第5話『灯の部屋』
玄関に、見覚えのない傷があった。
私は仕事から帰って、靴を脱ぐときに気づいた。床に、浅い擦り傷。いつからあったのか。今朝は気づかなかった。掃除のときにつけたのだろうか。
私は傷を指でなぞった。そして、息が止まった。
この傷——見覚えがある。
麻衣の部屋の、寝室の角にあった傷と、同じだ。
私は立ち上がり、リビングに入った。いつもの部屋。いつもの家具。何も変わっていないはずなのに——。
ソファの位置が、ずれている。
ほんの数センチ。でも、確実に動いている。
私はソファを元の位置に戻した。しかし、胸の奥に冷たいものが広がっていく。
誰も来ていない。鍵は閉まっていた。では、なぜ——。
翌朝、キッチンで朝食を作っていると、妙な違和感があった。
窓を開けるとき、私の手が——特定の角度で、止まった。
新井さんの家の窓と、同じ角度。
私は慌てて窓を全開にした。しかし、その動作をしたとき、体の奥に抵抗感があった。まるで、「その角度で開けてはいけない」と、誰かが言っているような。
出勤前、マンションの階段を降りた。13段目——。
私の体が、勝手に振り返った。
玄関の鍵穴を、私は見つめていた。
違う。これは私の家じゃない。ここには鍵穴は見えない。なのに、なぜ私は振り返ったのか。
私は慌てて階段を降りた。足が震えている。
その夜、私は自分の部屋を見回した。
玄関の傷。ソファのずれ。窓の開け方の癖。階段での振り返り。
これらは——私が訪れた五軒の家で、見た「生活の癖」だ。
麻衣の部屋の角。桐谷さんの廊下。新井さんの窓。田村さんのキッチン。森田さんの階段。
それらの家で、前住人が残した「生き方」が——今、私の体に染みついている。
私はリビングの床に座り込んだ。自分の動線を思い出す。朝起きて、キッチンへ。窓を開けて、朝食を作る。玄関から出るとき、階段を降りる。
その動線が——もう、私のものではなくなっている。
誰かの歩き方。誰かの窓の開け方。誰かの立ち位置。誰かの振り返り方。
五軒分の「誰か」が、私の中で生きている。
私は震える手で、紙とペンを取り出した。自分の部屋の間取り図を、描いてみる。
玄関、リビング、キッチン、寝室、バスルーム——。
驚くほど正確に、描けた。
私はインテリアコーディネーターだ。間取り図を描くのは慣れている。でも、これは——。
自分の部屋を、まるで他人の家のように、観察している。
私は図面を見つめた。そして、気づいた。
余白がある。
リビングの隅。ソファの後ろ。私が普段、決して立たない場所。
でも図面を見ると、そこに——空間がある。
私の動線には入らない、使われていない空間。
私は立ち上がり、その場所に行った。ソファの後ろ、壁との間。
床を見ると——。
足跡があった。
いや、足跡ではない。床の色が、わずかに違う。誰かが、ここに立っていた痕跡。
でも、私はここに立った覚えがない。誰も来ていない。では、誰が——。
私は膝をついて、床を触った。冷たい。そして、わずかに湿っている気がした。
この場所から、リビング全体が見渡せる。ソファ、テレビ、キッチン、玄関。
田村さんのキッチンで感じた、あの視線と同じだ。
誰かが、ここに立って、私を見ている。
私は慌ててソファの後ろから出た。部屋の中央に立ち、周囲を見回す。
何も変わっていない。いつもの部屋。いつもの家具。
でも——この部屋には、もう私だけが住んでいるわけではない。
五軒分の「生活の癖」が、ここにある。
そして、その癖が作り出した「余白」が、ここにある。
私が立たない場所。私が開けない角度。私が避ける角。私が数える包丁。私が振り返る段。
私の動線は、もう私のものではない。
私は間取り図をもう一度見た。余白の場所に、印をつける。
そして、気づいた。
その余白——私は、作っていない。
誰かが、作った。
私が訪れた五軒の家の「前住人」たちが、私の体を通じて、ここに——余白を作った。
私は紙を置いた。立ち上がろうとして、止まった。
玄関から、音がした。
鍵が開く音——いや、違う。鍵穴を、誰かが覗いている音。
私は13段目で覚えた動作を思い出した。振り返って、鍵穴を確認する。
私の体が動く。玄関に向かう。鍵穴を見る。
誰もいない。
でも、私の体は知っている。
誰かが、外から見ている。
私は玄関から離れた。リビングに戻る。窓を閉める。特定の角度で。
角に近づかないように、歩く。
キッチンで、包丁の本数を数える。一本、二本、三本——。
私は、もう自分が誰なのか分からなくなっていた。
五軒分の恐怖が、私の中で生きている。
そして、その恐怖が——この部屋に、新しい「生活の癖」を刻み始めている。
私の動線は、もう私のものではない。
そして、その余白だけは私が作っていない。
間取りの傷――前住人の生活が、私の体を乗っ取る ソコニ @mi33x
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