知らないあの人

宵月乃 雪白

あの人

 いつも決まった時間に決まった席に座るお客さん。顔は知っているけれど名前は知らない。

 いつもと同じ紺色のスーツを細身な体にまとい、黙々とパソコンと睨めっこし眉間に皺を寄せながらキーボードパチパチと叩いている。その合間合間にすするコーヒーの味は分かったようで分かっていないに違いない。

 ある程度時間が経つと一緒に注文したホットサンドを口にする。その短時間だけ、その人は解放されたようにうっすら微笑みを見せるのだが、食べ終わるとまたすぐに辛そうな表情でキーボードを叩き出す。

 そう、辛そうにパソコンと睨めっこするくらいならいっそのこと仕事なんて辞めてしまえばいい。自分たちの代わりなんていくらでもいるのだから。何十、何百、何千、何万と腐るほど人間はいる。その中の一人が欠けたとしても誰も困ったりはしないのだから。

「ご馳走様でした」

「お兄さん」

 小さな返却口越しに呼んでみる。特に意味はなかったけれど、なんだかこのまま帰してはいけないような。そんな変な感情に駆られ、つい話しかけていた。

「そんなに辛いなら仕事、辞めれば?」

 シュッとした瞳が猫のようにまんまるになった。けれど次の瞬間にはいつものやつれた表情に無理やり、笑みという仮面を付けたようなぎこちない表情になった。

「………どうして?」

 お客と店員という立場でいつ怒られてもおかしくないシチュエーションに、この人は子供の駄々を聞くようにじっと、自分が話し終わるのを風が吹き止むのを待つ風見鶏のように静かに待っている。

「いつも辛そうだから」

「そっか」

「人生一度きりなんだからさ、誰かのためじゃなくて一回くらい自分のために行動してみてもいいんじゃない?」

「そうできたら楽なんだけどね」

 そう言って苦笑を浮かべ、ありがとうと言い残して街の喧騒と共に消えていった。あの人の小さくなってゆく後ろ姿は戦に向かって行く小さな兵士のようで見ていると頭が痛くなってきたため早急に仕事に戻った。

 返却口に残された、名前の知らないあの人とその他の人の食器たちを洗い場に置きながら、頭の中ではあの人の微笑が浮かんでいる。

 次の日もその人は来た。いつも通りの時間に、いつも通りの席で、いつも通りのスーツで。けれど今日はハムが入ったサンドウィッチに黒糖ミルク、それからカボチャのタルトを頼んで、いつもより少しだけ薄くなった眉間の皺と共にパソコンと睨めっこしていた。

 

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