオーク材が窓からの光を浴びて、いかめしい木目を際立たせていた。


「三〇七はどうしている」


三〇七とは私と会話を交わした死刑囚のことだった。


「平静に過ごしています」


「それはなぜ?」


私は考えてから言った。


「死ぬのが怖くないのでしょう」


所長は怒りだした。「死ぬのは常に怖くなければならん。それは倫理の偉大な門番であり、人間社会という薄っぺらい紙が風で吹き飛んでいかないようにするための最後の重石おもしなのだ。もしも牢にぶち込まれて銃殺されるのを市民の誰もが恐れなくなったら規律というものはどうなる?」


どうなるのだろう。


「わかりません」


「君は配膳するしか能のない女だ」


所長はデスクの上の書類に目を向けてこちらに手をふった。出ていけ、ということだろう。


私は所長室を出て廊下を歩き、配膳室に向かった。途中でジョンについて考えた。三〇七と呼ばれている囚人。私の幼馴染おさななじみ。昔はよく遊んだ。


「もう全部運ばれちまったよ」


配膳室につくと上司の男からそう言われた。配膳室にはさまざまな食材の残り香がまじりあってただよい、こちらの食欲だけを刺激してくる不快さがあった。


私はそこを出て三〇七番の牢に向かった。次の仕事まで時間があった。


鉄格子越しにジョンと会う。


「あなたのこと、所長が怒っていたわよ」


「どんな風に?」


「死ぬのを怖がっていないのはけしからんって」


ジョンは笑った。


「怖くないわけじゃない。でも無になるだけだからね」


「無」


「僕らはみんな母親の子宮の中で造られた。子宮の中は最初、無だった。やがて無から有へと大いなる移行が起こった。それが僕らなんだ」


ジョンは牢の壁に背をもたれて座っていた。


「まだ無だった頃は母親は僕らのことを知らなかった。つまり母親が僕らについて怒ったり、嬉しがったり、悲しんだりすることもなかった。それと同じだと思えばいい。僕らは死んでもまた無の状態に戻るだけだ。誰も無について怒ったり泣いたりすることはできない。だから僕はそこまで死が怖いわけじゃない」


屁理屈へりくつだった。私は黙って目を伏せた。こんな話をしたいわけじゃない。


「昔の話をして。私たちが学校ではじめて深く話しあって、英国の音楽について、トラヴィスについて話をしたときのことを思い出して。放課後にはすてきなカフェにいき、私もあなたもコーヒー一杯でねばっていた。笑ってた」

 

ジョンは立ち上がり、鉄格子の手前まで近づいてきた。彼は穏やかな目つきで私の顔をのぞき込むと、おもむろにうなずいた。彼の目は私を見ながらも同時にどこか遠いところを望んでいるようだった。


ジョンは私の期待とは違った話をした。


「シオリもやがて成長し十五歳になる。自分がボーカルとなってロックバンドを組もうと奔走ほんそうしたり、ボーイフレンドをつくったり、ボーイフレンドと喧嘩けんかをしてほおをはたいたりする。


でもシオリはその男の子のことが本当に好きだった。ロックバンドのメンバーが誰も集まらなくて落胆したから、その怒りを男の子にぶつけただけだった。自分はこんなに歌がうまいのになぜ誰も集まらないのだろうと不思議に思いながらも、シオリは男の子と仲直りをするために弁当をこしらえた。母親に教わりながら台所でがんばった。彼女は男の子が喜びそうな料理をつくって学校に持っていった。


そしたら男の子は激しく怒って弁当をひっくり返し、中身をシオリの顔にぶちまけた。弁当がとてもまずかったのだ。シオリははじめて料理をしたから仕方がなかった。彼女は泣きながら教室の床を掃除した。その男の子は紳士的とは言いがたかったが、シオリの方も男の子に対してそれまでずいぶん無礼な態度をとってきていた。にもかかわらずキスのひとつだってさせていなかったから、残念だがこれは当然の帰結だったと言える」


ジョンは一体何が言いたいのだろう。私は腹が立ってきた。


「そろそろ清掃の時間だから、いくわね」


私は牢の前を立ち去り、掃除用具のある部屋に移動した。掃除用具をカートに入れて、押しながら廊下をいく。


私はエントランスの訪問者用のロビーの床をモップでみがいた。窓ガラスに洗剤を吹きかけて雑巾をかけた。椅子をみがき、ごみ箱のごみを回収した。職員に声をかけて受付のカウンターの裏を清掃した。


場所を移動する。職員たちのデスクがある部屋を訪ね、デスクの間をいききしてごみを集めたり床をみがいたりした。その部屋の前の廊下もみがく。


時間がきた。私は掃除用具をもとの部屋に戻し、タイムカードを切った。ロッカールームにいって着替え、刑務所を出ていく。労働。いつもと同じことのくりかえしがまた終わった。


翌日になった。あまたの礼儀正しい囚人たちが収容された監獄に私はまたやってきた。


朝の配膳をする。三〇七番まで来る。


「生きていることに意味ってあると思う?」


私が問いかけるとジョンは微笑んだ。  


「スージー。君はいつも本質的な話をしたがるね」


「あなたはじきに死ぬのよ」


本質的な話をしない理由がない。


「でも本質は危険で空虚くうきょだ。僕らはドーナツの上をドライブしている。ダンキンで売っているようなリング状のドーナツの上を。中心に近づくとそこには穴があって僕らは落下してしまう。本質ってそういうものなんだよ。むやみに近づくとわからなくなってしまう。太陽を見つめられないのと同じことだ」


私は思わず叫んだ。


戯言ざれごとはやめてちょうだい。私、あなたがここに収監されたときは本当におどろいた。あなたがしたひどいことについて書かれた新聞記事をくりかえし読んだし、こうして何度もここをたずねてきて、あなたのしたことや、そこにいたった経緯を理解しようと努めてきた。少しぐらいこたえてくれたっていい」


私は鉄格子にすがりついてくずおれた。額を鉄格子にぶつける。自然と目頭が熱くなってきた。


ジョンが優しい声音で語りかけてきた。


「泣いてはいけないよスージー。君の涙は貴重だ。それは使われるべき肝心な時と場において使おう」


ジョンはささやかな音量で口笛を吹いた。彼はトラヴィスの曲の出だしのギターをなぞっていた。ラブ・ウィル・カム・スルー。私の一番のお気に入りの曲で、昔はよく彼と歌ったものだ。ジョンはギターがうまかった。


私は泣くのを我慢して顔を上げた。ジョンが口笛をやめてこちらを見つめた。私はコーラスの部分だけ声を抑えて歌った。それは歌とささやきの中間のような行為だった。


ジョンは次に別の曲の出だしを口笛で吹いた。ウォーキング・イン・ザ・サン。明るい曲だ。私が軽く歌うと、ジョンはにっこりと笑顔をつくった。ソング・トゥ・セルフ。ムーヴィング。我々は曲の一部を交互にかなでていった。ところどころ好きな部分だけをつまむようにして、ジョンは口笛で、私は歌で。


最後にフラワーズ・イン・ザ・ウィンドウを歌ったが、私は思い出してミュージックビデオの奇怪な内容に文句を言った。臨月間近の妊婦たちがたくさん出てくる映像だ。その街ではほとんどの住民は女性の妊婦で、彼女たちは大きなお腹を抱えたまま卓球や水泳をする。老女でさえそこでは妊娠しているのだ。最後は鎖につながれて囚われた男性がひとり出てくる。それはなんだか美しい曲調のラブソングにふさわしくないおかしな映像だった。私はかつてジョンに向かってミュージックビデオへの不満をくりかえし語ったものだ。ジョンは毎回同意してくれた。


「そうだね。確かにちょっとウィットに富みすぎているかもしれない」


今回もジョンはそう言って微笑んだ。


無言の時間が下りる。


長い沈黙。


うつろであること。空気中にひとつも音のかけらが含まれていないこと。


「シオリはどんな子だったと思う?」


ジョンがそう言ったので私は答えた。


「きっと、あまり髪は長くないわね」


「うん」


「多分チョコレートが好きで虫歯が多い。歯医者は大嫌い。だからお母さんに言われてもすっぽかすことがある。でもおばあさんに言われると素直に歯医者へいく」


「コーヒーは好きかな?」


「もちろん、好き。浅煎りが好みで深煎りは絶対に飲まない。生産地が選べるならホンジュラスを選んでチョコレートのおともにする」


「ボーイフレンドはコーヒーは……」


「ボーイフレンドはコーヒーは嫌いだった。でもシオリにつきあわされて我慢して飲んでいた。そこらへんも破局の理由ね」


我々はそうやってシオリという架空の女の子に肉付けをおこなっていった。誰からも嫌われている女の子。あまり美人でないし、よく失敗する。でも活発で自分というものを持っている。


ジョンは私の与えた設定をもとにまた新たな話をつくった。シオリは大学生になった。大学では奇跡的にバンドメンバーが集まった。メンバーは全員女の子で、もちろんシオリはボーカルで楽器はやらない。シオリは実際に歌がうまかった。そしてはじめてのライブハウスで熱演をするが、彼女は最後の曲目で失態をやらかしてしまう。飛びまわってギターのエフェクターの電源コードに足をひっかけて抜いてしまうのだ。ギターの音が出なくなってメンバーたちは混乱してしまう。そこで演奏はストップ。ライブ後は彼女たちは意気消沈して家路についた。


翌日にシオリは朝早く起きて、たくさんサンドイッチをつくって大学に持っていった。メンバーたちに謝り、空いている教室に移ってそこでサンドイッチをふるまう。魔法瓶にれてきたコーヒーも紙コップにいだ。


そのサンドイッチはまったくまずい代物しろものだった。鶏肉にマスタードを塗りすぎていたり、卵にはからが混じっていたりした。でもメンバーはこらえながら食べた。彼女たちはシオリを好きになりかけている自分たちに気がついた。でも最後にはベースの子が「あんた、もっと気をつけて料理をつくりなよ」とシオリを厳しくいましめた。


特に着地点のない話だった。でも私はジョンの語った話に満足していた。


ジョンは私から渡された食事を食べ終えると、空になったトレイを返してきた。私はそれを回収して配膳車を押し、別の牢に移動した。そこでまた食事のトレイを配ってまわる。礼儀正しい囚人たちが食べ終えるのを待ち、トレイを集めて配膳車に収める。


そのくりかえし。


配膳室に戻る。


そこで待っていた職員に今日の仕事を言い渡されたので、私は作業に移ることにした。まずは決められた通り所長室にいく。所長はいなかった。私は掃除をする。床をていねいにみがき、窓ガラスをく。ごみ箱のごみを回収し、扉まできっちり雑巾で拭く。


終わり。


私は掃除用具を用具室に戻し、ふたたび三〇七番の牢に向かった。次に定められた作業はもう少しあとに始めてもよかった。時間がある。ジョンと話をしよう。


三〇七番の牢はからだった。


私は嫌な予感がして刑務所の中をかけまわった。どこだ。どこにジョンはいる。


上司の男と廊下ですれ違った。私は彼を呼び止めると「三〇七番の牢が空なんです」と訴えた。


「そのことか。スージー、君も来るか? 面白いものが見られるだろう」


「面白いものって何ですか?」


私は上司に導かれて刑務所の内庭うちにわに移動した。


内庭はそびえ立つコンクリートの壁に囲まれていた。壁はそれ自体が圧力を持っているかのように中にいる人たちを傲然ごうぜんにらみつけ、抑えつけて外へ出すまいとしていた。天空には灰色の分厚い雲があり、地上に整然と並んだ人の群れを見下ろしていた。人の群れの中央には木製の大きな十字架があって、男がひとりしばりつけられていた。


ジョンだった。


人の群れは囚人だった。彼らは十字架の左右に列をなして黙ってジョンを見ていた。十字架の向かい側には銃を持った職員たちがいて、その背後に所長がいた。


所長は大きな声で「始め」と号令した。すると三人の職員が一斉に銃を両手で構えた。銃の上部には小さなガラスの窓がついた箱が取りつけてあった。照準器だ。私は十字架の方を眺めた。赤い光点がジョンの胴体の上を運命的なほど遅い速度でいまわっていた。ジョンは平然とした顔で前を見つめていたが、よく見ると顔色が悪い。血の気が失せている。


やがて光点は三つとも胸の中央に集まった。そのまま長い時間が経過した。


所長が「やれ」と号令した。すると職員たちはわずかに銃を動かし、赤い点を胸から指先へと移動させた。右手の人差し指、親指、左手の中指に光点が浮かび上がった。


銃声が起こった。狙われた三本の指が吹き飛び、体が痙攣けいれんした。私はその瞬間のジョンの表情の移り変わりをはっきりと認めることができた。驚きのあまり目を丸くするジョン。何が起きたかをさとり、微妙にまなじりをゆがめるジョン。苦痛を意識して眉間みけんしわをよせるジョン。彼は痛みのためか、きつく拘束された体をわずかに揺らしていた。


所長は用意されたパイプ椅子に音を立てて座りこんだ。職員たちは銃を構えるのをやめなかった。礼儀正しい囚人たちもジョンを見つめるのをやめない。そのまま何も起こらずに数分が経過した。彼らは死刑囚をなぶっているのだ、と私は思った。十字架の足元では失われた指の断面から落ちた血のしずくが地面をらしていた。


「やれ」


所長がまた号令し、発砲が起こった。今度は足だった。足首とすねが銃撃され、ジョンは苦痛のあまり額から油汗を流した。私はその凄惨せいさんな光景から目を背けることができなかった。見たくない。でも私は見届けなければならない。


隣に立った上司が言った。「あの男は強盗に入った先の一家を皆殺しにした。これはしかるべき刑罰なんだ」


また所長の号令と発砲。今度は肩と太腿だった。職員たちは銃撃のたびに体の隅から中央へと徐々に照準を移動させているようだった。


ジョンが苦痛にうめくだけの時間が過ぎた。私は祈っていた。何も起こらないまま二十分が経過し、私はそのあいだ自分の胸に手を当てていた。


所長が立ち上がって「やれ」と言った。


発砲。銃弾はとうとうジョンの心臓を貫いた。その胸から勢いよく血が噴き出る。


やがて十字架からジョンの体が下ろされ、死亡が宣言された。所長が命令を下し、囚人たちは拍手をして刑の執行をたたえた。ジョンが無になった、と私は思った。


何もない。


◆◇◆


三年が経過した。監獄での仕事をやめた私は母の勧めにしたがって結婚した。夫は素敵な人で音楽の趣味も一致した。我々は好きなロックバンドのライブにいくために渡英し、フランスの劇場にいってバレエを鑑賞し、トルコへ旅行にいって石灰棚温泉に足を浸した。いく先々で我々はその地の名物を食べた。アフタヌーンティー。ガレット。テスティケバブ。


やがて子供が生まれた。私はようやくそこで料理を学び始めた。包丁の使い方を習い、野菜や肉を切れるようになった。計量カップやスプーンの使い方を学んで適切な量の塩や小麦粉を加えられるようになった。ブレゼ、シマー、デグラッセなど、レシピに書かれた学術用語のような言葉も理解し始めた。


夫は健啖家けんたんかだったので私は何でもつくっては彼に食べさせて試した。夫はいつも喜んで食べてくれたし、私に感謝を示してくれた。そのうえで好みの味つけを伝えてくれたから、私もすぐに次の料理で彼の注文を反映させられた。中でも夫が美味だと言ってくれたのがビーフシチューで、私はたっぷりの玉ねぎとマッシュルームを入れるのがつねだった。夫は喜んでビーフシチューを食べ、茶色いスープを口元につけて笑顔をつくった。


子供はすくすく育った。女の子で、元気に庭をかけまわった。休日の朝には夫がピアノを弾いて、我々は三人で歌を歌った。ビートルズのイエロー・サブマリンやオール・ユー・ニード・イズ・ラブだ。娘は調子はずれだったが天使のように可愛らしく歌った。我々夫婦は娘を抱きしめて何度も頬にキスをしたものだ。


娘が七歳になったら我々一家は日本へ旅行にいった。京都や奈良の寺院を見てまわり、料亭で蕎麦そば寿司すしを食べた。


旅程の最後の日の午前のことだった。京都の商店街を一家で歩いているときに、私は画材屋の前で立ち止まり、なぜだか吸い寄せられるようにして店内に入り、そこに飾られているあざやかな色合いの色鉛筆を購入した。四十色の油性色鉛筆で、それなりの値段がした。


帰国したら私は取りつかれたように何日間も画用紙に向かって絵を描いた。女の子の絵をたくさん描いた。絵は幼い子供のこともあれば年頃の女の子であることもあった。


「ママ、この絵はなあに?」


途中で何度も娘から聞かれたが、私にもわからない。


ちょうど二十枚の絵を描き終えたところで、私は全身から力を抜いて呼吸をした。一仕事ひとしごとを終えた気持ちになった。このところずっと背負っていたものがなくなった感じがする。


椅子に座っていた私の膝の上に娘が乗ってきた。


「ママ」


私は娘を抱きしめた。すると、絵を前にして突然物語が頭に浮かび上がってきた。


それをそのまま娘に話して聞かせることにする。


「この絵はどれもイチコという名の女の子よ。日本に住んでいる。イチコには両親がなくて、おばあさんおじいさんと暮らしていた。彼女は誰にでもつんけんとした態度をとっていたから、誰からも嫌われていた。でも別に大丈夫。ひとりでも彼女は楽しく遊んでいた。人のつくった砂場のお城を崩し、すべり台を逆から昇り、泥団子をつくって他の子供に向かって投げた。


そんなイチコもやがて料理と出会う。おばあさんから習っておにぎりをこしらえ、スクランブルエッグをつくった。少しつくりすぎたその弁当を学校のハイキングの行事に持っていった。するとイチコはクラスで一番誰からも相手にされていない女の子が、食べる物を何も持ってきていないのを発見した。その女の子の名はキヨミといった。キヨミがぽつねんと山の休憩所の隅に座っているのを見かけて、イチコは自分の弁当の一部を分けてやった。キヨミは喜んでおにぎりとスクランブルエッグを食べた。

 

それ以降キヨミはイチコについてまわるようになった。学校の休み時間にひとりで校庭に飛び出ていくイチコをキヨミは追いかけた。イチコははじめキヨミのことがあまり好きでなかったので鬱陶うっとうしく思っていた。でもイチコはおばあさんと夕飯の料理をする予定の日に、キヨミを家に誘うことを思いつく。イチコは料理をつくるのは好きだがつくりすぎてしまうところがあった。同い年のキヨミがいればそれを食べて片付けてくれるだろう、とイチコは考えたのだ。


イチコはキヨミを家に招き、おばあさんとともに豚肉のカツをつくり、キャベツを千切りにし、ナスを炒めて、白米と一緒に食卓に出した。おじいさんもキヨミもおいしいと言ってくれた。特にキヨミはあっという間に食べてしまったから、イチコはその食べっぷりを見て大いなる満足感を覚えた。


以来イチコは定期的にキヨミを自宅に誘って手料理をふるまうようになった。イチコは料理の腕が上がっていくのが面白くて仕方なかった。それと自分でも気づいていなかったが、実のところキヨミのことを友達として好きになっていた。二人は学校内でも放課後でもよく一緒に遊ぶようになった。


やがて二人は中学生になった。通う先は二人ともまた同じ学校だった。中学生になるとおばあさんはイチコに多くの小遣こづかいを与えるようになり、イチコはそれで調理道具をそろえた。よく切れる包丁に圧力鍋。イチコの料理の品目はますます増えて、キヨミも大いに満足した。キヨミは食べる側として味つけについて色々と注文を出した。その注文はどれも的確だったから、イチコはそれに従って自分の料理の腕を着実に向上させていった。


あるときキヨミは亡くなった。キヨミは自分の両親に首を絞められて殺されてしまったのだ。両親はすぐに逮捕され、事件は盛んに報道された。


もちろんイチコは泣いた。涙が枯れはてるまで泣いた。涙が次から次へとあふれ出てきた。


半年後、彼女は人が変わって、誰に対しても愛想がよくなった。よく机に向かうようになり、学校の成績も良くなった。イチコはことあるごとにクラスメートを家に誘い、手料理をふるまい、勉強を教えて、誰からも人気をはくするようになった。


イチコもいつしか大人になる。彼女は一流のレストランのシェフになった。雑誌やテレビで紹介され、看板シェフとしてレストランを盛り立てていった。ユーチューブでもレシピを配信し、とても人気になる。偶然知り合った素敵な男性と結婚をし、愛らしい子供だってできた。幸せな日々だ。


イチコも歳をとり、ついに自分の子供に料理を教える日がやってきた。ていねいに包丁の使い方を教えて、火のあつかいも注意深く指導した。教えながらイチコは大切なことを忘れている気がする。子供はなかなか料理の腕が向上しなかった。イチコはそのことにすっかり苛立いらだった。すると子供は面倒な授業に腹を立てて、イチコと厳しく対立した。


残念だがイチコは子供に料理を教えることをあきらめざるを得なかった。対立は苛烈なもので、親子の仲は冷めたまま時が経った。


やがて子供も成長し家を出ていくときがきた。イチコはそこで決心し、子供を連れてキヨミの墓参りにいくことにした。彼女はそこで我が子に大切なことを伝えなければならないと考えていた。料理そのものよりも大切なことがあるはずだ。それが何かはイチコ自身にもわからないが、墓前に立てばおのずと言葉は出てくるに違いなかった」


話しながら私はこみあげてくる強い感情に耐えていた。私は娘に対して物語を語っているのではなかった。私は自分自身に向かって語りかけていたのだ。かつて聞いた言葉が思い出された。物語に意味や目的地は必要ない。ドライブをすること。それ自体が肝要なのだ。


台所から夫が姿をあらわした。彼は三つのティーカップとクッキーの盛られた皿をトレイにのせていた。夫がそれを運んできてテーブルの上に置いたときには、私はもう涙を流していた。娘が「ママ、泣いてる」と言った。夫が私の肩に優しく手を置いた。

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