灰色の海
カムリ
灰色の海
クマネズミは喉を引き絞るように鳴くのだと初めて知った。
結婚と同時に移り住んだ新居は、もう私たちの家ではなくなった。
ネズミは夜行性で、深夜に活動のピークが来る。建物の構造を利用して交尾に励むため、鳴き声が活発になる。ぢゅう、という鳴き声は遠近感を失い、ある時は床下から、ある時は壁の裏から響き、入眠を妨げる。
瞼は限りなく重いのに、靴の裏に挟まった小石のように、
ぢゅう。
またネズミの鳴き声がした。遠ざかっていた意識に波紋がささくれ、私は目を覚ます。起き上がる。誰かがお経を呟いている。お経ではない。私のうめきだと気付くのに、しばらくかかった。とにかく眠気を塗り潰したかったので、私は水を飲みに行く。コップを手に取る。中には黒く細長い粒々が落とされている。クマネズミの糞だ。移動しながら糞を垂れ流すため米のような形に引き延ばされるのだと友人から聞いた。私はコップを壁に叩き付け、絶叫した。
視界の端でさっと動く影がある。私は身を震わせる。
以前ネズミと一度だけ目を合わせたことがある。数珠のように真黒く、光沢を持ち、闇をつるつるに磨き上げたような瞳をしていた。ネズミと目が合って以来、私は母から貰った漆の器とか仏壇に飾ってあった数珠とかを全て捨てた。死を思わせる黒い眼に怯えたのではない。生きているはずの存在から、途方もなく無機質な害意を読み取ってしまうこと。ネズミたちの瞳に塗りこめられているのは生命の有機性の否定だった。
ネズミが家に出始めたのがいつのことだったかはわからない。
朦朧とした頭で思い出す過去は、引き延ばされた綿くずのように曖昧で頼りなかった。米袋の端にぎざぎざとした穴が開いていると気付いた時かもしれない。調味料の瓶の縁に彫刻刀で削ったような傷が残っていると気付いた時かもしれない。床に残されていた黒い斑点を塵と勘違いした時かもしれない。つまるところネズミは最初から私の家にいて、最後まで私の家を食い荒らしていたということだ。
次第にネズミは私たちの生活を明確に害し始めた。最初に被害に遭ったのは電源コードだった。ある日テレビが突然付かなくなった。コードを確認するとゴムの被膜が齧られた跡がぼろりと残されていた。私たちはコードを何度も交換し、ネズミ避けを設置し、粘着式の罠を置いた。すぐに家の中はネズミの死骸で埋まった。そして死骸の山を踏み越えるように、毎日コードは齧られていた。つられるように、テレビも壊れた。夫は言葉少なで世の中の物事の大半に関心のないひとだったが、夕方の釣り番組だけは欠かさず視聴していた。私は釣り番組を見ている夫が好きだった。箸を持ったまま、『今度、鱚釣りにでも行くか』とテレビを眺める夫の姿を見ることはもうできないだろう。
テレビの次は衣服だった。夫と交際していた時に着用していた麻のワンピースには足跡と糞が敷き詰められ、じゃぎじゃぎに齧穴が開いていた。白い麻は石綿のような泥汚れで踏みにじられている。布団からは綿がはみ出ていた。枕カバーの穴は毎晩増えていき、一週間続いたところで私は枕カバーを交換することをやめた。
食料の中で無事なのは強固な包装を持つ缶詰類だけだった。生鮮食品は中途半端に食い荒らされ、冷蔵庫の中にも至るところに糞が見つかった。パスタソースの中身は啜られ、アルミパウチから染み出した液汁が冷蔵庫の中をべっとりと汚した。糞と混ざった明太子を拭き取りながら、頭の中でぷちんと何かが弾ける。
荒れ果てた家で私は眠った。夫は数日前から家に帰って来ない。
自分の二重螺旋に隠された些細な復号ミスのせいで子供を産むことがだめになっていたのは知っていた。それでも私はこの家を守りたかった。この家は、夫と初めて一緒にこの世に作り出した価値あるものだった。
耳朶の最奥で毛が擦れ合う音が蠢く。鼓膜を食い破り、中耳を通じて脳に入り込む。松果体を丹念に食い荒らし、私の脳髄で気配は肥え太り眠る。
呼んだ駆除業者はネズミなどいないと言った。
絶対にいるんです。
糞もあるし、衣類も齧られてます。
食べ物だって全部やられて。毎日買い直しても食べられるから、
最近はずっと缶詰ばっかりでろくに食事できてないんです。
なんでもするから退治してよ。ねえ。
殺すぞ。
駆除業者がだめだったので、私は自分で家を守ることを決めた。
ネズミは隙間がなければ部屋に入って来られない。徹底的に構造を塞ぎ、
金網を買って来て、家の構造的な隙間を塞ぐ。エポキシパテで薄っぺらいベニヤ板を接合し、パテの上から金具で強度を固定する。
金槌で釘を打つ。ネズミの入り込む余地を残さないために。
だが、最後の一つを打ち終えた時、手元に地盤を当てたように固い感触が残る。
同時に、気泡が液体に爆ぜるようなぐぶという音がした。
作業していた足元を見る。
床には、喉に釘を埋めた夫が横たわっていた。
出っ張った喉仏が砕かれ、白い骨が粉状に散っている。
口には丸まった金網を入れられていた。
瞼はパテで塗り潰された上から、金具でしっかりと留められている。
水分を失った眼球が、潰れた水風船のようにひょろりとはみ出ていた。
私は金槌を放り投げて、家を飛び出した。
家に帰りたい。どこに?
帰る道は自らの手で塞いでしまった。
夜の街に出る。コンビニエンスストアのゴミ箱に、看板の裏に、側溝の奥に、黒い影が走り続けている。繁殖の鳴き声が聞こえる。ネズミは増え続けている。私の知らない間に。生まれてこないで欲しいと私は願った。
「ぢゅう」
私の胎の底から、小さく鳴き声が応えた。
灰色の海 カムリ @KOUKING
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