Ep.2 日常
トクシマさんがぼくを車に積みこんだ時には、もう日付が変わっていた。
「大変だったろうけど、二人とも生きてて本当に良かったね」トクシマさんはそう言ってから、明日の話を始めた。
「明日は忙しくなりますよね」カガワさんが懸念を口にした。
「大したことないって、なんとかなるよ」トクシマさんの返事にカガワさんは身を乗り出して、自分がどの部屋を担当するか尋ねた。
「ちょっとわからないなあ」カガワさんはその’確認’に肩の力を抜いて、シートに背中を預けた。
「エヒメに聞いたほうがいいね」
「はい、そうします」
彼らの声はぼくの頭蓋骨を引っ掻いた。
「明日は頑張って働きますね」ぼくは胸を押さえながら宣言した。
トクシマさんがバックミラー越しにぼくを見た。
目が合った。
「いい心構え、でもあんまり無理しすぎないようにね、アキちゃん」
ぼくは車の窓にため息を吹きかけた。
車がガードレールを突き破って空を飛べばいいのにと思ったが、ぼくたちは無事に寮に到着した。彼らはまるで死体を隠すみたいにして、ぼくを部屋まで運んでくれた。
トクシマさんは、明日は休んだほうがいいと冗談を言った。カガワさんは、このまま出ていってほしいか、着替えを手伝ったほうがいいかと尋ねた。「電気を消して、出てって」ぼくは笑って答えた。
耳鳴りの轟音はただ大きくなるばかりで、ぼくの感覚のすべてを覆い尽くした。暗闇の中で、ぼくの目は天井に釘付けになった。
ドアをノックする音で、ぼくは夢から覚めた。
目尻を触って、濡れていないことを確かめた。
窓から一筋の月光が部屋に差し込んでいた。
「アキ」エヒメさんの声が廊下から聞こえた。起き上がろうとすると、肋骨バンドが悲鳴を上げて警告した。
ドアの鍵が開く音が聞こえ、続いて彼の声がした。「アキ、入るぞ」彼は電気をつけた。
くすんだ光が彼のグレーのスーツを照らしているのを見て、ぼくは素足に毛布を引っぱった。
「お疲れ様です」と、茶色くて丸い顔に挨拶した。 彼は答えなかった。代わりに、ぼくのスカートとストッキングを拾い上げて机の上に放り投げた。
彼がベッドの脇に腰を下ろすと、部屋全体が右に傾いた。
彼が最初に口にしたのは、明日来る300人の中国人観光客のことだった。ぼくは「無理です」と伝えた。
「無理じゃない。カガワが仕事に出てるんだから、お前が出られないことないだろ」
ぼくは、彼の視線がぼくの肋骨バンドに落ちるのを見た。「いいか、大したことはしなくていい。顔だけ見せればいいんだ、な?」
「お疲れですね」と、冷たい窓に映る彼に言った。墨みたいに黒い瞳、少しだけ開いた厚い唇。
窓枠の中ではすべてがより鮮明に見えた。
「ああ、俺は『お疲れ様』だよ。お前は元気そうだな」
彼はぼくの鎖骨に沿って指を這わせた。彼の袖から店の匂いがした。
「そもそも、カガワと何をしていたんだ?」
「何も。送ってもらっていただけです」 ぼくはその匂いから顔を背けた。
「酔ってたんだろ?」
「酔わされたんです」
「お前がそれを許したんだろうが」彼が身を乗り出して、突然の寒気にぼくは毛布の下で足を絡めた。机に目を走らせて、そこにはスカートとストッキングしかないことを確かめた。
「お前これがどれだけマズいことなのか、わかってんのか?お前はまだ―」
「じゃあ、辞めますね」ぼくは囁いた。
「それは、」彼はうめいた。「…責任の取り方はそうじゃないだろ」ぼくは彼の声が変わったのに気づいた。「そうやって逃げていいのか?」彼の指が、シャツの襟に食いこんだ。
「…逃げたらどうなりますか」体温が上がるにつれて、室温がわずかに下がった。
「お前は逃げないよ」
ぼくの手が彼の手を取り、さらに下へ導いて、襟元の下の柔らかい皮膚の上に置いた。
「…明日はウォンさんが来ると思ってました」
「『ワンさん』は来る。みんな来るよ」重い溜息がぼくの顔に落ちた。ぼくは笑みをこらえた。
「カガワさんがわたしに何しようとしてたか、知ってます?」ぼくの爪が彼の手首の内側を引っ掻いた。彼の手がぴくりと動いて、力が入った。
「アキ。もうじき新入社員も入ってくるから。俺は、じゃなくて、お前は―そういえばお前、誕生日はいつだ?」
「昨日です」
彼が揉み始めると、ぼくの肋骨3本が悲鳴を上げた。
「お前さ、本当に何かを感じたことなんてあるのか?」その無力な声に、ぼくは顔を上げた。
「エヒメさん」ぼくはうめき声をこらえて、言葉を絞り出した。「辞表を受け取ってくれたら、わたしたち一緒になれますよ」
「もう一緒だろ」
「そうなんですか?」一筋の涙が頬を伝って、ぼくは吐き捨てた。 彼の肌は強い匂いを発散した。
「当然だろ」彼は身じろぎをして、時計をちらりと見た。「しばらくはここにいてやるよ」
ぼくは耳を澄ましたが、上の階も隣の壁も静寂に包まれていた。
「ありがとうございます」と、ぼくは彼に笑顔を見せた。
「お水を一本取ってきていただけますか?」ぼくはかすれた声で呟き、そっと彼の手をどけた。
「待ってろ」彼は急いで冷蔵庫に向かった。そのドタバタがぼくの頭を揺らして、時計の秒針が響いた。
彼の30分間の「看病」の間、蛍光灯が点滅したのはたった2回だった。
それは彼がこれまでぼくに与えた中で最も大きな痛みで、そして彼はこれまでにないほど無防備だった。それでも、もう十分ではなかった。
彼がそうしている間、ぼくは、1週間前に副料理長と喧嘩して辞めた大阪出身の若い料理人のことを考えていた。
彼は札幌に行くと言っていた。
「ドアに鍵はかけないでください」彼が出て行く時に、ぼくは頼んだ。
もう夜の10時だった。
ワイルドスピード サッポロドリフト 低泉ナギ @Eastern_wind
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