第14話 契約妻の女官勤め(8)
「撫子。こちらへ」
お仕えするようになって七日目。夕食後に、撫子は女官長から呼ばれた。
本日は女官の一人が体調不良で休んでいるため、いつもより長時間の勤務であった。
「今から東宮さまのお薬のお時間です。東宮さまがこのところずっと眠りが浅く、朝も気持ち良くお目覚めになれておられないことは知っていますね」
撫子は頷いた。
「そのせいかお気持ちも不安定で、お勉強に集中することもあまり出来ておられません。その体質を改善するために、漢方をお飲みになるよう東宮
女官長はどうしたらよいのか困った表情で、息をついた。
「お薬がお嫌で、まったく飲もうとされないのです。仕方がないので貼り薬をご用意いたしましたが、効果は見られませんでした」
「は、はい」
「そこであなたには、お薬を飲むようお声をかけてもらいます」
「! わかりました」
ようやくめぐってきた機会に、撫子の返答には強い気持ちがこもる。
さすがに七日目にもなると、優雅の視線が
東宮の様子を心配しているのか、しばしば庭でも様子を窺う彼の姿を見かける。朝の散歩は、断られているのに。
優雅は東宮が眠れているのかも、気にかけていた。
東宮に薬を飲んでもらい、もし
東宮は一階の中央に位置する、
用意されたのは気を落ち着け、安眠の効果があるという漢方薬だ。
撫子は薬と
白い寝間着姿の東宮は、不機嫌そうな面差しで眺めていた。寝る前の今も、頭に白い布を
体力づくりの時などは外しているが、それ以外は頭にかけるか握りしめていることが多い。
撫子が目の前に現れたことに対しては、特に何も言わなかった。
「東宮さま、お体の調子を整えるお薬です」
撫子は声をかけて促した。
側には女官長と、
東宮はそろそろとお椀に手を伸ばした。
その動きに、撫子がほっとした直後。
ぱしゃっ、と正面から水をかけられた。
「そなたが飲んだらよいだろ」
強い口調ではないが、むくれたような声で東宮は告げた。
一瞬何が起こったかわからず、撫子は固まってしまった。
お椀の水を東宮にかけられたのだ、ということにやや遅れて気付く。
「お謝りなさいませ、東宮さま。どのような理由があろうとも、人に向けて水をかけるような振る舞いをしてはなりませぬ」
それまでけして声を荒らげたりしなかった女官長が、厳しい声音で告げた。
「まあまあ、東宮さま。取り上げたお椀のお水が、たまたまかかってしまっただけですわよね」
他の女官がとりなそうとしたが、女官長の視線は揺るがなかった。
「悪いことをしたら謝る、当然のことです」
女官たちの異なる対応に、東宮は目をさまよわせると、うつむいた。
その唇は引き結ばれていて、頑として謝ろうという素振りは見せなかった。
東宮の振る舞いに、しばらく動けなかった撫子だったが、まず投げられたのが薬ではなくて良かった、と思った。
拒絶されてしまった衝撃はあった。そのまま下がった方がいいのかもしれない、とも思った。けれど。
撫子は、呼吸を整えると一歩進み出た。
「……では、お薬を頂戴してもよろしいでしょうか」
「えっ……」
宮中のしきたりの一つとして、食事など下げられたものは女官や臣下らに与えられるというものがある。きっとこれはその解釈の一つとして、考慮してもらえるはずだ。
そして、撫子が以前より気になっていたことがあったのだ。
撫子は、紙に載せられていた粉を口に含んだ。
次の瞬間、予想通りというべきか、漢方独特の草木を干した何ともいえない香りと、喉の奥から広がる苦味が舌に広がった。撫子は思い切りむせ込んだ。
「に、苦い……」
良薬口に苦し。というが、これを飲むのは相当辛いだろう。
周囲が
だから、東宮がどんな表情で撫子を見ていたのか、気付くことは出来なかった。
*
「今日はいつもより沈んだ顔をしているな。何かあったのか?」
夕食の席で優雅は尋ねた。夕食といっても、時間帯としてはほぼ夜食である。
そのため、どうしても作り置きのものが多く、ほとんどの料理は冷めていた。主食は山菜の炊き込みご飯をおにぎりにしたもので、本来なら冷めても
周囲に使用人の姿はなく、優雅と二人だけの席である。今なら話してもよいだろうか。
「実は……」
撫子は優雅に一連の出来事を報告した。
「何の成果も得られず、さらにご機嫌を損ねてしまいました……」
水をかけられたことを思い出し、涙が出そうになった。
怒りをぶつけられたことが辛かったわけではない。
ただ、他の女官に冷たくあしらわれることよりも、慣れない言葉遣いや振る舞いに陰でひそひそ言われるよりも。
たった一人の幼子の拒絶の方が撫子は辛かったのだ。
それまで胸の内で抑えていた心配や不安が、明確な形を持って襲ってきた気がした。
力になりたいが、やはり自分には難しいことなのかもしれない。
愛情を知らない撫子が、東宮の心に触れることなど。
頭の中が
飲んだ薬の作用による眠気が襲ってきたのだ。沈んだ顔をしているのは、薬の眠気を耐えているのもあるのかもしれない。
「……お役に立てず、申し訳ございません……」
そしてもう限界であった。ぐらりと目の前の景色が揺れる。
そのまま撫子は、意識を失ってしまった。
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ここまでお読みいただきありがとうございました。試し読みは以上です。
この状況を、撫子はどのように挽回するのか……。
続きはぜひ書籍版でお楽しみください!
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