第2話

恵のデジタル二股生活は、エスカレートしていった。昼間は太郎の焼いた素朴なパンを食べ、夜は隠し持っているスマホで、アレスからの完璧な賛辞に酔いしれる。しかし、その満たされない承認欲求は、次のステージへと彼女を駆り立てた。


ある日、恵はSNSで、「美の女神決定戦タグ」が流行しているのを目にした。これは、特定の期間に最も多くの「美しさへの賛辞コメント」を集めたインフルエンサーに、「デジタル美の女神」の称号を与えるという、露骨な承認欲求マウント合戦だった。


ライバルは二人。 一人は、完璧なコスメ技術で知られるカリスマインフルエンサー「我良 華(われら はな)」。もう一人は、知的なポージングで人気を集める「アテナ」。


(華?アテナ?いいえ、このデジタル空間で、最も美しいのは私よ!)


恵の脳内では、「美の女神」の称号が、黄金のリンゴのように輝いて見えた。


太郎がプラモデルの塗装に熱中している横で、恵は連日、デジタル上の「美の戦争」に明け暮れた。太郎の作ったパンを素早く口に詰め込み、最高の光と角度を計算し、完璧な表情を作り上げる。


「太郎くん、ちょっと邪魔!お願い、そこ動かないで。光の当たり方が変わっちゃうから!」


「ごめんよ、恵。パンの仕込みが終わったから、今日は『最高のパンコンテスト』の最終審査に応募する写真を選ぼうと思って……」


「そんなのどうでもいいでしょ!今は私の美しさの勝負が大事なの!」


恵はそう叫び、太郎の「不器用だが愛の込められた現実のパン」への情熱を、完全に無視した。


勝負は、激戦となった。恵の「女神体質のバグ」で生まれた美しさは強力だったが、華やアテナもプロだ。互いにコメント欄で火花を散らし、フォロワーを動員した。


そして、締め切り直前。恵は、ライバルたちを突き放し、ついに「美の女神」の称号を手にした。通知欄には、「おめでとう!真の女神!」というメッセージが溢れかえった。


勝利の歓喜に酔いしれていると、太郎が静かに声をかけた。


「恵……ごめん。今日の『最高のパンコンテスト』、最終審査の結果が出たんだ」


「あ、ああ、そう……それどころじゃないって言ったでしょ」


「いや、違うんだ。僕のパンが、一位になったんだ」


恵は動きを止めた。一位?太郎の、形がいびつな、素朴な叫びのパンが?


太郎は続けた。「恵が、いつもパンを『映えないけど愛しい』って撮ってくれたから、不器用だけど愛があるって評価されたんだ。でも、表彰式……恵がいなかったから、寂しかったよ」


恵は、自分のスマホの画面を見た。そこには、「最も美しい女神」の称号。しかし、現実には、最も大切な夫の愛の成就を見逃した、最も孤独な妻がいた。


承認欲求マウント合戦というデジタル黄金のリンゴを手に入れた代償は、現実の愛と、夫の信頼という、かけがえのないものだった。



恵は、初めて自分の「美の女神体質のバグ」の恐ろしさを知った。完璧な美を追求した結果、愛は遠ざかり、現実の人生が破綻した。


(このままじゃダメ。私は、『いいね!』の数で測られる私じゃなくて、太郎くんの隣にいる私になりたい!)


恵が翌日、憔悴しきった顔で太郎に謝罪しようとしたそのとき、太郎はキッチンであるものを組み立てていた。


それは、アルミボックスよりも巨大で、キッチン全体を覆いそうな、手作りの金属フレームだった。


「太郎くん、それ、何を作ってるの?」


「これは、『デジタル・デトックス・シェルター』だよ」太郎は、工具を置いて言った。「恵が、あのデジタル美のマウント合戦で苦しんでいるのを見てわかったんだ。君に必要なのは、美の称号じゃなくて、現実の休息だ」


太郎の「デジタル・デトックス・シェルター」は、キッチンをすっぽり覆うように設計されていた。太郎は続けた。


「この中に入れば、スマホもPCも、一切電波が入らない。でも、パンを捏ねる作業台と、恵と二人分の椅子だけは置いてある。ここでは、誰も君を『美の女神』として評価しない。ただの僕の妻として、一緒にパンの失敗談を笑い合える」


恵は泣き出した。太郎の愛は、最も不器用で非効率的だったが、それは同時に、「デジタル美のバグ」を完全に無効化する、最高の防御マニュアルだったのだ。


恵は、デジタル上の完璧な美しさや承認欲求を、「完全に電波を遮断するシェルター」という物理的かつ非効率的な空間に閉じ込めるという、太郎のアナログな愛の論理を受け入れた。


恵は、太郎に抱きつきながら言った。


「太郎くん、私、もうあんな『美の女神決定戦』なんてどうでもいい。私にとっての一番は『最高のパン』、太郎くんが私のために焼いてくれるパンだよ」


恵は、太郎の不器用だが温かい愛を選び、デジタル上の理想の愛と決別した。


そして、その日の夜。恵のスマホに、デジタル二股の相手、アレスから最後のメッセージが届いた。


【アレス_戦神】 君は、もう僕の戦場には戻ってこないのか?君の美しさが、僕の戦意を高揚させたのに……


そのメッセージに対し、恵は、アルミボックスの中に隠しスマホを沈めることで、冷たい既読すらつけることなく、永遠の返答とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界一美しい妻と、世界一不器用な夫の愛し方 DONOMASA @DONOMASA

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ